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日本史についての雑文その212 河内と大和
弥生時代の大阪湾の海岸線は現在よりもずっと内陸側に入り込んでいて、現在の大阪市はほとんどが海の底でした。現在の大阪湾の海岸線と弥生時代の海岸線がほぼ一致するのは南は泉大津市の北端あたりで、弥生時代の海岸線はそこから内陸に徐々に湾入していきます。
そこから南から北へ弥生時代の海岸線を辿っていくと、堺市の鳳、そして仁徳天皇稜や履仲天皇稜のある百舌鳥古墳群、大阪市住吉区の住吉大社、西成区の玉出、岸里、浪速区の今宮戎神社、中央区の高津、長堀、天満橋に至って、そこで現在の大坂城の地点を頂点にして海岸線は南へ向かい、東成区の玉津、生野区の御勝山、東住吉区の桑津と繋がります。

そこから海岸線は北東へ向かい、東大阪市の瓜生堂あたりを通り、そして枚岡神社に達してから今度は北へ向かい、生駒山地の西を北上し四條畷神社あたりまで達し、そこから西へ向かって、大阪市旭区の森小路あたりに達してから北へ向かい、摂津市の浜町で現在の安威川の流れまで達し、そこから安威川、続いて神崎川の流れに沿って西へ向かい、そのまま西宮市の今津や西宮戎神社を通って、芦屋浜あたり、つまり神戸港の東で現在の大阪湾の海岸線に復します。
つまり、現在の高石市、堺市臨海部、大阪市住之江区、西成区西部、大正区、港区、此花区、浪速区の大部分、中央区西部、西区、福島区、北区、都島区、旭区西部、城東区、鶴見区、東成区東部、生野区東部、東淀川区の大部分、淀川区、西淀川区、東大阪市の大部分、大東市、尼崎市南部、西宮市臨海部、芦屋市臨海部は海の底であったということになります。
大まかに言えば、現在の泉北地域臨海部、大阪市全域、大東市、東大阪市、阪神地域臨海部まで湾入する巨大な海域が存在していたわけで、大坂城を北端部として西は泉大津港、東は東住吉区の桑津を結んだ南から北へ細長く伸びた半島、これを通常は上町台地というのですが、その半島がその海域を東西に分け、西側の海域が大阪湾、東側の海域が河内湾となっていたのです。大阪湾と河内湾とは、大坂城の地点の北にある幅5km.ほどの狭い水路で繋がっていました。
河内湾の北側は高槻市の三島江から南西に広がる干潟地帯が摂津市、守口市、門真市、寝屋川市西部にかけて広がっており、その干潟がだいたい摂津市浜町と森小路と四條畷神社を結ぶラインあたりで徐々に海岸線に移行していっていました。その干潟に北東から流れ込む河川が淀川と芥川と安威川でした。
また河内湾の南側には大和川が南から流れ込んできて八尾市と大阪市平野区の大部分に干潟地帯を形成していました。つまり、もともとは河内湾は八尾市南部まで広がっていたのですが、大和川の運んでくる膨大な土砂の堆積によって河内湾の南部が埋め立てられて干潟が形成されていったのです。桑津と瓜生堂と枚岡を結ぶラインあたりで徐々に干潟は河内湾に移行していっていたのでした。

現在の大和川は信貴山の南を通って奈良盆地から出てきてそのまま真っ直ぐ西へ向かい大阪市と堺市の境界線に沿って流れて大阪湾に注ぐのですが、これは江戸時代に大規模土木事業で大和川の流路変更がなされた結果のことであり、それ以前の本来の大和川の流路は全く違ったものでした。
古代においては大和川は、信貴山の南を通って奈良盆地から柏原市へ西進して下ってきて、すぐに北へ向きを変えて八尾市南部で河内湾南の干潟地帯に南から注いでいました。そして大和川は信貴山の南を越えて河内の平野部に出てきた地点で南から流れてくる石川の合流を受けます。
この石川を遡ると、藤井寺市、羽曳野市、富田林市を南下していき河内長野市に入り、河内長野市西南端の和歌山県との県境の山中に達し、蔵王峠を越えて弁天谷川に乗り換えて和歌山県かつらぎ町に入り紀ノ川の下流に合流します。また河内長野市北部で石川に合流する天見川を遡って南下していくと河内長野市南端の山中に達し、紀見峠を越えて和歌山県に入り、橋本川に乗り換えて橋本市で紀ノ川に注ぎます。
また富田林市の北部で石川に注ぐ千早川を南へ遡っていくと、千早赤坂村に達して金剛山の南山麓の水源に行き当たりますが、その支流の水越川を遡って東へ行くと金剛山の北、葛城山の南の水越峠で船を下りて峠を越えて奈良県の御所市に入り、そこで同名の水越川に乗り換え、水越川は葛城川に合流して奈良盆地へ流れていきます。
こうした石川水系が大阪府東南部から流れてきて柏原市で大和川に合流し、その石川の北への流れを受け継ぐように大和川もすぐ北上して八尾市の干潟地帯に注ぎ、その北には河内湾があり、更にその北の門真市、寝屋川市、守口市は干潟地帯で、そこに北東から淀川、芥川、安威川が注いでいました。
こう見ると、大坂城以東の大阪府は川や池、海と、水路ばかりという印象です。それでこの地域を「河内国」というようになったのです。

その河内国の一宮は枚岡神社で、現在は生駒山の南西にある神津岳の西麓にありますが古代においては神津岳の頂上にあり、河内湾が南の干潟地帯に移行するラインを東から見下ろす位置にありました。また河内国の二宮にあたる恩智神社は信貴山の西にあり、まさに奈良盆地から河内方面に出てきて石川と合流して北へ向きを転じた大和川が干潟地帯に注ぐポイントの東にありました。
この枚岡神社と恩智神社の祭神は中臣氏の祖神で、河内国の守護神としたとのことですが、これはおそらく南洋系であった中臣氏の進出後に習合した後のことで、元来は河内湾から大和川へ至る水上ルートの守護神を祭祀していた場所だったのでしょう。
淀川を下ってきた出雲系の海洋民は河内湾の東海岸沿いを南下して枚岡神社の地点を東に見て干潟地帯に入り、更に恩智神社の地点から大和川に入り、そこから南へ大和川を遡り、柏原市で東へ向きを転じた大和川に乗って信貴山の南を通って奈良盆地へと遡っていきます。
この大和川の方向転換のポイント、すなわち石川との合流ポイントの南西部の古市という丘陵地に古墳群があり、応神天皇稜や仲哀天皇稜などがあります。そして古市から西へ向かい、大阪湾に面した百舌鳥にはまた別の古墳群があり、仁徳天皇稜や履仲天皇稜があります。
これはつまり、仲哀天皇(タラシナカツヒコ)や応神天皇(ホムタ)の時代は大和王権の根拠地は河内平野に拡大してきており、河内湾方面にその活動のベクトルが向いていたということであり、それがその少し後の仁徳天皇(オオサザキ)や履仲天皇(イザホワケ)の時代には根拠地が大阪湾方面にまで拡大し、より積極的に西へのベクトルが強くなってきたということなのでしょう。

大和川が河内湾に注ぐ河内平野と奈良盆地の間を分けているのは、交野市南部から柏原市北部まで南北に連なる生駒山地と、その南の香芝市から五條市北端まで南北に連なる金剛山地です。この生駒山地と金剛山地の間の回廊を抜けて大和川を遡って奈良盆地に入ってきた地点、大和川の北岸に龍田大社があります。
伝承によればミマキイリヒコ大王の時代に数年間凶作が続いたのでこの地に風神を祀ったのが龍田大社の創建の由来だそうで、古代においては空気の流動が農作物の生育に影響を与えるとされていましたから豊作祈願のために風神を祀るのはよくあることで、ミマキイリヒコ大王の時代以前からこの地で風神の祭祀が行われて、おそらくこの神社の位置、そしてこの伝承から考えて、奈良盆地全体の豊作祈願を司っていたのでしょう。自然霊祭祀というよりは、割と原初的な穀霊祭祀ではないかと思います。
ここでは、それを大王自ら祀ったということに意義があったのであり、ミマキイリヒコの時代には大王家は奈良盆地全体の豊作を代表して祈願する立場にあったということなのでしょう。

古代の日本列島においては現在の平野部というものはほとんどが海の底か、あるいは干潟地帯であったのであり、特に紀元前250年ぐらいから紀元後150年ぐらいまでの地球が温暖化していた時代においては海岸線が更に陸地奥深くに食い込んできていたので、そうした傾向は強かったといえます。
その時代において日本列島の人々は主に山間部に暮らしていたのであり、海岸線近辺は何らかの交易や漁労のために海に出る場合のための場でした。しかしこの時代はまた西日本や東日本においても水田稲作が生活の基本要素となっていった時代でもあり、つまり稲作も山間部で行うことになります。
しかし、あまりに急峻な斜面では稲作は行えませんし、だいいち水田稲作に不可欠な水を高地に汲み上げるのは古代においては不可能です。そこで自然と古代における農耕適地は山間部の河川の流れる谷間ということになります。しかし谷間というのはだいたい狭いもので、なかなか広々とした農地が確保できません。
そこで便利なのが山地と山地に囲まれた広い平野である「盆地」という地形で、中流域や上流域に広大な盆地を抱えた水系に暮らす農民は高い生産性を維持することが出来て豊かな暮らしを送ることが出来ました。
例えば、海人氏の最初の根拠地と思われる宮崎の大淀川水系には都城盆地という約100平方km.の比較的広々とした盆地があり、熊襲族の居住区であった球磨川水系には人吉盆地という約75平方km.の盆地がありました。これらは水系を利用する民にとっては、海岸線にある「海門」「海都」に対応した「山門」「山都」であったのです。
都城盆地や人吉盆地のような100平方km.以下の広さの「山都」は全国各地の様々な水系に普通に見られるものでしたが、北九州の「火の国」のエリアには目ぼしい「山都」になりそうな盆地は50平方km.の日田盆地ぐらいで、あとは農耕適地は狭隘な谷間がほとんどでした。
そういうゆとりのない環境であったからこそ、北九州地方では共同体同士の戦争が頻発して、結果的にそれによって共同体が統合されて、いちはやく国家というものが発生していったのです。そして生産性の低さは、朝鮮半島に近いという地理的アドバンテージによって、交易によってカバーすることが出来たのです。
しかし、そのように北九州で示された共同体の統合という方向性を他の地域の共同体も理解して見習おうとした場合、そこに戦争が介在する必要性は絶対的なものではなく、むしろ広大な盆地を持ち豊かな生産力を有し、土地のゆとりがあり無駄な戦争を省いて共同体を統合出来る地方のほうが、多少時間はかかっても長い目で見れば北九州よりもより強大な国家を生み出していける潜在能力を有しているといえるでしょう。

そういった広大かつ有望な「山都」たり得る盆地としては、例えば吉備国にあった約300平方km.の津山盆地や、但馬国の約250平方km.の豊岡盆地、丹波国の約300平方km.の福知山盆地などがありました。
しかし、それらの西日本の有力な「山都」の中でも群を抜いて広大であった3つの盆地は全て広義の淀川水系に集中していたのです。すなわち、約450平方km.の奈良盆地、同じく約450平方km.の京都盆地、そして約550平方km.の近江盆地であり、しかもこれら3つの「山都」は隣接しており、ほぼ一体となって巨大な経済圏を形成していたのです。そして、この3つの「山都」は全て、後に古代日本における首都が設置されることになるのです。
実際、この3つの盆地と同レベルの規模を持つ盆地は、東日本を含めても、東北地方の900平方km.の横手盆地、1800平方km.の北上盆地は別格として、他には高山盆地、長野盆地、甲府盆地ぐらいしかなく、この畿内の3つの盆地はまさに古代日本を代表する「山都」たるにふさわしいものだといえるでしょう。
特にこの中でも奈良盆地は最も「海都」である河内湾に近く、しかも盆地内で大和川が数多くの支流からの合流を受けており、非常に多彩な水路を有していたという点で、古代日本列島の「山都」の中の「山都」として最もふさわしい土地だったといえるでしょう。

そして、日本列島の住人たちは、同一の水系内で戦争あるいは話し合いの結果「和睦」「和解」をして、互いの共同体を温存したまま祭祀の統合をして作った自らの共同体を「和(ワ)」と呼び、複数の水系にまたがって「和」と「和」が更に統合して形成した大共同体や国家を「大和(タイワ)」と呼んだのではないかと思います。
これは音読みですからシナ語であり、おそらく朝鮮半島の華僑たちに自分たちの所属を明らかにする際に、「自分はA和から来た」などというように記号的に使ったものでしょう。そういう者が日本列島からたくさんやって来て、みんな自分の所属を「?和」と言うわけですから、華僑たちは「つまり、あの島はワがたくさんあるワ国なんだな」と思い、それに「倭国」という字をあてたわけです。
そして、そのうちその倭国の中でも特に大きい共同体の者がやって来るようになって、自分の所属を「タイワ」と言うので、そこのことは華僑は「大倭」と呼びました。もちろん共同体の住人は「大和」のつもりで言っているわけです。
そこは奈良盆地で、大和川の支流が幾つもの水系を作っており、それぞれの水系にもともとは「和」があったのですが、それらを統合する王権が生まれてきて、奈良盆地一帯に「大和(タイワ)」を形成したのです。
そして、この奈良盆地はまさに典型的な「山都(やまと)」でもあり、その「やまと」に形成された王権が「大和(タイワ)」を自称していたわけですが、それが何時しか同一視されるようになり、「大和」と書いて「やまと」と読むようになっていったのではないかと思われます。つまりこれが「大和王権」の誕生というわけです。
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