KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その216 津の国
こうして斑鳩で1本にまとまった大和川は西へ向かい、更に最後に王寺町で南の香芝市や上牧町からの葛下川の合流を受け、龍田大社を北に眺めてから信貴山の南を通って奈良盆地を後にして河内平野に出てきて、柏原市にて石川の合流を受けて北へ向きを転じて河内湾の南の干潟地帯に注ぐのです。
そして河内湾の西岸を伝って北上していくと上町台地によって形成された岬の北端が現在の大坂城の地点にあたります。この大坂城地点の北が幅5km.ほどの狭い海峡になっていて、この海峡を河内湾から西へ通過していくと大阪湾に出ることが出来ます。上町台地によって形成された半島によって河内湾と大阪湾が東西に分けられ、半島の北の海峡で繋がっていたからです。

この海峡の幅5km.というのは明石海峡の幅と同じくらいの狭さであり、ここを急激に海水が通過する際には強烈な潮の流れが生じます。そして、瀬戸内海においては満潮時には太平洋から大量の海水が流れ込み、干潮時には太平洋へ向けて大量の海水が流れていきます。大阪湾方面における太平洋への海水の出入り口は紀伊水道で、大阪湾では満潮時には西から東へ、干潮時には東から西への海流が生じます。すると、満潮時には大阪湾から河内湾へ向けて、干潮時には河内湾から大阪湾に向けての強い海流が生じ、それがこの上町台地先端部の北側の狭い5km.の幅の海峡を通過することになり、狭いところを一気に通過するために強烈な潮の流れを引き起こします。

そのため弥生時代においてはここは海の難所であり、ここの海峡部分のことは日本書紀のイワレヒコ東征伝承の中でも触れられています。
イワレヒコの船団が西から大阪湾に進入した時に「難波の岬」、つまりこの上町台地北端に着いたところ、たいそう速い潮の流れに出くわしたそうで、それでこの地を「浪速の国」と名づけたそうで、これが難波の語源だそうです。まぁ語源については眉唾ものであるとしても、イワレヒコがここを通過したという伝承が古くから存在していたということはほぼ間違いないのではないかと思います。
この上町台地北端の海峡は、現在は完全に陸地になってしまっていますが、こうした陸地化はどうやらオオサザキ大王の時代、つまり5世紀前半には淀川の運んできた土砂の堆積と地球寒冷化による海岸線の後退によって相当進行しており、河内湾が河内湖と化しつつあり、それにより大和川の水が逆流するという現象が起きて河内平野が水害に見舞われるようになり、それを解決するために上町台地北端の北側に堆積した土砂を掘って河内湾と大阪湾を繋げようという努力がなされています。
その時は一時的に成功はしますが、結局は海峡の陸地化は止めることは出来ず、河内平野の慢性的水害は江戸時代の大和川の流路変更工事まで継続することになり、そもそも奈良の都が使い勝手が悪くなったのもそういう事情によるものもあるのではないかとも思います。
ただ、ここで注目すべき点は、既に5世紀時点ではこの海峡はほとんど海峡としての機能を失っていることです。この時点で既に日本書紀完成の300年前です。しかも、この海峡の陸地化は地球寒冷化が大きく影響しているのですから、それは地球寒冷化の影響が本格化した3世紀ぐらいから始まっていると思われ、この海峡において満潮時や干潮時に強烈な潮の流れというものが発生しなくなってから500年後に日本書紀は書かれたということになり、もしイワレヒコの東征伝承が8世紀の偽作だとしたなら、このような500年前でなければ知り得ないような自然現象についての記述が存在するのは極めて不自然ということになり、これはやはり、この海峡が満々と海水を湛えていた時代に実際にイワレヒコの船団がここを通過したのか、あるいはそうでなかったとしても、少なくともそうした伝承がそうした古い時代に作られたものであるという点は、まず間違いないと見ていいでしょう。

この上町台地北端の現在は大坂城が建てられている地点は、古代においては河内湾と大阪湾を結ぶ狭い海峡を南から見下ろす地であったのであり、このあたりは細い岬部で河川が無いために河川による侵食作用が無く、上町台地の岩盤がそのまま海岸線となっており、天然の良港となり「難波津」と呼ばれており、その先端部である現在の大坂城の地点は瀬戸内海から河内湾、そして大和川を遡っていく奈良盆地の勢力にとっての海の玄関口、つまり「山都」に対応する「海都」の位置であったのです。
そういうわけで、大和王権はこの大坂城の位置に副都を設けるようになり、それがオオサザキ大王の時代には「難波宮」といって首都になったりもしました。首都が他の地にあった時期においても、大和王権の時代においては常にこの地は大和王権の副都であり続けたのでした。
いや、大和王権が大坂城の位置に難波宮を築いたのではなく、実際は逆で、大和王権が難波宮を築いた重要拠点に、後に蓮如が石山本願寺を築き、更に羽柴秀吉が大坂城を築いたと表現するほうが正確でしょう。
また、この上町台地北端の地は、摂津国一宮である坐摩神社がもともと存在した地で、現在の坐摩神社の位置は羽柴秀吉が大坂城を築く際に中央区の船場に移動させたもので、元来はオキナガタラシヒメが三韓征伐の帰路に淀川が大阪湾へ出てくる河口であるこの地に航海安全、交通安全の神を祀ったのが神社創建の由来とされています。つまりは、この地が大阪湾の海運にとって元来から重要な拠点であり、何らかの航海の神や海神を祀っていたということなのでしょう。

上町台地以東の河内湾を中心としたエリアが河川や干潟の豊富なことから「河内国」となったのに対して、この上町台地以西の大阪湾を取り囲むエリアは港を中心として発展した国であり、港は古代においては「津」と言いましたから、「津の国」と呼ばれ、それが後に「摂津国」と言われるようになりました。なお大阪湾に面した土地でも当初から堺市以南の部分は河内国に含まれ、後に河内国から和泉国として独立しました。
この「津の国」には、この坐摩神社のようにオキナガタラシヒメに関連の深い神社が多く存在しています。その代表格が「津の国」南端部の上町台地によって形成される半島の「住吉の細江」といわれた大阪湾に向けて開かれた細長い入り江に作られた天然の良港「住吉津」の北に接して建てられていた住吉大社でした。
住吉大社は摂津国一宮とされ、祭神は住吉三神で、これは北九州へ熊襲征伐に出向いたオキナガタラシヒメに博多の香椎宮で憑依して顕現し三韓征伐を勧めた神であり、実際は三韓征伐は北九州勢力とオキナガタラシヒメの政略的結合の産物なのであり、住吉三神は北九州勢力の信仰する宗像三女神という航海安全の神の祭祀を継承して畿内に移植した形式なのであり、この時、引き換えに北九州勢力にも八幡神の祭祀が移植されたと思われます。
つまり、畿内の大和王権と北九州勢力の間で祭祀の共有による連合が成立し、その連合によって三韓征伐が行われたということなのでしょう。日本書紀の記述においてオキナガタラシヒメが北九州の地で現地勢力からレガリアの進呈を受けたり、海底から神宝を引き上げたりしているのは、オキナガタラシヒメやその子のホムタ以降の大王家がこの地の首長霊の正統な継承権を得たということを表現しているのです。
そういうわけでオキナガタラシヒメは北九州からの帰還後、大阪湾の玄関口ともいえる「津の国」南端部の細江のほとりに住吉三神を祀るための住吉大社を建て、その細江を「住吉の細江」とし、そこにあった港を「住吉津」と呼んだのです。

この住吉大社で住吉三神は大阪湾の航海安全の神として信仰され、また、三韓征伐の戦勝記念ということもあり、海の軍神としても崇拝されました。そして、住吉大社は大王の位の継承儀式においても一定の役割を果たすほど、大王家にとって重要な神社となったのですが、これはつまり、大王家が北九州勢力の支配権の正統な継承者でもあるということを示す象徴として新たに加わった要素であると考えればいいでしょう。
これは大和王権側から見れば新宗教の導入とも言えるのであり、後世の仏教の導入も基本的には同じ構図の出来事であり、大王が仏教の信者に対しても正統な支配者であるということを示すために、大和王権内の様々な儀式の中に仏教的な要素が盛り込まれるようになったり、朝廷によって各地に寺院が建立されたりしたのです。
そして、この後世の仏教の普及時にも起きた現象なのですが、いきなり異国の宗教である仏教を尊いものだと言われても日本人には馴染みも無くリアリティが無いのであって、真に仏教を人々に受け入れてもらうためには既存の地元の信仰である神道と一体化したものとして受け入れさせるしかないわけで、これがつまり「仏とは実は神のことだったのだ」という神仏習合なのですが、これは例えば4世紀のオキナガタラシヒメの時代の住吉三神という畿内の大和の人々にとっては異国の神を受け入れる場合にも必要とされたはずであり、住吉三神は畿内における同じ性格の既存の神、つまり畿内における航海安全の神と習合して受容されたのではないでしょうか。
となると、後世の神仏習合時に各地の既存の神社の境内に数多くの神宮寺が作られたように、住吉三神を祀る住吉大社もまた、既存の航海安全の神を祭祀していた場所に建てられたのではないかと推測されるのです。

そして、日本書紀における住吉大社の祭祀開始の経緯についての伝承を更に細かく見ていくと、三韓征伐の後、大和への帰路の瀬戸内海上において、難波で反乱軍が蜂起して淡路と播磨に進出し明石海峡で待ち伏せしていることを知ったオキナガタラシヒメがおそらく鳴門海峡を抜けて和歌山港に逃れ、そこから反撃するために友ヶ島水道を通過して大阪湾に入り、そこから西へ舵を切って難波津に向かった際に船が何故か進まなくなるという異変が生じ、仕方なく北上して武庫川下流の干潟地帯に避難した時、オキナガタラシヒメが住吉三神の神託を受け、その神託によって住吉三神を現在の住吉の地に祀ることが決定されたということになっています。
しかしこの時オキナガタラシヒメに憑依して神託を下したのは住吉三神だけではなく、アマテラス、ワカヒルメ、コトシロヌシも次々と顕われ、それぞれが自分の祭祀場所の希望を述べて、その一連の神々の顕現のラストバッターとして住吉三神が顕われたというのが日本書紀における正確な描写といえるでしょう。
すなわち、アマテラスが廣田という地を希望し、ワカヒルメが生田という地を希望し、コトシロヌシが長田という地を希望し、そして最後に住吉三神が顕われ、住吉の地を希望したのです。これがそれぞれ、廣田神社、生田神社、長田神社、そして住吉大社の祭祀の起源であるとされているのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。