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日本史についての雑文その211 淀川水系
さて石清水八幡宮を西に見て「古椋の池」から南西方向に流れ出すのが淀川であり、淀川水系も幾つか支流が合流します。まず大阪府に入ってから枚方で淀川に南から注ぐのが天野川で、これは奈良県北部の生駒山に発し、交野、枚方を通ります。天野川の最上流部は生駒山の北東で奈良盆地に流れていく富雄川の最上流部と連絡します。
この天野川の合流地点から更に少し淀川を南西に下った高槻市の三島江の少し北で、北から合流してくるのが芥川で、芥川は高槻市内を北へ向かって遡り大阪と京都の県境の明神ヶ岳の東で年谷川に乗り換え、年谷川は亀岡市の東で保津川に合流します。
この芥川の合流地点のすぐ南にある三島江の淀川沿いに三島鴨神社があります。この神社の主祭神は大山祇神で、更に綿津見神や出雲系のコトシロヌシが合祀されています。

この地は現在は三島江と呼ばれていますが、もともとは三島津といわれておりました。「江」というのはシナでは大河のことを指す場合が多いのですが、日本ではもっぱら湖のことを指しました。例えば「近江」というのは琵琶湖のことで、「遠江」といえば浜名湖のことでした。つまりこの三島には湖があったということです。
そして「津」というのは港を指すことが多く、あるいは広い意味では海水をたたえた水域に面した土地を指すようです。つまり、この三島にはかつて海岸線があり、それが後に湖の湖岸線になり、最終的にはただの川岸になったということを意味します。
現在の淀川はこのまま南西に下っていって大阪湾に注ぐのですが、弥生時代の大阪湾は今よりももっと内陸部に食い込んでいて、そこから更に内陸部に向けて広大な干潟地帯を形成していました。当時の大阪湾の海岸線は現在の大阪市の北東端ぐらいから始まっており、まぁだいたい現在の大阪市の大半は海の下だったと考えればいいでしょう。そしてその海岸線に向かって南西に下る淀川の下流域は、現在の摂津市や寝屋川市、守口市あたりは干潟地帯であったと思われ、そうなると三島江あたりはもう陸地と干潟地帯の境目あたりということになります。つまり実質的にはこの三島江あたりが淀川の河口のようなもので、三島江から南は、もう干潟内を縦横に小船が行き来する半水上世界となるのです。
おそらく、その干潟地帯の範囲は三島江を基点として南西方向へ扇形に広がり、その扇形の北辺は三島江から摂津市浜町まで至るラインであり、その扇形の東辺は三島江から四條畷神社へ至るラインだったでしょう。このエリアは元来は海で、三島江を基点とした上記ラインは海岸線であったのですが、そこに淀川や芥川、安威川などの運んでくる土砂が堆積して次第に干潟を形成し、その干潟地帯の南西部は河内湾という海が広がっていたのですが、後にこの干潟地帯と海との境界あたりが土砂で埋まって干潟地帯が取り残され、いわゆる「潟湖」となり、更に後にその潟湖も土砂で埋まっていって現在のような河川敷になったのでしょう。

三島鴨神社の場所で祭祀が行われるようになったのは、おそらく干潟が形成されていた頃なのでしょう。つまり三島鴨神社のある場所が干潟地帯への入り口で、干潟内を縦横に船が行き来して河内湾や大阪湾へ向かっていたのでしょう。そういった場所にある三島鴨神社ですから、水上交通の守り神を祭祀していました。
それがなぜ山の神である大山祇神なのであるかというと、それは日本列島においては別におかしなことでもなんでもなく、日本列島における水路とは河川であり、平野がほとんど干潟や海面下であった古代日本においては河川とは山地を流れるものであったから、山の神が川の交通安全も管轄していたのです。そういうわけで大山祇神は水路の神でもあったのです。そしてこの三島江は干潟という実質的な海にもほど近かったために海の神である綿津見神も合祀したのです。
ちなみにこの三島鴨神社は全国の三島神社の総本社であり、瀬戸内海の芸予諸島の真ん中にあった大三島の大山祇神社もこの三島鴨神社から分かれたものだそうで、大三島という島名もこの三島鴨神社に由来しているそうです。これも、水路の神ということで、瀬戸内海の水路の重要拠点であった大三島に三島鴨神社の主祭神の大山祇神を分霊したということなのでしょう。
つまり、この三島鴨神社はその元社ですから、相当古い起源を持っているということで、古来から大山祇神が水路の神として祀られていたのでしょう。問題はそこに何故、出雲系のコトシロヌシが合祀されているのかです。コトシロヌシも水神としての属性を持っていましたから合祀そのものは不自然ではないのですが、数ある水神の中であえてコトシロヌシが合祀されたのは賀茂氏の関与があったからでしょう。

コトシロヌシの祭祀の畿内における総本社は奈良の葛城の鴨津波神社で、ここは賀茂氏が祭祀を行っていました。この賀茂氏は出雲系、つまり東南アジア海洋民の流れを受け継ぐ氏族であったので出雲系のアジスキタカヒコネやコトシロヌシ、オオモノヌシを祭祀していたと先述しましたが、この賀茂氏は奈良盆地北部の富雄川や佐保川を経由して木津川水系や淀川水系にも展開していたと推測されます。そしてこの水系に賀茂氏の伝える神婚説話を伝え広めていったのです。
それが丹塗矢伝承で、古事記においてはイワレヒコの后となった五十鈴姫が三島のミゾクイの娘のヤセダタラヒメとオオモノヌシの娘なのだということになっており、これが日本書紀では五十鈴姫の父親はコトシロヌシで、母親は三島ミゾクイの娘のタマクシ姫ということになっています。
そして、現在は大阪市の東淀川区の相川で神崎川に注ぐ安威川の中流沿い、茨木市中心部に溝咋神社という神社があり、この神社の社伝では、コトシロヌシがワニに化身して奈良盆地から木津川と淀川を通ってこの神社へ通い、安威川の水利を管理していた三島溝咋の娘の三島溝咋姫、別名を溝咋玉櫛姫と結婚して五十鈴姫を産ませたとなっています。
これは出雲地方の美保神社に伝わるコトシロヌシが美保神社から中海を通って揖屋の溝咋姫のもとを通う時にワニに足をかじられたという説話と共通のモチーフを有しており、この出雲由来の説話を出雲系の賀茂氏が畿内に持っていき、中海から舞台を淀川水系に移して、更に出雲系説話であった丹塗矢神婚説話をミックスして作り上げた神話の一部が溝咋神社に社伝として残ったのでしょう。
いずれにしてもイワレヒコの妻が出雲系の系譜に位置し、そしてその正式名はヒメタタライスズヒメということで「タタラ」という製鉄に関連した特殊器具をその名に冠しているということで、淀川水系に進出してきていた出雲系の製鉄技術やそれに関連した土木技術集団と大王家との関係がここで現れているのです。

ところでこの安威川は現在は淀川の北に並行して流れる神崎川に大阪市東淀川区の相川付近で北から注いでいますが、古代においては三島江の南には干潟地帯が広がっていましたから、この安威川も溝咋神社の少し下流地点、茨木市と摂津市の境界に架かる安威川新橋あたりからもう干潟地帯に北から注ぎ、この干潟を通じて淀川水系と繋がっていたのです。つまりコトシロヌシはワニの姿で三島鴨神社から溝咋神社へ容易に通うことが出来たわけです。
まぁ実際にコトシロヌシがワニになって通っていたわけではなく、賀茂氏の水上交通路が奈良盆地から木津川水系、淀川と伸びてきていたということで、当然彼らは三島江にあった淀川水系や干潟の水路安全の神を祀る三島鴨神社を信仰したであろうと思われ、その際に賀茂氏は彼らの信仰する水神であるコトシロヌシを、もともとの三島鴨神社の祭神である大山祇神と一緒に祭祀するようになったのでしょう。
そしてこの賀茂氏の伝えた神話が安威川水系の守護神社である溝咋神社にも伝わっているということは、賀茂氏の水路のネットワークは安威川水系にも伸びていたということなのでしょう。
この安威川水系というものは古代においては現在の摂津市あたりの干潟地帯に淀川と共に注いで、干潟地帯を経て河内湾、そして大阪湾へと注いでいったのですが、その上流は北へ向かい、箕面市や茨木市のような北摂地域西部を流れていました。つまり、先述の高槻市を流れる芥川と併せて、これらの北摂地域西部にも出雲系の文化が伝わっていたと推測されます。
その出雲系文化はこの溝咋神社の社伝が暗示するような木津川水系からの伝播であるのか、あるいは北の丹波地域から直接伝播したものかもしれません。何故なら、先述のように高槻市内を流れる芥川は上流部で丹波亀岡の保津川と連絡していたのであるし、また安威川の最上流部も大阪と京都の県境を越えて京都府の亀岡にまで達し、大野谷で曽我谷川に乗り換えて、これが亀岡市内を通って保津川に合流するからです。
また、その少し上流で保津川に注ぐ犬飼川はその上流部の京都と大阪の県境の堀越峠で田尻川に乗り換え、田尻川は猪名川に合流します。また、田尻川の最上流部は京都と大阪の県境にある釈迦ヶ嶽の北で園部川の最上流部の本梅川に乗り換えます。この猪名川は豊能町、猪名川町、川西市、池田市、伊丹市を流れ、尼崎から大阪湾に注ぎます。このように北摂地域東部も出雲系文化の影響を受けやすい状況にあったといえます。

このコトシロヌシ神話の伝播ルートが北からであれ南からであれ、その大元の起源は出雲地方にあり、しかしながら賀茂氏の本拠地が奈良盆地の葛城方面である以上、順序はどうであれ、出雲から何らかのルートで奈良盆地まで出雲系文化は伝播したのであり、そこに淀川水系の果たした役割は大きいのだと推測できます。何故なら、桂川水系、宇治川水系の流れを受けた淀川も、保津川の流れから連絡を受けた安威川も大阪湾の更に内陸部に広がっていた河内湾に注いでおり、その河内湾には奈良盆地へ遡っていく大動脈である大和川も注いでいたからでした。
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