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日本史についての雑文その218 六甲山地
つまり、この長田の地や生田の地は神戸防衛のための軍事的な要衝なのであり、湊川の合戦にしても一の谷の合戦にしても、究極的には大阪湾から淀川を遡っての京都争奪戦の前哨戦という位置づけであったのですから、4世紀の三韓征伐からの帰路においてオキナガタラシヒメの軍勢が難波の反乱軍と決戦する前に生田神社や長田神社の地に進出して根拠地としたというのは、軍事的理由によるものであったと思われます。
そもそも反乱軍が難波で蜂起した後、播磨と淡路でも兵を挙げて明石海峡でオキナガタラシヒメの軍を待ち伏せしていたのを察知してオキナガタラシヒメ軍は鳴門海峡から和歌山港経由で難波の反乱軍本拠地へ攻撃を加えようとしていたわけで、その場合に最も警戒すべきことは播磨と明石の反乱軍別働隊が明石海峡を越えてオキナガタラシヒメ軍の背後を衝いて、難波の本軍と共に挟撃してくることでした。
ですから、反乱軍別働隊の東進に備えるためにオキナガタラシヒメ軍は難波へ向かう前に長田と生田に防衛線を築いておく必要があったのであり、そのために長田や生田に兵を残し根拠地としたのです。
それが後にそのまま定住し、生田の場合は土着の南洋系のエビス信仰と大和王権の兵達のアマテラス信仰が習合して生田神社の祭祀となり、長田の場合は土着のコトシロヌシ信仰は大和の地でも4世紀には広く信仰されていましたからそのまま大和王権の兵達も祭祀に加わり、そのまま長田神社の祭祀となったのでしょう。
また、廣田神社のエビスへの祭祀にアマテラス信仰が習合したことに関する軍事的意味は、廣田神社のあった甲山の位置が、播磨地域から加古川を使って篠山経由で武庫川に乗り換えて反乱軍が武庫川下流デルタ地帯に出てきて難波方面へ向かうルートをとった場合の防衛線における監視位置として有用であったということが言えます。

このように、オキナガタラシヒメ軍は難波の反乱軍の討伐を行う前に、廣田、生田、長田の地に播磨・淡路の反乱軍別働隊への押さえの部隊を残しておいたのであり、そしてその上で住吉の地にそれら3つの防衛線が突破された際の最終防衛線を置いたのでしょう。それが日本書紀においては4種の神が次々に現れて自らの祭祀場所をリクエストするという4つの神社の創建伝承の形で語られているわけです。
私は決して超常現象を頭から否定するという立場ではありませんが、いくらなんでもこのように次から次へと神様が現れて唐突に祭祀場所の希望を言うということがあり得るとは思えず、また、これらの神々のラインアップを見ると、日本書紀の前後の文脈において全く脈絡というものが無く、これは単に軍事的必要に対応してこれら4地点に大和王権の新たな根拠地を築くことになり、それによって後に結果的に4つの神社の祭祀の現在に至る形態が発生したというのが事実であり、それを日本書紀においてはオキナガタラシヒメ軍、ひいては大王家が神の意思に適った存在であることを強調するために最初から神意によって4つの神社が作られたという話にしているのです。
これら4地点への進出とそれに伴う4神社の祭祀の開始が明石海峡以西から難波方面への侵攻に備えた軍事的意味合いの強いものであるというのは、この日本書紀の4神社創建伝承の部分における住吉三神のセリフが「わが和魂を大津の渟中倉の長峡(住吉)に居させるがよい。それによって往来の船を見張ろう」というものである点からも類推されます。

更に言えば、おそらく実際はこの4地点だけではなく神戸平野の西端の一の谷の地にも、まさに後世において平家がそうしたように防衛線は築いたであろうと想像します。
湊川合戦の時も、もし早期に南朝方が動けていれば一の谷の地を押さえて最前線としたはずで、それが出来ずに足利方に最初から一の谷を奪われていたのが南朝方の大きな敗因であったのであり、一の谷を奪われた時点で正成の献策に従って京都を放棄して比叡山へ逃れるべきであったのでしょう。いや、そもそも瀬戸内海の水軍を味方につけられなかった時点で神戸での決戦は避けるべきで、京都に足利軍を引き込んで討つべきであったのでしょう。
まぁそのあたりは南北朝時代の部分でまた触れるでしょうからここではいいのですが、おそらくオキナガタラシヒメが明石海峡以西からの敵軍の侵攻を意識していたのなら、一の谷、つまり現在の須磨浦公園の近辺地域を手付かずで放置しておくとも思えず、何らかの手は打ったのではないかと思うのです。

ちなみに古代においてはこの須磨の一の谷が攝津国の西端にあたり、そこから西は播磨国であり、この地が畿内の西の関所として重要な要衝であったことは明白です。
そこで何かそれらしい伝承が無いかと探してみると、六甲山地の西端にあって一の谷とその沖合いの海上を見下ろして、播磨国から攝津国への進入路の最も狭くなった部分を扼する地点にある鉢伏山の名前は、オキナガタラシヒメが三韓征伐の帰路にこの山の頂上に兜の鉢を埋めたことに由来するという伝承がありました。
三韓征伐の帰路にこの近辺にオキナガタラシヒメが来た時というのは、日本書紀にある、廣田、生田、長田、住吉の地に軍事的配置を行った際のことであって、その時にこの須磨の鉢伏山に立ち寄っているということはこれも何らかの軍事的理由によるものであり、武具である兜に関連した故事であることからも、またこの地の軍事的重要性を考えても、まず何らかの軍事的配置、おそらくは明石海峡以西の反乱軍別働隊への備えのための部隊の配置であったと解釈して間違いないと思います。
そして、オキナガタラシヒメのような大王一族の持ち物というものはそれだけで一種のレガリアなのであり、特にこのように意味ありげに埋めたりするような場合はもう完全に神器の扱いとなりますから、この兜の鉢を埋めた鉢伏山の山頂では何らかの祭祀が行われたはずであり、また逆に言えば、何でもないような場所にそのような神器を埋めたりするわけもなく、おそらくはこの山がもともと土着の何らかの祭祀の場所として神聖な空間であったのであろうと思われます。
何故このように思うのかというと、これと全く同種の伝承が六甲山地の東端にある甲山にもあるからです。
すなわち、甲山の名前の由来もオキナガタラシヒメが三韓征伐の帰路に山頂に兜を埋めたからだという伝承なのですが、こうした伝承のある甲山には廣田神社が作られ祭祀が行われたわけで、ならば同様の伝承を持った須磨の鉢伏山においても何らかの祭祀が行われていて、単に現在は失われたのだと考えてもおかしくはないでしょう。
実際、廣田神社にしても甲山山麓の祭祀は失われて平野部に移動しているわけであるし、鉢伏山の祭祀も後世に何処かに移ったのかもしれません。
また、甲山の祭祀もその起源はオキナガタラシヒメ以前の土着信仰に遡るのであり、ならば鉢伏山の信仰も実際はオキナガタラシヒメ以前に遡るものであったと見てもいいでしょう。

それにしても、このように六甲山地の東端の甲山と西端の鉢伏山でほぼ同種のオキナガタラシヒメに関連した伝承が残っているということは、もともとは六甲山地南部の他の山々においても同じような伝承が残っていたのかもしれず、そうでなかったとしてもオキナガタラシヒメや大和王権が六甲山地および神戸の地の重要性を理解していたということの傍証にはなるといえるでしょう。
更に言えば、この「六甲」という山地名そのものもこうした伝承由来ではないかと考えると、甲山と鉢伏山の他に4箇所の山に同じようにオキナガタラシヒメが兜を埋めた伝承があったということになり、合わせて六つの甲の山地ということで六甲山地といったのかもしれません。おそらくその4箇所のうち2箇所は生田神社の地と長田神社の地であり、残り2箇所はおそらく甲山と生田神社の地の間にあったのでしょう。
これはつまりオキナガタラシヒメが六甲山地に駐在軍を満遍なく配置したということで、六甲山地を軍事基地化したということであり、畿内から見て六甲山地の手前を流れる川が「武庫川」という軍事的性格を有した名称であるのもこうした事実の反映なのでしょう。
このような瀬戸内海の海岸近くの高台に監視所を設けるという手法は、オキナガタラシヒメの時代に独創されたものではなく、まだイワレヒコの健在だった時代である紀元前50年ぐらいに瀬戸内海沿岸一帯に突如出現した高地性集落にその起源を遡ることが出来ます。これはおそらくイワレヒコが主導して北九州勢力の進出し備えた防御システムであったのですが、オキナガタラシヒメの六甲山地における軍事基地構築は、この古の高地性集落のシステムを再利用したものであったのかもしれません。

そして、日本書紀の記述によれば、このように神戸方面や住吉に手配りをした後、「こうして平安に渡ることができた」というふうに、オキナガタラシヒメの軍が難波方面へ順調に進軍することが出来る態勢が整ったことを示唆しています。
そこで反乱軍のほうは淀川を遡って宇治まで後退してオキナガタラシヒメ軍の来襲に備え、オキナガタラシヒメのほうは紀伊国に入り、武内宿禰に命じて反乱軍を討伐させました。そうして畿内の反乱軍主力が解体した後、呼応して挙兵していた播磨・淡路の反乱軍も、記紀には明記されていませんが、おそらくはその後討伐されたのでしょう。
そうして明石海峡も大和王権の支配下に戻ることとなり、明石海峡に面した垂水の海岸線沿いに海神社が作られたと思われます。
この海神社では綿津見三神を祀りますが、これは三柱一体の海の神ということで、その原型は北九州の宗像三女神であり、博多の志賀島にあった海神社で祀られていた綿津見三神と同じ神で、住吉三神と同じくオキナガタラシヒメが三韓征伐以降に北九州から畿内へ移植した信仰です。それが明石海峡北岸の垂水の地で祭祀されるようになったということは、オキナガタラシヒメによってこの地に大和王権の勢力が及ぶようになったということなのでしょう。
そして、住吉大社の場合と同様、この垂水の海神社の地においても、もともと海神への信仰が行われていたと見ていいでしょう。考えてみれば明石海峡は大変な海の難所ですから、この地で航海安全祈願の祭祀が行われていないはずがないのです。そうした既存の海神信仰に大和王権ブランドの北九州起源の綿津見三神の信仰を習合させた祭祀を行うために作られた神社が垂水の海神社であったと見ていいでしょう。
そして、そのもともとの海神信仰とは、この神社ではエビス祭りも行われることからも、エビス信仰であったと思われ、特にコトシロヌシが祭祀されているわけでなく、単にエビスであることから、おそらくは西宮戎神社と同じく南洋系の蛭子神信仰であり、つまりはこの垂水の地で居住していた海洋民は南洋系であったということになります。
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