KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その213 纏向地区
そうした、おそらく3世紀初頭と推測される大和王権の誕生に先立つ遥か前、紀元前70年頃のイワレヒコの東征よりも更にだいぶ前の奈良盆地には北から淀川水系から河内湾、そして大和川を通ってまずは出雲系氏族がやって来たと思われます。
最初に大和川が奈良盆地に入ってきた地点にあったのが龍田大社で、龍田大社から更に大和川を東に遡ってすぐに、王寺町の中心でさっそく南へ向けて1本の支流を出します。いや、正確にはこの地点が大和川にとっては奈良盆地内で最後に支流の合流を受ける地点ということになるのですが、この支流が葛下川で、香芝市や上牧町を流れて王寺町で南から大和川に合流するのです。

そして、大和川を更に東に遡って、王寺町から斑鳩町に入った地点で今度は北から竜田川の合流を受けます。この竜田川は生駒山の北東麓に源流を発し、生駒市、平群町を南下してきて斑鳩町西部で北から大和川に合流します。
そして、大和川を更に東に遡って斑鳩町を過ぎて安堵町に入った地点で、一気に奈良盆地の各方面へ向けて大和川の支流が拡散していきます。いや、実際は逆で、奈良盆地の各方面から流れてきた大和川の支流が、この安堵町の西部で大集合して1本の大和川になり、斑鳩町へ流れていくというのが正確な表現ということになります。

その大和川のそれぞれの支流を、上流域のほうから辿っていってみます。
まず本流の大和川ですが、その水源は奈良盆地の東の山中、桜井市の北東端にあり、この最上流部で、笠置まで北上して木津川に注ぐ布目川の支流に乗り換えることが出来ます。
そして、この大和川の上流部は初瀬川というのですが、この初瀬川は最上流部から南下してきて宇陀市の榛原で木津川水系の最上流の宇陀川に乗り換えることが出来ます。この宇陀川を下っていけば名張川から木津川になって最終的には淀川に合流することが出来ますし、その途中で伊勢湾方面へ乗り換えることも出来ます。また宇陀川を最上流部まで遡れば紀ノ川の上流の吉野川に乗り換えることも出来ます。
榛原の近くを通った後、初瀬川は巻向山と三輪山の南を通って奈良盆地の東南部に出てきて大和川になります。そして大和川は奈良盆地の最東部を北西方向へ流れていくことになります。この大和川が奈良盆地に出てきた地点の東にあるのが三輪山と、三輪山そのものをご神体としたその西麓にある大和国一宮の大神神社です。

この大神神社の祭神は三輪山に鎮座しているオオモノヌシであり、蛇神、水神、雷神、そして大和国の守護神であり同時に強力な祟り神、またオオアナムチの和魂そのものともされる、複雑な性格を有した神です。
これは要するに、もともと三輪山に対する山岳信仰があった土地に出雲系海洋民の賀茂氏が大和川を遡ってやって来るようになり、自らの信奉する水神であるコトシロヌシ信仰と三輪山信仰を習合させて、山の神にして水神であるオオモノヌシという神を作り出し、コトシロヌシは蛇神でもあり、また賀茂氏がコトシロヌシと共に信仰したアジスキタカヒコネは雷神でありましたから、オオモノヌシも蛇神で雷神でもあるとされたということでしょう。
このようにオオモノヌシの正体自体がもともとはコトシロヌシやアジスキタカヒコネそのものなのですから、各種の同系の伝承の中でオオモノヌシとコトシロヌシが混同されやすくなっているのだといえます。
そして、そうした賀茂氏によるオオモノヌシ信仰があったこの三輪山の地に後に南洋系の海人氏が進出してきて、この海人氏、つまり天皇家もオオモノヌシの祭祀を引き継いだのですが、ミマキイリヒコ大王の時代に疫病が発生してこれがオオモノヌシの祭祀が至らないことによる祟りであると見做され、そこでおそらくは賀茂氏系である大田田根子という人物に祭祀を担当させることにして大和国の守護神としたのですが、おそらくはこの事件がきっかけとなって大和王権が各種の信仰を間接的に管理していく体制が整備されていくことになり、天皇家による首長霊の統合事業が開始されていくようになったのではないかと思われます。
とにかくこの事件によってオオモノヌシは祟り神であり守護神という性格を有するようになり、このようなパターンでの祭祀の在り方というのがミマキイリヒコの子であるイクメイリヒコ大王の代に出雲大社のオオアナムチ祭祀で踏襲され、オオアナムチも祟り神であり日本列島全体の守護神としての性格を持つようになり、オオモノヌシと似通った性格を持つようになりました。
すると次第にオオアナムチとオオモノヌシが混同され同一視されやすくなり、後に記紀編纂事業の中で日本神話がまとめられる際に、出雲神話の中でオオアナムチの和魂としてオオモノヌシが登場するようになったのです。

また、この大神神社においてもう1つのポイントは、この地が日本書紀で言うところの大和の笠縫村であり、最初に天照大神を宮廷の外で祀った場所で、いわゆる元伊勢の最初の地とされていますが、実際はアマテラスは伊勢の太陽神ですからこれはあくまで天照大神が天皇家の祖霊であるとする日本書紀の世界観に則った記述であり、実際のところは天皇家の首長霊を各地の神社に分霊してその地の首長霊と習合させていって、その地の首長霊の継承権を天皇家のものとしていく作業のきっかけとなった地であるということです。
本来の三輪山信仰には太陽神信仰の要素があり、それゆえにこの地で天皇家の首長霊も祀るようになったのでしょう。天皇家は海洋民でしたから、その首長霊には太陽神の要素もあり、三輪山信仰との親和性は高かったからです。
伊勢のアマテラスも同じようにして天皇家に継承権が委譲されていった地方首長霊であり地方太陽神の1つに過ぎなかったのですが、後に記紀編纂事業の中で天皇家の祖霊としての地位を与えられることとなり、「天皇家の首長霊=天照大神」という等式が定着したために、笠縫村のような各地の天皇家の首長霊分霊神社が全て「元伊勢」というふうに呼ばれるようになったということなのです。

このように三輪山および大神神社は大和王権の祭祀統合による勢力拡張の原点となったような地ですから、つまりはここが大和王権発祥の地ということになります。
そのため、この三輪山から北へ伸びるエリア、だいたい北西へ下っていく大和川と、奈良盆地東の山中から天理市中心部を通って南西に下って大和川に合流する布留川に囲まれた大和川東岸一帯エリアには、崇神天皇陵や景行天皇陵、そして箸墓古墳など初期大和王権に縁のある多数の古墳群、そしてこのエリアの南端には大神神社、北端には石上神宮、中央には大和神社などの神社群、そして三輪山の東の巻向山山中に水源を発し大神神社の西で大和川に注ぐ纏向川の流域において箸墓古墳を中心に広がった古代の巨大都市跡といえる纏向遺跡など、膨大な古代遺跡が存在し、この奈良盆地東南端の大和川東岸エリアが大和王権発祥の地であると同時に、持続的に大和王権の中心地域であり続けたということも分かります。

大和神社は現在は天理市南部の奈良盆地の東端にありますが、古代においては三輪山の北方にある龍王山の西山麓にあり、その中殿の主祭神は日本大国魂大神といって正体不明ですが、左殿の主祭神が八千戈大神で、これはオオアナムチの別名であり、右殿の主祭神は御年大神で、これはスサノヲの子ないしは孫であり、また左殿の主祭神を三輪大明神、つまりオオモノヌシとする説もあり、いずれも出雲系の神々であり、また、この日本大国魂大神もミマキイリヒコ大王時代の疫病時に天皇家に祟りをなして、どうやら土着の氏族の者である長尾市という者に祭祀を担当させて鎮めていることからも、三輪山のオオモノヌシと同じく元来は龍王山の山の神で、大和王権成立以前には出雲系氏族が祭祀していたのでしょう。あるいはオオモノヌシと同一神であったのかもしれません。

その龍王山の山中の北側に水源を発する布留川が北へ流れ、龍王山の北に連なる布留山の東麓を流れてから西へ向きを変えて奈良盆地に出てきた地点、布留山の西北麓の布留川の南岸にあるのが石上神宮です。
この石上神宮は布都御魂剣という剣に宿る神霊を祀った神社で、その祭祀を担当していたのが軍事氏族であった物部氏で、この神社はこの大和王権の中心地域において大和王権の武器庫として機能していたとも言われています。
この布都御魂剣は国譲り神話の中のタケミカヅチによる平定の際に使われた剣で、また、イワレヒコの東征の際に天照大神によって地上に降ろされたとも言われていますが、このようなことが事実であるわけではなく、おそらくもともと天皇家の保持していた首長霊継承のためのレガリアの1つにこの布都御魂剣という剣があり、それを記紀の中で登場させたということなのでしょう。
そしてその祭祀を物部氏が担当しているということは、このレガリアをもともと継承していたのが物部氏ということになるのでしょう。タケミカヅチというのは中臣氏の祖神とされていますから国譲り神話の流れからはこの剣の祭祀は中臣氏が行って然るべきなのですが、そうではなく物部氏が祭祀を行っていたということは、この剣が国譲り神話の由緒とは何ら関係無くもともと物部氏の祭祀していたレガリアとして存在していたのだということを意味しているのだといえます。
しかし物部氏の元来の根拠地はこの石上神宮の地ではなく河内国であったので、これは通常の形での祭祀ではありません。また、この石上の地で物部氏がこの剣の祭祀を行うようになったのはミマキイリヒコ大王の時代に大王の命令によってということになっていますから、これはミマキイリヒコ時代に進められた首長霊祭祀の統合政策に関係あるのだといえるでしょう。
おそらくは、ミマキイリヒコの時代に各地の豪族の首長霊祭祀の統合を進めることによって大和王権を形成していくという作業の初期的段階に入り、そのために各地の豪族の継承するレガリアを奈良盆地東南部の大和王権中心部に集中させて大王家の管轄の下での祭祀に供するということが始まったのでしょう。
そうした中で河内国に勢力を有していた物部氏も自らのレガリアである布都御魂剣を大和王権の首長霊を構成するレガリアの1つとして献上することによって大和王権の連合に参加することになり、実際の布都御魂剣の祭祀は石上の地で物部氏の大和駐在員のような要員が行うようになったのが石上神宮の始まりとなったのです。
そして軍事氏族であった物部氏の大和駐在員が大和王権の武器管理や軍事も担当するようになっていったというわけなのです。そのようにして各地方から集まってきた各豪族の大和王権駐在員の居住し活動する大和王権の首都こそが纏向であったのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

 同時代の出雲の情況を報告します。
製鉄技術が発達した出雲の中心地付近には
妻木晩田がありました。しかしそこで、四隅突出墳丘墓が造営されなくなってもそこに隣接する島根県安来市の塩津山墳墓群では古墳時代まで造営が続き、やがて全国一の大方墳を作るまでに集権化されています。
この地は出雲風土記でもスサノオが「安来」という名前を付けたという事で、古代出雲王朝の首都と考えることが出来ます。

【2007/08/26 19:56】 URL | 雲伯鉄 #- [ 編集]



この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。