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日本史についての雑文その208 小浜と敦賀
このように、播磨平野に注ぐ揖保川、夢前川、市川、加古川の水系においては南洋系海洋民と東南アジア系海洋民の混交状態となっていき、そうした播磨地域と日本海側の丹波地域が交流するという形になっていったと思われ、丹波地域のほうは南洋系海洋民は進出していかなかったでしょうから、出雲文化に近い東南アジア系海洋民の世界がそのまま維持されていったと思われます。
その丹波地域の内陸水路について更に見ていくと、丹後半島の東にある若狭湾の中にある小湾である栗田湾に注ぐ由良川が円山川と並ぶ主要河川ということになります。由良川はここまで述べてきたように、福知山から宮津の河口までの下流域においては円山川や加古川に連絡する支流が合流してきたのですが、福知山からは福知山盆地を流れる中流域を東へ向かって遡ることになり、綾部を通過した後は山間部に入っていき上流域となっていきます。そして由良川の最上流部は京都、滋賀、福井の県境にある三国岳の山中で針畑川に乗り換えて、針畑川は滋賀県西部にある武奈ヶ嶽の西で安曇川に合流し、安曇川を下っていくと高島を通って琵琶湖西部の船木崎に河口を開いて注ぎます。

安曇川で琵琶湖に入ったらそのまま湖西岸を北上すると今津浜に石田川が注いでいますので、その石田川を遡って西方へ行くと、水坂峠で北川の上流に乗り換えて、そのまま真っ直ぐ北西へ向かって北川を下っていくと小浜市を通って小浜湾に注ぎます。
小浜市における北川と南川の作っていた下流域の低湿地帯と陸地の境目付近に若狭国一宮の若狭彦神社があります。ここの主祭神はヒコホホデミミコト、つまり山幸彦であり、日向神話の神です。しかし社伝の伝えるこの神の出現時の姿は明らかに別神で、渡来人風であり、元来は一種のエビス信仰のようなものであったのでありましょう。
これは要するに、もともとはおそらく出雲系の部族の海からやって来た祖霊信仰であったものが後に大王家に縁のある日向系で竜宮訪問などで海に縁の深い山幸彦信仰に習合していったということで、この地では大和王権成立後かなり早いうちから日向系の神への信仰が普及していたということであり、おそらくは若狭国は淡路国や明石国と同じように、天皇家、つまり海人氏の直轄地となったのではないかと思います。
それは日本海交通の重要拠点を押さえて日本海で遣り取りされる品目を大和へ引き込むという意味合いと、更なる重要拠点である敦賀防衛のためという意味合い、そして環日本海勢力の強大化を防ぐために楔を打ち込むという意味合いもあったのでしょう。

また、琵琶湖西岸を今津浜から更に北上して、琵琶湖北西岸にある知内浜に注ぐ知内川を遡って北上していくと福井と滋賀の県境にある国境で五位川に乗り換え、五位川は更に北上して下っていき、疋田で笙の川に合流して敦賀港から敦賀湾に出ます。
ちなみに、この疋田のあたりが不破関、鈴鹿関とともに古代の三関として知られる愛発関があったと言われている場所です。三関は畿内を東国からの侵略から守るために作られたもので、つまり古代においてはこの三関よりも東は「関東」ということになるわけで、この三関は全てほぼ近江国と若狭国の東の国境のライン上にあるわけですから、そこから先は異文化圏であるということは、逆に考えれば近江と若狭までは「丹波文化圏」としてある程度一連のものであったと考えていいのではないかと思います。
また、琵琶湖北西岸の知内川河口部から更に琵琶湖北岸の入り組んだ湖岸線を西へ進んでいき、琵琶湖最北端の塩津浜に河口を開く大川を遡り沓掛で船を下りて歩いて滋賀と福井の県境を越えて塩津街道を北上して笙の川の支流に乗り換え、疋田の少し東で笙の川に合流し、疋田を通って敦賀港へ出るルートもあります。
このルートが琵琶湖から最も短い内陸河川路を使って日本海へ出るルートであり、琵琶湖を使うことで河川通行のストレスを最小化することが出来るという意味で、瀬戸内海方面や伊勢湾方面から最も楽に日本海側に出るルートとして重宝されました。それゆえ敦賀港は古来から北陸道や山陰道、日本海への海上交通の玄関口として重要視され、そのような重要拠点であるためか敦賀港には越前国一宮の気比神宮があります。
気比神宮は気比大神を主祭神としていますが、もともとは海上交通の安全の神様を祭祀していたのでしょう。オキナガタラシヒメが三韓征伐の前に戦勝祈願を行い、三韓平定後に再訪して息子のホムタと気比大神の名前を交換したという伝承が日本書紀にありますが、これはつまり、この神社の神霊とホムタが一体化したということで、この敦賀の地の首長霊の正統な継承権をホムタが得たということになります。要するに、この敦賀の地が非常に重要な拠点なので、天皇家が直轄支配するようになったということです。

なお、この琵琶湖最北端の塩津浜なら湖岸線沿いに南下してくると琵琶湖に向かって南に葛籠尾崎が突き出していますが、その南に竹生島があり、島内に竹生島神社があります。ここは島全体がご神体で古来から信仰されており、安芸の厳島神社、相模の江島神社と並んで日本三大弁天と言われ、神仏習合によって弁財天が信仰されていますが、弁財天は水神に習合されるものですから古来からこの島では水神が祀られていたと思われます。
この島の周辺は琵琶湖の最深部で湖底は70m.下なのですが、どういうわけか葛籠尾崎との間に縄文時代にまで遡る水中遺跡があり、かつては地続きであったようです。どのようにしてその部分が水没したのか謎ですが、とにかく古くから琵琶湖の湖面交通が行われていたのは間違いないようです。
このように、宮津、舞鶴、小浜、敦賀という若狭湾内にある主要な港町は、海岸線を通じて繋がるだけでなく、琵琶湖を介することによって、それぞれの港から遡る内陸水路同士も連結するようになったのです。そしてまた、更に由良川から西方に繋がる内陸水路によって但馬方面や播磨方面にも繋がっていくことになったのです。

では、この丹波文化圏の東南方への繋がりはどのようになっているのでしょうか。東南方というと、つまり京都方面への繋がりということです。
琵琶湖西部に注ぐ先述の安曇川を遡っていくと、滋賀県西部にある武奈ヶ嶽の西で安曇川に合流する針畑川に注ぐ支流に久多川という川があり、これが三国岳の南麓の盆地の久多で能見川に乗り換え、この能見川がすぐに上桂川に合流します。
上桂川というのは要するに京都市街地の西を流れる桂川の上流部の名称の1つなのですが、桂川は上流部で名前を何度も変えるのです。南丹市に向けて南西に下っていくうちは上桂川、南丹市に入ると桂川となり、船岡で大きくUターンして南東方向へ向きを変えて園部市街地の北の山中を通ってから園部市街地の南東で園部川を加えて亀岡市に入ると大堰川と名を変えて更に南東方向へ下っていきますが、古代においては京都盆地に入る以前の上流域は一括して葛野川と呼ばれていたようです。ただ亀岡あたりでは古くから保津川と呼ばれており、それは亀岡にある出雲神社の祭神の1つである三穂津姫命の名に由来するようです。
亀岡の出雲神社は現在は出雲大神宮と言われ、保津川を見下ろす千年山という神体山の山麓にあり、丹波国一宮です。出雲国にあった出雲大社が江戸時代末までは杵築大社と称していたため、古代から一貫して全国の出雲神社の代表格がこの亀岡の出雲神社でした。出雲という名を冠した神社、もちろん主祭神は大国主命、つまり出雲のオオアナムチであり、そういう神社の代表がこの丹波の地、しかも京都のすぐ近くにあったということからも、出雲文化圏というものがもともとは相当広範囲、畿内地方にまで及んだものだったということが想像できます。

亀岡は丹波国の南東端にあり、京都の西北方面の入り口でもあり、安土桃山時代には明智光秀が根拠地としたことでも名高い重要拠点であり、この亀岡から保津川を北西に遡って園部市街地の南東部で保津川に注ぐ園部川を遡っていくと園部市街地を通り、船坂で船を下りて中山峠を越えて北西へ歩くと須知川に乗り換えることが出来ます。その須知川を下っていくと高屋川に合流し、高屋川は和知で由良川の上流域に合流し、和知から由良川を下っていくと綾部、福知山を経て栗田湾で日本海に注ぎます。
また、中山峠の西の須知川の最上流部は京丹波町の奥の京都と兵庫の県境で篠山川の最上流部に乗り換え、また園部川の最上流部も京都と兵庫の県境にある天引峠で篠山川の最上流部の別の支流に乗り換えることが出来ます。篠山川を下っていくと篠山市内で武庫川に乗り換え、三田や宝塚を通って西宮から大阪湾に出ます。また篠山川をそのまま下れば加古川に合流して播磨灘に注ぎます。
そして亀岡から保津川を下っていくと、保津峡を通り抜けて嵐山に出ます。嵐山より南は桂川と呼称することになり、松尾、桂など京都盆地の西端を南下して鳥羽で鴨川と合流します。鳥羽で桂川と合流する鴨川は京都盆地の東端を北から南へ下ってくる河川で、つまりこの鴨川と桂川の間に後に平安京が造営されることになるのです。また、ちなみにこの鳥羽の合流地点の西方に後に長岡京が作られることになります。
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