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日本史についての雑文その210 石清水八幡宮
桂川水系については一通り説明しましたから次は宇治川水系ですが、これは琵琶湖を中心とした水系です。琵琶湖には多くの河川が流入しますが、琵琶湖から流出する河川は瀬田川の1本だけです。この瀬田川というのは近江国を流れる上流部分の名称で、これが山城国に入り中流域になると宇治川と名前を変えるわけです。
そうなると宇治川の水源は琵琶湖ということになるかと思いがちですが、実際は琵琶湖に流入する全ての河川が宇治川の源流となり宇治川水系に含まれるのです。それは結局、近江国全域を網羅することになります。

ちなみに「近江国」はもともとは「淡海(あふみ)国」であり、淡水の海ともいえる琵琶湖のある国という意味でした。それが何故「近江」などという漢字をあてるようになったのかというと、後に大和王権が東海地方へ進出した際に浜名湖のことを「遠くの淡海」という意味で「遠淡海(とおあふみ)」と呼び、それが訛って「とおとおみ」となったのですが、すると琵琶湖は「近淡海」ということになり、「近淡海」と書いて「おうみ」と読むようにもなりました。その後、律令制施行時に国名は漢字2文字ということになったので、水のたくさん存在するところの総称である「江」という字を用い、琵琶湖のある国を「近江(おうみ)国」として、浜名湖のある国を「遠江(とおとおみ)国」としたというわけなのです。

琵琶湖の最北端の大川河口の東に賤ヶ岳があり、賤ヶ岳の東の木之本あたりが琵琶湖の東側に広がる近江盆地の最北端ということになります。木之本は安土桃山時代の賤ヶ岳の合戦の際に羽柴秀吉が北国から出てきた柴田勝家軍を迎え撃つために本陣を敷いた場所で、南下してそこに攻め寄せてきた柴田軍との間で最大の激戦場となったのが賤ヶ岳近辺というわけです。
この時、柴田軍が北から攻めてきた道というのが余呉川に沿った道筋で、琵琶湖北東部に注ぐ余呉川は北国への交通路であったのであり、余呉川を遡って椿坂峠で船を下りて更に栃ノ木峠も越えれば福井方面へ連絡することが出来ます。
この余呉川の河口の西の湖上には竹生島が浮かび、東の山中には戦国時代に浅井氏が居城とした小谷城がありました。更に琵琶湖の東岸を南下すると姉川の河口があり、姉川の合戦で名高い姉川の下流部は近江盆地を東に遡って横切り、伊吹山の西に達してから上流部は北上し奥伊吹までその水源を遡ることが出来ます。また、姉川の下流域の湖岸は湿地帯となっており、そこに注ぐ高時川を遡ると真っ直ぐ北へ向かい、木之本の西を通過して更に北上し栃ノ木峠まで達して福井方面に乗り換えることが出来ます。
伊吹山は滋賀と岐阜の県境にある山で、滋賀県最高峰の山です。古来より交通の要衝で、古代の三関の1つである不破関が置かれました。また古来より霊山として知られ、日本書紀によるとヤマトタケルが対決した伊吹山の神は大蛇の化身で現れたそうで、蛇身の神は出雲系の神の特徴で、伊吹山のあたりまでは出雲文化が浸透していたと考えられます。
その伊吹山の西方、姉川の河口のすぐ南の琵琶湖畔には羽柴秀吉が居城とした長浜城のある長浜の町があり、その南の米原市に天野川が河口を開いて注いでいます。天野川を遡ると伊吹山の南の関が原の西方で最上流部に達して、そこから徒歩で濃尾平野の方面へ連絡することが出来ます。

なお、米原市はオキナガタラシヒメの生誕の地とされています。オキナガタラシヒメは先述したように新羅からの帰化人であった天日槍やその子孫で朝鮮半島に派遣されたタジマモリらの子孫を母に持ち、皇族、つまり海人氏系一族で奈良盆地北部から木津川、宇治川方面に勢力を持っていた息長氏を父に持った王女でした。
おそらくこの母方の一族は朝鮮半島に何らかの利害関係を持っており、古代日本は本来は婿入り婚で夫は妻の家を相続するのですが、そうした習俗に男系社会の要素を合わせて天皇家は結婚によって他の氏族や地方豪族の祭祀権を統合していったのであり、このオキナガタラシヒメの母もそうやってその一族の祭祀権も朝鮮半島関連の利権も息長氏に渡していたのでしょう。
そしてそれら父母の利権を相続したのが米原を拠点としたオキナガタラシヒメであり、奈良盆地北部から木津川と宇治川を経て琵琶湖北部から日本海側へ至る水運のネットワークを持ち、それが北九州勢力と結びついたことによって三韓征伐が起こったのではないかと思われます。

さて米原の南では山地部が琵琶湖に迫ってきて狭くなり、この狭くなった要所を湖畔に作られた彦根城が押さえており、ほぼ同じ位置に石田三成の佐和山城がありました。彦根城より南は近江盆地は広く開けていきます。
その彦根城のすぐ南に河口を開いて琵琶湖に注ぐ芹川を遡っていくと多賀町にある霊仙山の山中の水源まで遡れますが、その支流で高宝山に水源を有する流れの途中に多賀大社があります。この神社は下流の湿地帯と山地の境目に存在し、イザナギが鎮座していると古事記に書いてあり、祭神はイザナギです。
彦根から更に琵琶湖東岸を南下していくと、琵琶湖の東部に愛知川が注ぎます。愛知川の下流を見下ろすちょっとした高台に建部という土地があり、もともとはここに建部神社があったそうで、ヤマトタケルを祭神としています。おそらく伊吹山信仰に関連してのことなのでしょう。また、このすぐ西に山岳信仰の聖地である箕作山があり、山麓にはこの山を遥拝する阿賀神社もあります。
愛知川の河口のすぐ南の湖畔には織田信長が天下に号令した際の居城である安土城の建てられていた安土山があり、安土山のすぐ西の湖畔の鶴翼山に現在は日牟礼八幡宮がありますが、これは元来は沖合に浮かんだ島に存在し、大嶋神社という名で大嶋大神を祀っていました。更に沖合の沖島にも同系の神社があり、本土の沿岸部、近い大きな島、遠い小さな島という三社構成になっており、北九州の日本海側、すなわち東南アジア系海洋民の特徴的な航海神の信仰形態に似ています。後にホムタ大王がこの地に八幡宮を持ってきたといわれており、それによってこの地を近江八幡というようになったのですが、それ以前はおそらく日本海側由来の信仰が行われていたのでしょう。

近江八幡から琵琶湖の南東岸を西進すると守山市に入り、琵琶湖がひときわ細くくびれた地点で野洲川の河口が開きます。この野洲川を遡っていくと、まずその守山市の下流部で、川を見下ろす三上山に御上神社がありました。三上山は近江富士とも言われる美しい山稜を有した山で、近江盆地の中で独立した峰として存在しており、湖畔の低地部と山地部の境目に存在しており、これは山岳信仰であったのでしょう。
野洲川を更に遡ると甲賀を通過して滋賀と三重の県境の御在所山の水源まで達します。また野洲川の支流の田村川を遡ると滋賀と三重の県境の鈴鹿峠の水源まで達し、これらの地点からは伊勢湾方面への連絡が可能です。この鈴鹿峠に古代三関の鈴鹿関があり、東国への入り口となっていたのです。
野洲川河口から琵琶湖南東部を更に南下すると守山市の南で坂本の対岸に草津があり、草津から更に南下して琵琶湖の最南端部の瀬田に、琵琶湖からの唯一の流出河川である瀬田川の流出口があり、その西に大津市街地があります。
ここまで述べてきた琵琶湖に注ぐ数多くの河川は全て瀬田川、つまり宇治川でもあるのですが、これら宇治川水系の上流部に相当するのです。

琵琶湖南岸にある大津市の東、琵琶湖の最南端部の瀬田から南に向かって瀬田川は流れ出し、南下してすぐに山城国に入って宇治川になり北西方向へ向きを変えて、宇治市中心部を通過してすぐに「古椋の池」という湖に流れ込みます。このあたり、瀬田川や宇治川の流域は東国からの軍勢が京都を目指す際に必ず通る道で、源平時代には何度も合戦場となりました。
この「古椋の池」は現在は久御山町や宇治市北端部、伏見区南端部などに相当する部分で、北に伏見桃山や鳥羽、東に五霊峰、南に久世や男山、西に大山崎に囲まれた盆地で、古代においては湖を形成し、ここに南東から宇治川、北東から山科川、北から桂川、南から木津川が流れ込んで、この「古椋の池」の西端から淀川が流れ出していたのです。

「古椋の池」に北東から流れ込む山科川を遡ると、醍醐を通って更に北上し山科に達し、山科から更に支流の四ノ宮川を遡ると山科の東の追分で船を下りて東海道を東に歩き逢坂峠を越えて大津市街に出て大津港から琵琶湖に船で漕ぎ出すことが出来ます。
また、山科の南の観修寺で山科川に合流する安祥寺川を北へ遡ると西野で船を下りれば東海道を西進して花山を越えて京都盆地に入り、更に西進して五条大橋で鴨川の河川ルートに乗ることが出来、あるいは安祥寺川を西野から更に北へ遡り山科の西の日ノ岡で船を下りて三条通を北上し粟田口から京都盆地に入り、八坂神社の北を西進して三条大橋で鴨川の河川ルートに乗ることも出来ます。このように、山科は大津と京都を最短距離で結ぶ重要拠点なのでした。

また、「古椋の池」に南から流れ込む木津川を遡っていくと、城陽、京田辺などを南へ向かい木津に達します。この間に京田辺で合流してくる普賢寺川を遡ると生駒方面へ向かい奈良盆地を流れる富雄川の上流に乗り換え、また木津では山田川と鹿川が合流して来ますが、それらを遡ると奈良市北部に至り、奈良盆地北部を流れる佐保川の上流に連絡します。
木津川は木津で向きを転じ京都と奈良の県境の北に沿って東へ向かって遡るようになり、笠置山の北で白砂川の合流を受けます。白砂川を南へ遡ると奈良県に入り、奈良市の若草山の南東の石切峠で能登川に乗り換え、能登川は平城京の八条通りと朱雀大路の交点あたりで佐保川に合流し、その後南下して大和川に注ぎます。このように笠置は京都と奈良を繋ぐ重要拠点であり、鎌倉時代末期に幕府に叛旗を翻した後醍醐天皇が立て篭もったのもこの笠置山でした。

笠置から更に木津川を遡ると、南山城村で柘植川と名張川の合流地点に至ります。
柘植川を遡る経路は東へ向かい、三重県に入って伊賀上野を通ってから北東へ向かい、三重と滋賀の県境で鈴鹿峠の南西にある柘植の水源まで至ります。この地点で伊勢湾方面へ行く河川に乗り換えることが出来ます。また伊賀上野で柘植川に南東から注ぐ服部川は青山高原の水源まで遡ることが出来ます。
この伊賀上野の柘植川と服部川の合流地点に伊賀上野城があり、その少し東で、合流前の2つの川の中間点に伊賀国一宮の敢國神社があり、伊賀国を開拓した祖霊が祀られています。
一方、南山城村から南へ遡る名張川は、奈良と三重の県境のあたりを縫うように南下して三重県の名張市を通過し、そこから更に三重県内を南下して再び奈良県に入り、最後は奈良と三重の県境の高見山地に至り、この地点で伊勢湾方面へ連絡します。
また、名張で名張川に注ぐ宇陀川を南東方向に向かい奈良県内を遡っていくと、赤目や室生を通り、榛原から南下して飛鳥村の東の竜門岳で水源に達し、この手前の関戸峠で紀ノ川の上流に連絡し、紀ノ川は紀伊水道に注ぎます。また、宇陀川は榛原で大和川の上流の初瀬川にも連絡し、奈良盆地へも繋がります。

以上が、桂川水系、宇治川水系、木津川水系、そして山科川水系であり、これらの水系の流れる流域内は一度も船を降りることなく行き来することが可能であり、桂川水系や宇治川水系は一度の乗り換えで日本海に達することが出来、木津川水系は一度の乗り換えで紀伊水道や伊勢湾に出ることが可能でした。
特に内陸水路の利用の経験値の高い東南アジア系海洋民の出雲系文化は桂川水系や宇治川水系、そして木津川水系へと広まっていったと思われ、これらの水系はその文化と共に京都の鳥羽の南部にあった「古椋の池」に全て集められ、そこから淀川となって南西方向へ流れ出していったのです。
この「古椋の池」を南西から見下ろす男山の山上に現在は石清水八幡宮がありますが、これは平安時代に宇佐から八幡宮を持ってきたもので、もともとは男山には石清水社という神社がありました。「古椋の池」が存在していた古代には、これだけの水上交通の要衝ですから、この地で水運の神が祀られていたのでしょう。それで航海の神の属性を持つ八幡神を合祀したのであろうと思われます。
これだけの交通の要衝ですから、この付近は古来から合戦場となることが多く、南北朝時代には男山争奪戦が何度も繰り広げられ、男山の北西の山崎では羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦が行われ、幕末の鳥羽伏見の戦いもこの男山の北東にある下鳥羽で始まり、桂川沿いに後退してきた幕府軍が最後の決戦場としたのがこの男山の麓でした。大阪湾や西国方面から京都を目指す場合、軍勢はここを通るのです。
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