KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その215 葛城地区
さて、曽我川が大和川に注ぐ直前の広陵町北端で南から曽我川に合流してくるのが葛城川です。葛城川は奈良盆地の南西端にある金剛山の東山麓に発する流れですが、その最上流部は金剛山南方の風の森峠を越えて宇智川に乗り換えて五條で吉野川に注ぎます。
このように奈良盆地からは飛鳥川、曽我川、葛城川が紀ノ川の上流部である吉野川に連絡することが出来るのです。また、宇陀川を経由して大和川も吉野川の上流部に連絡可能です。吉野川は吉野地区、つまり「木の国」への入り口であり、これらのルートによって大和国は木の国に繋がることが可能なのです。


さて葛城川ですが、その最上流部の金剛山東山麓に高鴨神社があります。これは全国の賀茂神社の総本社で、祭神は出雲系のアジスキタカヒコネで、この神は賀茂氏の祖神とされますが、荒ぶる神、雷神として出雲神話の主宰神であるスサノヲとも共通した神格を有しています。またこの高鴨神社ではコトシロヌシも祀っており、賀茂一族の発祥の地とされ、賀茂一族はここから葛城川を下って奈良盆地へ進出したといわれています。
ただ、山中で賀茂一族が発祥したということもあり得ないわけで、何処かからかやって来たのでしょう。そして葛城川を遡ったのではなく下ってきたという移動経路を考えると、おそらくは他の河川ルートで葛城川上流地域へ乗り換えてきたのでしょう。
そうなると考えられるルートは河内国を流れる千早川流域から水越峠を越えてくるルートか、あるいは木の国を流れる吉野川から風の森峠を越えてくるルートかのいずれかですが、賀茂氏の信仰が出雲系であることから前者の可能性のほうが高いといえます。おそらくは出雲・丹波方面から桂川水系、淀川水系を通って河内湾経由で石川、千早川を遡り、水越峠を越えて金剛山地の東側に移ってきたのでしょう。
そしてこの金剛山地の中の葛城山の東南麓、葛城川に注ぐ水越川沿いには葛城一言主神社があり、ここには元来から託宣の神として篤く信仰されていた一言主神が祀られており、これが賀茂氏によって出雲系水神であったコトシロヌシと習合されて、これによって葛城山系から葛城川水系を中心に奈良盆地へコトシロヌシ信仰が広まっていくようになったのです。
高鴨神社はもともとはおそらく単に鴨神社といったのでしょうけれど、賀茂氏が奈良盆地の平地のほうへ進出して葛城川沿いに葛城御年神社や鴨津波神社が出来るようになってから、それらと区別する意味で「高地にある鴨神社」という意味で高鴨神社というようになったのでしょう。高鴨神社を上鴨神社、葛城御年神社を中鴨神社、鴨津波神社を下鴨神社と呼ぶこともあります。

葛城御年神社は高鴨神社から葛城川を下っていった御所市の東持田にあり、ここの祭神は御年神で、これはスサノヲの子である大年神の子で、穀霊とされています。また鴨津波神社は葛城御年神社から更に葛城川を下った御所市の中心部にあり、祭神はコトシロヌシで、これは出雲神話の水神でありオオアナムチの子にあたります。この鴨津波神社が全国のコトシロヌシ信仰の総本社ということになりますから、高槻市の三島鴨神社の信仰もここから伝わったということになります。
鴨津波神社の祭祀はミマキイリヒコの時代に、三輪山の大神神社の祭祀を始めた大田田根子の孫である大賀茂都美という者が勅命を受けて創始したとなっていますが、大田田根子はオオモノヌシの血を引いており、つまりはもともと葛城川水系でコトシロヌシを祭祀する資格を有する者は出雲系一族であったということで、やはり賀茂氏は出雲系氏族であったということになります。
なお、この葛城御年神社や鴨津波神社は賀茂氏と共に葛城氏によっても祭祀されていますが、これはこの地が葛城氏の本拠地であったからで、新来の氏族がその土地でもともと祭祀されていた神を祀るのは日本では当たり前のことですから、葛城氏が出雲系氏族であったのかどうかは不明です。

このように葛城川は賀茂氏や葛城氏の本拠地を通って北上していき、大和高田市、広陵町を曽我川の西を並行して、広陵町北端で曽我川に合流し、その後は曽我川と一体となって廣瀬神社のほとりで大和川に注ぎます。
また、その葛城川と曽我川の合流地点の少し北で曽我川に注ぐ高田川は葛城山の北東麓に発して、葛城川の更に西側のエリアを葛城市、大和高田市、広陵町と北上していく河川で、大和川との合流地点のやや南の高田川の西に南北に伸びる馬見丘陵があり、ここには大和王権の古墳群があります。なお、この馬見古墳群からは佐味田川が発し、大和川に注いでいます。
大和王権の古墳群としては、最も初期のものは奈良盆地南東部の纏向周辺の古墳群があり、ここが大和王権の初期の本拠地であったのでしょう。この時代には大和王権は東方への志向が強かったと思われます。
その後、タラシナカツヒコ時代ぐらいから奈良盆地北端の佐紀古墳群と奈良盆地から河内平野に出たところにあった古市古墳群のあたりが王権の中心地となり、日本海方面や西方への志向が強くなり、更に時代が下りオオサザキ時代からは大阪湾に面した百舌鳥古墳群が中心となり朝鮮半島やシナ大陸への志向が強くなり、外戚として葛城氏の力が強まります。
そしてオオハツセノワカタケ大王が葛城氏を滅ぼして、その故地である葛城を大和王権の本拠地として馬見古墳群を築き、大王の権力を高めていくことになるのです。そしてその後、オオド大王の時代以降は外戚の蘇我氏の勢力範囲であった飛鳥地区に大和王権の本拠地は移っていくのでした。

これらの曽我川、葛城川、高田川の合流を受けた大和川は、廣瀬神社の西500m.ほどの地点で今度は北から富雄川の合流を受けます。この富雄川は生駒市の北端に水源を発し、奈良市や大和郡山市の西部を南下して、大和川に合流する直前は飛鳥時代にウマヤド皇子が本拠地とした斑鳩地区の東を通る河川です。
この富雄川の上流部、生駒山の北東においては、山城国との国境で普賢寺川に乗り換えて、その普賢寺川が京田辺市で木津川に合流することによって木津川水系と連絡することも可能であり、また同じく生駒山の北東で富雄川が白庭台で天野川に乗り換え、天野川が下っていって淀川に注ぐことで淀川水系にも連絡可能となります。
特にこの天野川の淀川合流地点の枚方は三島鴨神社のある三島江のすぐ上流であり、この富雄川や先述の佐保川、秋篠川などの木津川水系や淀川水系への連絡ルートこそが、茨木の溝咋神社に伝わっていた「コトシロヌシが奈良盆地から木津川や淀川を経て通ってきた」という伝承のルート、つまり賀茂氏の進出ルートなのであろうと思われます。

そして、この生駒山北東の白庭台で富雄川に乗り換える天野川の上流の渓谷沿い、交野市南部の山中には磐船神社があり、物部氏の祖であるニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨した地であると言われています。
物部氏は河内国に本拠地を有し、天野川の流域にも勢力を有していたのでしょう。河内国は古代においては河内湾を中心とした湿地帯とそれに注ぐ多くの河川で成り立っており、そうした地に本拠を置くということは物部氏は海洋民であった可能性が高く、しかも日本書紀において物部氏の祖であるニギハヤヒはイワレヒコと同種の「天神の子」という扱いになっており、鳥の羽を付けた矢を王権の証としている点もイワレヒコと共通しており、同系統の部族として扱われていることから、南洋系海洋民である可能性が高いといえます。
そうであるとするなら、物部氏は九州方面からやって来たイワレヒコとは別ルートで大阪湾から河内湾に入り、河内湾を中心に河内国で活動していた南洋系海洋民で、天野川を経由して奈良盆地方面へやって来て、磐船神社の地で船を下りて富雄川へ徒歩で移動してきたのかもしれません。

そして、その富雄川を乗り換え地点の白庭台から少し下った地は登美ヶ丘や富雄など、「とみ」の地名の多い「鳥見の地」であり、ここは日本書紀でイワレヒコの東征に反抗して戦った長髄彦の本拠地とされている地で、しかもこの長髄彦はニギハヤヒと同盟関係にあり、天野川流域を根拠地としたニギハヤヒと、富雄川流域を根拠地とした長髄彦の同盟というのはそれなりにリアリティのあるものといえるでしょう。
また、長髄彦はニギハヤヒのことを「天神の子」と客観的に呼称しており、イワレヒコに「天神の子が2人いるのか?」と質問しているところから、長髄彦のほうはニギハヤヒやイワレヒコとは別系統の存在であると思われ、おそらくは出雲系海洋民の出自であったと思われます。
また、このイワレヒコの東征に対して戦う際に長髄彦は生駒山を越えて東大阪市の日下へ出陣していますが、そのためには生駒山系を流れる竜田川の上流域の支流を活用する必要があり、長髄彦は竜田川水系も根拠地としていた可能性が高いといえます。
竜田川は生駒山の北山麓に水源を発して生駒市と平群町を南下して斑鳩町の西部で大和川に合流しますが、生駒山系に多くの支流を巡らしています。また、最上流部は天野川とも連絡可能であり、奈良盆地の北方からの影響を受けやすい地域を上流部に抱えた河川だといえます。また、下流域は古代の有力豪族の1つであった平郡氏の本拠地でありました。
こうした富雄川や竜田川のような奈良盆地北部からの物流路が奈良盆地の最大の幹線道路である大和川に合流してくる地点に挟まれ、富雄川も竜田川も見下ろすことの出来る場所が斑鳩で、またこの斑鳩に至るまでに大和川は奈良盆地内の主要地域からの河川の合流をほぼ全て完了しているのであり、斑鳩ではそうした大和川の水運を監視し、また河内平野方面、ひいては大阪湾経由の海外からの物品などの物の出入りも監視することが出来るわけで、斑鳩は非常に重要な交通上の要衝だといえるでしょう。大政治家であったウマヤド皇子がこの地を本拠地としたのも当然といえるでしょう。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。