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日本史についての雑文その209 丹塗矢伝承
この鴨川を遡って京都盆地の東端を北上していくと、その中ほど、現在の四条河原町付近の東に八坂神社があります。八坂神社も含めて京都には数多くの神社がありますが、大部分は起源が新しく、信仰が弥生時代まで遡れないものが多く、この八坂神社も神社の起源自体は平安時代初期と新しいのですが、ここの主祭神はスサノヲで、出雲神話の主宰神なのです。あるいはこの地に古来からスサノヲ信仰があり、それゆえに後に八坂神社が創建されたのかもしれません。
何故そのように思うのかというと、八坂神社から更に鴨川を遡って京都盆地北東部で高野川が合流してくる地点にある、京都における起源の古い神社である賀茂御祖神社、いわゆる下鴨神社、そしてそこから更に鴨川を遡って平安京の真北にある賀茂別雷神社、いわゆる上鴨神社、上下合わせていわゆる賀茂神社に丹塗矢伝承があるからです。

上鴨神社の祭神は賀茂氏の祖霊である賀茂別雷命で、玉依姫という女性が鴨川の上流から流れてきた丹塗矢を枕元に置いて寝たら妊娠して生まれたとのことで、丹塗矢というのは赤く塗った矢で魔除けの効果があるとされ、要するにこの矢が神の化身で、神と女性が交わって生まれた神人が賀茂氏の始祖となったという伝承です。
ところがこの伝承に類似した伝承が古事記にあり、三輪山のオオモノヌシが丹塗矢に化身してセヤダタラヒメを妊娠させて生まれた子がヒメタタライスケヨリヒメといって、この姫がイワレヒコの妻となったという伝承です。また、日本書紀ではこの姫の名はヒメタタライスズヒメとなっており、その父神はオオモノヌシではなくコトシロヌシになっています。
オオモノヌシにせよコトシロヌシにせよ出雲神話系の神であり、丹塗矢説話は出雲系の伝承なのだということになります。となると賀茂別雷命の父神も出雲系ということになります。この父神は火雷神という雷神なのですが、オオモノヌシも雷神の性格を持っていますので同一神と考えてもいいでしょう。また、このバージョンの伝承でもイワレヒコの妻の名には「タタラ」の文字が入っており、出雲系の製鉄集団と海人氏との関係が生じたことが窺えます。
また、丹塗矢が流れてきたという鴨川の上流を上鴨神社から更に北へ遡っていくと最上流部は鞍馬山と貴船山のあたりになります。貴船山の山麓には水神を祀る貴船神社があり、その北の芹生峠で灰屋川に乗り換えます。また鞍馬山には有名な鞍馬寺がありますが、寺院が開かれる以前から霊山として知られ、何らかの信仰を集めていたようです。
この鞍馬山の奥の花脊峠で別所川に乗り換えられます。灰屋川も別所川も下っていくと保津川の上流部に合流し、丹波地方の南部に出ることが出来ますが、ここは出雲の影響の強い土地です。こう考えると丹波地方南部から鴨川の上流を経由して丹塗矢が流れてきても不自然ではなく、それがもともとは出雲系のオオモノヌシの化身であったという考え方も出来ます。
このように京都盆地は背後に丹波の山々を抱えた地であり、丹波国が大和王権から自立した勢力であった古い時代においては、大和王権地域と山国である丹波国地域との境界の地でした。そういう地であったので「背後に山を持つ国」として、この地は「山背(やましろ)国」と呼ばれるようになり、それが漢字が変わって「山城国」となったのです。

また、下鴨神社のある地点で鴨川に注ぐ高野川を遡って北上していくと、比叡山の西を通って最上流の大原の途中峠で和邇川に乗り換え、和邇川は琵琶湖の南西岸の和邇浜で琵琶湖に注ぎます。あるいは比叡山の西の上賀茂で高野川から船を下りて比叡山を上り延暦寺まで行けば、延暦寺の北からは大宮川が琵琶湖に向かって流れており、坂本で琵琶湖南西岸に注ぎます。ちなみに坂本の比叡山の麓には日吉大社があります。
また延暦寺の南からは四ツ谷川が琵琶湖に向かって下り、下坂本で琵琶湖に注いでいますが、この四ツ谷川の下流域、琵琶湖南西岸の平野部、現在の大津市街地の北側に、かつて大津京がありました。現在は大津京跡を西から見下ろす山麓部に近江神宮が建っていますが、これは大津京を築いた天智天皇を顕彰して明治になって創建されたものです。
比叡山は平安時代初期に最澄が延暦寺を開きましたが、古くから信仰対象とされていた聖山であり、近江から京都盆地への北東方向からの進入路を見下ろす重要拠点で、後に京都で大事が生じた際の天皇の避難所としても機能しました。その比叡山を背にして琵琶湖に接する坂本も重要地点で、大津京が置かれた場所であり、また安土桃山時代には明智光秀がこの地に坂本城を築いたりしました。

ところでこの京都の賀茂神社というのは全国の賀茂神社の総本社ではなく、総本社は奈良県御所市の金剛山の東山麓にある高鴨神社で、京都の上鴨神社も下鴨神社も、この高鴨神社を総本社とするのです。その高鴨神社の祭神はアジスキタカヒコネで、記紀の国譲り神話で出雲側の神として現れる神で、大国主命の子とされ、賀茂別雷命や火雷神、オオモノヌシと同じく雷神としても信仰され、賀茂大神と同一神とされています。また荒ぶる神でありスサノヲと似たような伝承もある神です。
また、高鴨神社ではアジスキタカヒコネと共にコトシロヌシも祀っており、この高鴨神社から葛城川沿いに分社した鴨津波神社ではコトシロヌシを主祭神にしています。そもそもこの高鴨神社は賀茂氏一族の発祥の地とされ、賀茂氏の氏神を信仰していたもので、アジスキタカヒコネやコトシロヌシが賀茂氏の祖霊ということになりますが、賀茂氏の始祖は大鴨積という人物で、この人の祖父が大田田根子といってオオモノヌシの子だといわれています。そして大田田根子は三輪山の大神神社で最初にオオモノヌシを祀った人物です。
このように、どうやら奈良のほうの賀茂神社のほうが元祖で、京都の賀茂神社はその分社的存在のようなのであり、しかも完全に出雲系の信仰なのだといえるでしょう。となると、もちろん奈良の金剛山や葛城のあたりを発祥の地とする賀茂氏も出雲系の氏族ということになります。
ちなみに鴨津波神社でコトシロヌシを賀茂氏と共に祭祀していた古代大和の有力豪族であった葛城氏は、おそらくはイワレヒコの東征以前からこの地に居住していた南洋系氏族で、土地の神である出雲系の神を賀茂氏と共に祭祀していたのでしょう。

ただ、この奈良の葛城系の賀茂氏と、京都の賀茂神社を祀っていた賀茂氏とは、名前は同じでも本来は別の氏族だとされています。京都のほうの賀茂氏は雷神であり蛇神でもあるオオモノヌシの子孫ではなく、ヤタガラスに化身してイワレヒコの熊野での道案内を務めた賀茂建角身命を始祖とします。ヤタガラスは南洋系のイメージの強い神で、出雲系のオオモノヌシとは別系統の神だといえます。つまり祖先が別々ということで、奈良の賀茂氏と京都の賀茂氏は別々の氏族ということです。
そしてこの京都の賀茂氏の祖先であるヤタガラスこと賀茂建角身命が、火雷命の化身した丹塗矢によって妊娠して上鴨神社の祭神の賀茂別雷命を産んだ玉依姫と共に、その父親として下鴨神社の祭神として祀られているのです。下鴨神社の起源説話では、イワレヒコの道案内をした賀茂建角身命がその後、葛城を通って山城国の葛野へ移り住んだとされています。
つまり、もともとは出雲系の奈良の賀茂氏が奈良盆地南西部の葛城地区で賀茂神社の信仰を開始して、それが山城国にも波及していたのです。そしてそれとは別にヤタガラスをトーテムとする紀伊国起源の南洋系のある氏族が後に山城国に移住し、その移住した土地で昔から行われていた賀茂神社の祭祀を行うようになり、その時点から「賀茂氏」を名乗るようになり、元来の賀茂神社の信仰を上鴨神社で行い、自らの本来の祖霊への信仰を下鴨神社で行うようになったのです。こういう理由で京都の賀茂神社は上鴨神社と下鴨神社の2つが存在するのです。混乱を避けるためにこの京都のほうの賀茂氏を別名である鴨県主氏と呼称することにします。
このように、京都の地においても古来から出雲系、つまり東南アジア系海洋民の信仰が存在し、しかもその源流は奈良盆地の奥地に辿ることが出来るということは、奈良盆地の金剛山系までは東南アジア系海洋民の内陸水路ネットワークは伸びていた可能性は高いということになります。

この上鴨神社や下鴨神社、そして八坂神社のある鴨川は鳥羽で桂川に合流しますから桂川水系ということになります。同じ水系であるということは、上ったり下ったりはあったとしても、船を下りることなく行き来できるということです。それはつまり共通の文化圏を形成しやすいということでしょう。そして、この桂川水系の本流である桂川を遡って保津川に入ると、亀岡には出雲神社があり、やはり桂川水系は出雲文化圏なのだといっていいでしょう。
しかしこの桂川水系というのは、より大きな水系である淀川水系の一部にしか過ぎないのであり、この淀川水系内も全て船を下りることなく移動可能な範囲であり、桂川水系の出雲文化は淀川水系全体に波及は容易なのだといえます。
また、古代においては淀川の河口は大阪湾ではなくその内海である河内湾という極めて閉鎖的な湖に近い狭い水域に開いており、その河内湾に注いでいた安威川水系、大和川水系も、河内湾の大阪湾への出口、つまり難波宮が存在した地点を淀川水系の外海への河口であると仮定した場合は、広い意味では淀川水系の範疇に含まれるのであり、実際、それらの水系内では外海に出ることなく船に乗ったまま移動可能範囲であったのですから、この広義の淀川水系は共通文化圏を形成しやすいのでした。
その河内湾に注ぐ広義の淀川水系は、桂川水系と宇治川水系と木津川水系という上流部の水系と、その3水系が合流した後の淀川水系とそれに注ぐ安威川水系、そして大和川水系によって構成されます。桂川水系が京丹波地方南部と京都市を流れ、宇治川水系が滋賀県全域と伏見山科と宇治を流れ、木津川水系が京都府南部と三重県の伊賀地方と奈良県の宇陀地方を流れ、安威川を含む淀川水系が大阪府北部を流れ、大和川水系が大阪府南東部と奈良県北部を流れてくるのであり、広義の淀川水系全体で滋賀県全域、京都府南部、奈良県北部、三重県伊賀地方、大阪府ほぼ全域は船を下りずに行き来できるということになります。
となると、これらの広範囲に丹波地方から内陸水路の経験値が高かった出雲系文化が浸透していった可能性は高いといえるでしょう。そして逆に言えば、後に同じ範囲に南方起源の南洋系海洋民の文化も重ねて浸透していくルートにもなったということでもあります。
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