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日本史についての雑文その219 木の国
このように、古代において神戸から阪神地方、つまり大阪湾の北岸方面には東南アジア系海洋民だけではなく、南洋系海洋民も多く居住していたようであり、言ってみれば吉備や播磨と同じような両海洋民の混在状態であったといえます。
そうした傾向は上町台地の半島の東の河内湾方面や、そこから淀川を遡った北摂や京都、木津川水系、近江方面などでも似たようなものであり、そして河内湾から大和川を遡った奈良盆地においても同じようなものでした。

これらの地域では大体は吉備や播磨と同様に、東南アジア系海洋民が先に土着し、その後に南洋系海洋民がやって来て共存して一体化していったのだと思われます。例えば賀茂氏や長髄彦一族などはおそらくは東南アジア系海洋民の氏族であり、物部氏などは後からやって来た南洋系海洋民の氏族であったと思われます。そうした混在状態の畿内にイワレヒコがやって来ることになるわけです。

この畿内の東南アジア系海洋民の氏族は日本海側から丹波や近江を経由してやって来たのですが、では畿内の南洋系海洋民の氏族は何処からやって来たのかというと、それはおそらく黒潮で室戸岬に辿り着いて四国東岸を北上して阿波国の吉野川河口部から淡路島南岸を東進してから友ヶ島水道を北へ抜けて大阪湾に入るか、あるいは阿波国の東岸から紀伊水道を横切って紀伊国の西岸に移動して、そこから北上して友ヶ島水道を抜けて大阪湾に入るルートでやって来る者が多かったと思われます。
そして、それとはまた別に、黒潮から紀伊国南端の潮岬に辿り着いた南洋系海洋民もいたはずであり、この海洋民は西へ向かって紀伊水道を北上して大阪湾へ来たグループと、東へ向かい熊野灘を北上して伊勢湾方面へ向かったグループに分かれたでしょう。
ただ、室戸岬に起源を持つ部族も潮岬に起源を持つ部族も、もともとそれほど文化的人種的にも違いというものは無く、また紀伊国にせよ大阪湾方面にせよ、また伊勢湾方面にせよ、それぞれ同一の文化圏で混在して暮らしていったわけですから、実際にはほとんど区別がつくほどの違いというものは無く、同一系統の氏族が各所に分散していたと考えればいいでしょう。
例えば紀伊国に多く居住したのが紀氏であったりして、また、大阪湾や河内湾、更には淀川水系や大和川水系、奈良盆地や神戸方面などにも多くの南洋系海洋民のコロニーは作られましたが、それらの中で代表的な氏族に物部氏や大鳥氏があり、また蘇我氏や葛城氏、平郡氏などにも南洋系海洋民の血は受け継がれた可能性は高く、大伴氏や中臣氏にもそうした可能性はあったかもしれません。

そうした南洋系海洋民の大阪湾の南部におけるコロニーの一例が和泉国の一宮である大鳥大社でした。大鳥大社は堺市西区にあり、古代における大阪湾の海岸線沿いの、百舌鳥古墳群よりやや南の位置にありました。
この神社の祭神はヤマトタケルとされており、伊勢国で死去したヤマトタケルの魂が白鳥となって飛び立ち大和国の琴引原と河内国の古市を経由してこの地に舞い降りたので祀るようになったとされていますが、実際は日本書紀にもヤマトタケルの魂の化身した白鳥は古市に立ち寄った後は天に昇ったとされており、この地についての描写はありません。
実際は大鳥大社でヤマトタケルが祭神とされたのはだいぶ後のことで、これは「大鳥」という神社の名称と白鳥伝承とが習合した結果だと思われ、この大鳥大社の本来の祭神は大鳥連祖神という、大鳥氏の祖神であるとされています。
大鳥氏は南洋系海洋民の一族で、この地を開拓した氏族であったのでしょう。だからその祖神をこの大鳥の地に祀ったのが大鳥大社の祭祀の始まりであったのでしょう。
この大鳥氏の祖神というのが天児屋命とされ、これは河内国一宮の枚岡神社で祀られている中臣氏の祖神と同一神で、つまり大鳥氏は中臣氏と同族ということになり、中臣氏も室戸岬か潮岬に起源を持つ南洋系海洋民の氏族であるということになります。
実際、関東の常陸国などにも中臣氏の一族による開拓が行われており、もともと中臣氏は日本列島中央部の黒潮ルートに面した地に起源を持つのであり、おそらく潮岬あたりがその起源の地としては有望だといえるでしょう。そこから、中臣氏や大鳥氏は紀伊水道を北上して大阪湾に入り、大鳥氏は和泉国の大阪湾岸にとどまり、中臣氏は河内湾まで入っていって大和川水系を遡っていったのでしょう。

このように大阪湾方面へ進出していった南洋系海洋民の重要拠点であったのが紀伊国でした。
紀伊国はもともと大和国の奈良盆地より南の吉野地方も含めて「木の国」と呼ばれて、大和王権に始まる畿内政権にとって「奥の院」的な役割を果たす重要拠点でありながら、時には対等な協力者であったり、時には敵対したりする、特殊な土地でありました。
先述のオキナガタラシヒメの反乱軍討伐の描写についても、よくよく見てみると反乱軍討伐の準備が整った後、大和王権側の総帥であるオキナガタラシヒメは紀伊国に篭ってしまい、討伐は武内宿禰に命じてやらせています。実際、反乱軍の蜂起によって摂津や河内、大和などの畿内は危険な状況であったのでしょうけれど、まるで紀伊国が本来の大和王権の本部であるかのような感もあります。そもそもイワレヒコの東征時においても「木の国」は重要な経路となっており、大王家にとって特別の意味合いを持った土地であるといえます。

紀伊国はもともと「紀の国」であり、更にその始原は、奈良県南部の吉野地方も含めた「木の国」でした。「木の国」は木が多く生えているから「木の国」と呼ばれたようです。
この地域は太平洋に面した海の国であると同時に、太平洋の激しい波当たりに曝されるために河川の運ぶ土砂が河口部に堆積せずに岩礁海岸が維持され、それゆえに紀ノ川流域および和歌山平野の地域を除いて平野といえる部分がほとんど無く、ほとんどが険しい山地で構成されていました。
そして、この地域は黒潮の流れに晒されているため非常に温暖で、また日本で最も多量の雨が降る地域であるので、この険しい山岳地帯にびっしりと木々が生い茂り、深い森を形成することになりました。それゆえ「木の国」と呼ばれるようになったのです。
この「木の国」に多量に降った雨は険しい山地を激しく流れ落ちていき、膨大な水量が急流で流れ下る河川を形成していきました。そうなると流水のエネルギーは凄まじく、流域の土砂を抉り取っていき、「木の国」の河川は深い峡谷を形成していきました。
水田稲作というものは河川の水を引き込んで行いますから、河川の流域に稲作を行えるような一定の広さを持った土地が必要になるのです。その土地は河川の本流沿いの平地であるのが理想ですが、まぁある程度の斜面でも、本流に注ぐ小さな支流の水を引き込めればなんとかなります。
しかし「木の国」の河川のような峡谷となると、水田稲作には不適ということになります。それゆえ「木の国」では基本的に縄文時代以来の狩猟採集生活の要素が多く残ることになります。しかし、それでいて「木の国」は吉備や播磨、丹波などと並んで大和王権に影響力を行使できるほどの大国であり続けることが出来たのであり、それはその国名の通りに膨大な森林資源を握っていたからでした。

木は古代においては不可欠な資源でした。まず民家にせよ神社にせよ官庁にせよ、とにかく建物の原材料は木でしたし、柵や水路のような共同体にとって不可欠の共有物も木で作られていました。また海洋民の場合は彼らにとって不可欠のものである船の原材料は木であり、多くの森林資源なくして強大な水軍は編成不可能でした。
それらを作る工具の材料として最重要なものは鉄でしたが、柄の部分などは木が使用されていましたし、農具に関しては水田稲作の場合は硬いものを砕いて掘り進む作業は少なかったので重い鉄の農具よりも木の農具のほうがよく使われていました。
そして鉄器や青銅器などを得るためには膨大な量の木炭を燃やす必要があったのであり、木が無ければ金属器を得ることは出来ないというのが実情であったのです。また青銅器に関しては鋳物で作られることが多かったのですが、鋳型というのは最初に木彫りで完成物の実物大模型を作り、それに砂や粘土、あるいは溶解した金属をあてがって作るものであり、鋳物には木が不可欠なのです。
また日常生活必需品である土器の生成にも燃料としての木炭は必要であり、食器などは木そのもので作られており、木器は土器以上に生活必需品であったのです。しかも木器は耐久性が低かったので代替品が頻繁に支給される必要があり、需要は常に高いレベルで存在したのでした。そして何より、日常生活での料理や暖房などのために燃料としての木炭は欠かすことの出来ないものでした。
このように木は、おそらく古代においては水に次ぐぐらいの必需品であり、森林資源を握るということは現代的感覚で言えば石油資源を握るのに匹敵するような価値があったのではないかと思われます。いや伐ってもまた生えてくるわけですから石油資源よりも利権としての価値は高かったといえるかもしれません。
もちろん木は石油とは違って何処にでもそれなりに生えているものですが、木の場合は細切れにして運んでしまうわけにもいかず、それなりの大きさで運搬しなければならず、河川ルートで消費地に運ぶ距離が出来るだけ短距離で済む場所の優位性というものは、現在のような交通網や運搬技術が発達した時代とは違って絶対的なものでした。
そして植林の開始は15世紀であるということもここでは重要で、15世紀以前は森林資源は純粋に自然の恵みであったのであり、もともと多くの木が自然に生えている地域のほうが森林資源の再生産の速度も速く、その優位性は人工的に覆せるものではなく絶対的なものであったのです。

そうした絶対的な森林資源の量の優位を保っていたのが「木の国」であり、しかも古代における森林資源の最大消費地であった奈良盆地や河内平野への河川ルートでのアクセスの優位性は不動のものがありました。いや、正確に表現するならば、「木の国」のような膨大な森林資源の供給地とそこに繋がる河川ルートというバックボーンを確保できたからこそ、奈良盆地をはじめとした畿内地方は文化の中心地として発展することが出来たというべきでしょう。
そうした「木の国」の森林資源を背景とした経済発展によって畿内の覇権を握っていったのが大和王権であり、それゆえ、大和王権は奈良盆地内でも最も「木の国」寄りの地域から発祥して発展していったのであり、またイワレヒコが「木の国」経由で「木の国」の勢力を味方につけて奈良盆地に攻め込んでいったという伝承も、大和王権と「木の国」とのそうした関係性を反映したものなのでしょう。
つまり、「木の国」は大和王権や大王家にとってはその発祥時からのパートナーであり、後ろ盾であり、資源供給地であり後背地であったのです。言うなれば「木の国」は大和王権にとっては発祥の地であり本拠地でもあったのであり、それが言い過ぎであるならば、「奥の院」的な場所であったといってもいいでしょう。
それゆえに歴代畿内政権にとってこの地域は特別な存在であり、一種の不可侵領域を形成していたのでした。壬申の乱の前に大海人皇子が根拠地としていたのはこの地であり、また奈良時代から平安時代にかけては宗教的な聖地を形成し、平家政権は熊野を有力な根拠地の1つとし、また南北朝時代に後醍醐天皇が南朝を築いたのもこの地でした。また戦国時代に大坂石山本願寺を支援したのもこの地を根拠地とした勢力であり、江戸時代には江戸の後背地である水戸や東海道の要衝である尾張と並んで、大坂や京都への抑えとして徳川御三家が置かれたのもこの地であり、この地の地政学的な要衝ぶりは歴史が示しているといえるでしょう。
こういう要衝であるから、先述の4世紀の反乱時にもオキナガタラシヒメは紀伊を根拠地として難波や大和の反乱軍に対処したのです。畿内に異変が生じた場合には「木の国」を根拠地として畿内へ攻撃を仕掛けるという、この地はそういう戦略的な位置にあったのでした。そうした「畿内に敵対し得る土地」というコンセプトはイワレヒコの東征時にそれに助力したことによって定着したものだといえるでしょう。
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