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日本史についての雑文その214 飛鳥地区
この石上神宮の北を流れた布留川は南西に向かって流れ、天理市西端の吉田町で大和川に注ぎます。
布留川の合流を受けた後、大和川は北西に向けて流れていき、川西町の北部で佐保川の合流を北から受けます。ここから佐保川を遡っていくと大和郡山市内を北上していき、奈良市との市境地点が平城京の中央を南北に貫く朱雀大路の南端である羅生門跡になります。つまり真っ直ぐ北へ遡る佐保川の流れの延長線上に朱雀大路が伸びており大内裏があったということになるのです。そして、この羅生門跡のすぐ北で佐保川は西から秋篠川の合流を受け、そのまた少し北で今度は東から岩井川の合流を受けます。

秋篠川は奈良市北西部の登美ヶ丘に発し、少し東へ下った中山町で船を下りて北へ歩いて山城国に入れば山田川に乗り換えて木津で木津川に合流することが出来ます。そして秋篠川は、平城京の大内裏の北部にある佐紀古墳群の西を通過して、平城京の右京の一坊大路に沿って真っ直ぐ南下して最後に東へ折れて平城京南部で佐保川に合流します。
また岩井川を佐保川への合流地点から遡っていくと、延々と西へ進み奈良盆地を突っ切って東側の山中に入り地獄谷に達し、そこで白砂川の最上流部に乗り換えて、白砂川を下っていくと笠置で木津川に注ぎます。
そして佐保川の本体のほうは秋篠川や岩井川の合流地点から更に遡ると平城京の左京地区を北東方向へ進んでいくことになり、大内裏の南東、現在の新大宮駅あたりで東へ向きを変えて遡るようになり、奈良市市街地を通って、後に大仏が建立される若草山の北へ回りこんでいき、そこで船を下りて歩いて山城国に入り、梅谷口で鹿川に乗り換えて下っていき木津で木津川に合流することが出来ます。
この佐保川と秋篠川に挟まれたエリアに平城京の中心部とその北部の佐紀古墳群が含まれることになるのですが、この奈良盆地の北端にある佐紀古墳群には神功皇后稜などがあり、どうやら先述の奈良盆地東南部の大和川東部エリアに加えて大和王権の中心地が奈良盆地北部にも拡大してきたということなのでしょう。
それは佐保川や後述の富雄川を通じて木津川や淀川、宇治川水系へアクセスして大和王権の勢力範囲が北方地域へ拡大していったということの表れであり、神功皇后ことオキナガタラシヒメはそうした現象の象徴的存在であったのでした。そしておそらくはこの佐紀方面への勢力拡大と並行して奈良盆地を出て西の藤井寺市の古市方面への勢力拡大も行われていたと見たほうがいいでしょう。

これらの佐保川、秋篠川、岩井川などが奈良市南部で合流して1本の佐保川になり、大和郡山市を南下して川西町の北端で北から大和川に合流した後、大和川は西へ向けて流れていくようになり、その大和川の少し下流で南から合流してくるのが寺川です。
寺川は桜井市南部の険しい山中に発して、北上して桜井市中心部を通ってから西進し十市に至って再び北上し田原本町中心部を経て、弥生時代の有力集落遺跡である唐古遺跡や鍵遺跡を西を見て、その後北西に進んで川西町北部で大和川に合流します。また、十市で寺川は、明日香村北部から耳成山や天香久山を経てくる米川の合流を南から受けます。
寺川の次に大和川に南から合流してくるのが飛鳥川です。飛鳥川は奈良盆地の南にある高取町東部の山中に水源を発しますが、石舞台古墳や飛鳥板蓋宮や飛鳥浄御原宮などの跡地のような飛鳥地区の諸遺跡を通り、北へ向かって流れて橿原市中心部を通ってから田原本町西部を通り、川西町の北西端で大和川に合流します。
この飛鳥川は飛鳥地区の南の高取町の水源から徒歩で芋ヶ峠を南へ越えて千股川に乗り換え、千股川は吉野町で吉野川に注ぎます。このように飛鳥地区は奈良盆地の南東端に位置する奥の院的な場所で、そこを流れる飛鳥川は大和王権にとっての離宮であり隠棲地であった吉野地方への連絡路の1つでありました。

そして、この飛鳥川合流地点のすぐ西の河合町北東端で大和川に南から合流してくるのが曽我川であり、この曽我川にはそのすぐ南で葛城川と高田川が合流してきます。この曽我川の大和川への合流地点のほとりに建つ神社が廣瀬神社です。また、この廣瀬神社の下流500m.ほどの地点には北から富雄川が大和川に合流してきます。
このように、廣瀬神社を中心とした半径1km.ほどの範囲内で大和川に合流してくる主要な河川は佐保川、寺川、飛鳥川、曽我川、葛城川、高田川、富雄川と多岐にわたり、この神社が奈良盆地内の水路の要衝であることが分かります。
それゆえ、この廣瀬神社では水神が祀られています。この神社もミマキイリヒコの時代に祭祀が開始されたとされていますが、おそらくは天皇家による祭祀に組み込まれる以前からこの地で出雲系氏族や天皇家に先行した南洋系氏族による水神信仰は行われていたのでしょう。何故なら、廣瀬神社の本来の祭神は長髄彦であるという説もあり、また相殿にはニギハヤヒが祀られているとされています。
長髄彦はイワレヒコの東征時に抵抗した、おそらくは出雲系と思われる氏族の長で、ニギハヤヒはその長髄彦と縁戚関係を結んでいた、おそらくは南洋系海洋民の氏族の長で、その子孫が物部氏となります。そしてこの廣瀬神社の祭祀は物部氏の末裔によって行われてきたのです。このように見てみると、この廣瀬神社の水神祭祀は出雲系か、あるいはそうでないにしてもとにかく大和王権以前の古層に遡る起源を有したものであるのは間違いないといえるでしょう。
そして、この廣瀬神社の水神の祭祀は、その下流にある龍田大社の風神の祭祀と対になったものとして捉えられることが多かったようです。その由縁はよく分かりませんが、位置関係としては廣瀬神社の地点で奈良盆地内のほとんどの河川が1本の大和川に集められて、その大和川が龍田大社の南を通って奈良盆地から西へ出て行くということになります。

この廣瀬神社の地点で大和川に合流する曽我川は奈良盆地の南の大淀町の山中に発して、北上して奈良盆地の最南端の吉野口に出て、奈良盆地南半分の真ん中を南から北へ流れる河川で、橿原市西部を北上し広陵町と田原本町の間を北上して河合町北東端で南から大和川に合流します。この曽我川の最上流部は車坂峠を徒歩で越えれば吉野川の支流に乗り換えて、大淀町で吉野川に合流することが出来ます。
また、この曽我川の中流、橿原市の曽我町のあたりは古代の有力豪族の蘇我氏の奈良盆地における根拠地でした。蘇我氏はもともとは河内国南部の石川の流域に勢力を有していた海洋民氏族であったと思われ、東南アジア系であるのか南洋系であるのか判然とはしませんが、おそらくは吉備や播磨のような、それら両系統の海洋民の合体したものではなかったかと思います。
だいたい豪族連合政権である古代大和王権の有力豪族といえば大王家以外では葛城氏、平群氏、大伴氏、物部氏、蘇我氏、中臣氏などですが、記紀の記述によれば大伴氏と中臣氏はイワレヒコの東征時の近習を祖とし、物部氏はイワレヒコ東征時の敵対者で和睦後に家臣となったとされ、葛城氏、平群氏、蘇我氏などはイワレヒコの子孫、つまり皇族を祖とするということになっています。しかしこれらの出典はおそらくは各氏族に伝わっていた伝承であり、自分の先祖を出来るだけ天皇家に縁の深いものに見せようという作為が働いている可能性が高く、全面的に信用することは出来ません。
ただ、葛城氏や平群氏、蘇我氏に関しては記紀の潤色表現を差し引いて見てみれば、元来は大王家と対等の存在であったようですから、本当に皇族出自の氏族であったのかもしれませんし、あるいは全く別氏族で大王家にとっての対等の連合相手であったのかもしれません。
一方、大伴氏や中臣氏は基本的には大王家の家臣的存在であり、大王家を中心とした大和王権の中の祭祀担当氏族が中臣氏で、軍事担当氏族が大伴氏であったようです。基本的には職能氏族であり、もともとは政治的な意思決定に参加する存在ではなかったようです。だからといって本当にイワレヒコの時代から大王家の家臣であったのかどうかはよく分かりません。ただおそらくは大和王権が奈良盆地南西部で最初に形成された初期の段階で王権に参加し、遅くともその段階では大王家を主君として推戴する関係性は築かれていたのであろうと思われます。
物部氏に関しては、記紀にわざわざ最初は敵対者として描かれているぐらいであり、また大和王権内での祭祀や軍事における特別な地位を考えると、大伴氏や中臣氏のような生粋の大王家家臣的な存在とはまた異質な出自であったのではあるのでしょう。おそらくはイワレヒコ東征伝承の中の記述を見る限り、大王家とはまた別系統の南洋系海洋民氏族で、先行して奈良盆地に進出していた出雲系氏族と密接な繋がりのあった氏族だったのでしょう。そういう意味では出自としては蘇我氏などと似ている部分もあるのかもしれませんが、おそらく物部氏の場合は、大伴氏や中臣氏と同じように大和王権成立初期の段階で大王家に臣従するようになったのでしょう。

それに比べて葛城氏、平群氏、蘇我氏などは大和王権に参加するのも遅れ、むしろそれらも含めた数多くの氏族が対等に近い形で連合に参加することで大和王権が奈良盆地全体、そして奈良盆地をも越えて飛躍的に広がっていったのではないかと思われます。言うなれば大伴氏、中臣氏、物部氏は大和王権の中核を担う氏族ではありますが、あくまで大王家の家臣であり、それゆえ大王家と外戚関係などは持たないのであり、一方、葛城氏や平郡氏、蘇我氏などは大王家の対等の連合者であり、それゆえ大王家と外戚関係を持つわけです。ただ悪く言えば単に利用し合っている関係なのであり、大王家にとって利用価値が無くなったり有害な存在になった場合は、簡単に滅ぼされたりしてしまうのです。
そういう不安定な地位であるからこそ外戚関係で大王家と繋がっておく必要が生じるのかもしれません。それに比して、大伴氏、中臣氏、物部氏などは大王家との間に揺ぎない君臣関係が存在しているため、外戚関係などを特に必要とはしないのでしょう。
初期の大和王権の外戚はよく分かりませんが、おそらくは皇族系の氏族であったか、あるいは奈良盆地内の有力氏族、または畿内以外の地方勢力との政略結婚的なものであったと思われます。そしてオオサザキ大王以降のいわゆる河内王朝時代には葛城氏が外戚として権勢を誇り、オオハツセノワカタケ大王時代に葛城氏を討伐して以降は平群氏を外戚とし、平群氏もオハツセノワカサザキ大王の時代に没落し、オオド大王時代以降は蘇我氏が外戚で、それに対抗する勢力として物部氏や大伴氏の権力が強められることとなったのです。
そうした蘇我氏の奈良盆地内における最初の根拠地であったのが、この曽我川の中流にあった曽我という地であったのです。いや、曽我を流れる川であるから曽我川という河川名となったのであろうし、曽我を根拠地とする氏族であるから蘇我氏と呼ばれるようになったのでしょう。

この曽我の地で南から曽我川に合流してくる高取川は高取町の山中から発し、北上して明日香町のキトラ古墳や高松塚古墳の付近を通り、更に北上して橿原神宮の西を通ってから曽我川に注ぎます。橿原神宮というのは明治になってから創建された神社で、要するに日本書紀によると畝傍山の麓のこの地にイワレヒコが最初に都を築いたとされているので、その地を顕彰して明治維新後に橿原神宮を作ったということです。
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