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日本史についての雑文その220 吉野地方
そのイワレヒコの東征に助力した人達というのは、それ以前から「木の国」に住むようになっていた出雲系氏族や南洋系氏族であったと思われます。そしてイワレヒコによって「木の国」における彼らのパワーは大和王権成立に向けて本格的に行使される道筋がつけられるようになったのだといえるでしょう。
イワレヒコの東征に先立つ古い時代から、出雲系の人達はおそらく奈良盆地の南端から森林資源を求めて峠を越えて南下して吉野川方面へ進出してきたと思われます。

それは大和川の上流の初瀬川から榛原で宇陀川に乗り換えてそれをまた関戸峠で津風呂川に乗り換えて吉野町で吉野川に注ぐというルートと、飛鳥川から芋ヶ峠で千股川に乗り換え吉野町で吉野川に注ぐルート、曽我川から大淀町の車坂峠で吉野川に乗り換えるルート、葛城川から風の森峠で宇智川に乗り換えて五條市で吉野川に注ぐルートという、だいたい4ルートが存在しました。
また河内平野の南端方面からも和泉山脈を越えて紀ノ川方面へ進出してくる出雲系氏族も存在したと思われます。そのルートは天見川から紀見峠で橋本川に乗り換え橋本市で紀ノ川に注ぐルートと、石川から蔵王峠で弁天谷川に乗り換えてかつらぎ町で紀ノ川に注ぐルートの2ルートがあります。ちなみに、紀ノ川というのは奈良県を流れる吉野川が和歌山県部分を流れる時には紀ノ川と名前を変えるということで、一つにつながった同一河川であります。
吉野川は吉野町で宇陀から連絡してきた津風呂川の合流を受けてから、すぐ川下で飛鳥から連絡してきた千股川の合流を受けますが、これら奈良盆地方面からの連絡路でやってきた出雲系氏族が求めていた森林資源は、吉野川沿いにおいても豊富には存在しましたが、ここはまだ「木の国」の入り口に過ぎず、やはり森林資源が真に無尽蔵に存在したのは吉野川よりも更に南の山岳地帯であり、そここそが「木の国」の本体なのでした。そして、その山岳地帯への入り口に存在したのが吉野山でした。

伐採した木材は川を使って運ぶわけですから、伐採現場へのルートも河川ルートに沿って探していくことになるのであり、千股川の合流地点のすぐ川下には吉野山の北麓から流れてくる丹治川や左曽川の吉野川への合流点がありますから、出雲系氏族はこれらの河川を遡って森林資源を得るために吉野山へ登っていったことでしょう。
「木の国」ほどの険しい山岳地帯ともなると平野部とは違い過酷な環境となります。「木の国」入り口の吉野山こそ標高858m.と奈良盆地周辺最高峰の金剛山の1125m.に及ばないものの、吉野山すぐ南の四寸岩山となると1236m.となり、そこから紀伊山地奥深く南へ進んでいくにつれて、大天井ヶ岳が1439m.で、大普賢岳が1780m.となり、その南の紀伊山地最高峰の八剣山となると標高は1915m.に達します。他にも「木の国」一帯に1500m.クラスの山々がひしめいているわけで、こうした過酷な環境の中では自然と山岳信仰が生じるものです。
吉野山の北麓を流れる丹治川の水源付近にある吉水神社はもともとは白鳳時代に役行者によって建立されたといわれる修験道の聖地でありましたが、後に南北朝時代に後醍醐天皇がここに逃れて行宮を設けたということがあったために、明治になってから後醍醐天皇を祀る神社として再建立されたものです。だから元来は山岳信仰の聖地であり、おそらくは役行者以前の時代から、吉野山に出雲系氏族が分け入って森林を伐採し始めた頃から山岳信仰が行われていたと思われます。
またこの吉水神社の地には温泉が湧き、古来から聖地として信仰されていたと思われ、おそらくは大海人皇子、後の天武天皇が壬申の乱の前に隠棲したというのもこの辺りでありましょう。

この吉野山の山頂付近には吉野山に対する山岳信仰の神社である金峯神社があり、熊野へ続く山岳霊場の北の入り口となっていますが、この神社の祭神である吉野山の地主神は金山毘古命で、この神は日本書紀によればイザナミの産んだ神ですが、この部分はもともと日本列島で信仰されていた自然神を記紀編纂時にイザナギやイザナミの産んだ神として組み込んだ部分ですから、この神も要するにもともと自然神として独自に信仰されていた神と考えればいいでしょう。
ではこの金山毘古命は何の神様なのかというと、これはその名の通り、鉱山の神であり、そこから転じて鉱業や鍛治などの金属に関する技工を司る神様とされています。吉野山は鉱山ではありませんから、つまりは吉野山で活動していた出雲系氏族とは金属器の製作にも関係する氏族であったということになります。そもそも森林資源の主要な利用目的の1つが金属器の製作にあったわけですから、それは当然のことといえるでしょう。
なぜ出雲系の金属器製作に関係した氏族が関わると思うのかというと、この吉野山と西にある高野山の間の吉野川水系を出発点として、南へ向かう天ノ川、十津川、熊野川の流域周辺の山地、そして熊野灘沿岸を北東に進んで伊勢国の北端にまで至る範囲に、先述の出雲のタタラ吹きを語源としたダイダラボッチ伝承があり、製鉄の神である天目一箇神への信仰も存在しているからです。
また、日本書紀にもスサノヲの神格の説明部分で紀伊国風土記からの引用でスサノヲは樹木の神であるとされており、実際スサノヲは木の国では樹木神として善神として崇敬されており、この地に古代から出雲系氏族がやって来ていたのは確実で、そして樹木は金属製作作業の燃料として不可欠であるので金属製作と密接に結びついているのです。
また金峯神社から少し吉野山の北麓を下りた地点に吉野水分神社がありますが、これは水分社といいまして水源に位置する神社で、元来の位置は吉野山の頂上で複数の河川の源流を見下ろす位置にありました。この神社の祭神は天之水分大神で、これもイザナギとイザナミの神産み神話の中で出てくる自然神で、元来は独自に信仰されていた水の分配を司る自然神で、この吉野水分神社のように水源地に祀られる場合は山岳信仰とも結びつきました。
この吉野山の山頂は吉野町と川上村と黒滝村の境界点であり、この山頂付近に水源を持つ河川としては、吉野町方面には喜佐谷川、川上村方面には音無川、黒滝村方面には黒滝川をそれぞれ発しています。喜佐谷川は津風呂川合流地点よりもやや上流の吉野川に注ぎ、更に吉野川を上流に遡っていった大滝において音無川が吉野川に注ぎます。
この吉野川の上流部は紀伊山地の奥深くの森林資源の宝庫へと南東方向へ遡っていく流れで、紀伊山地最高峰の八剣山の北東部、すなわち大和国と伊勢国と紀伊国の国境にある大台ヶ原まで達します。
つまり、主にこの吉野川上流部から伐採された木材は船に乗せられて吉野川を下ってきて、吉野町で千股川を遡って飛鳥川に乗り換えるか、あるいは吉野川を更に下って大淀町で曽我川に乗り換えるか、あるいは更に吉野川の川下の五條市で宇智川を遡って葛城川へ乗り換えるか、いずれかのルートで奈良盆地方面へ運ばれていったのだと思われます。

この吉野川に音無川が注ぐ大滝の少し川上にかつて丹生川上神社の上社がありました。「かつて」というのは、ダム建設のために移転して現在はそこから更にやや川上に存在しているからです。
丹生川上神社には上社と中社と下社の3社がありますが、本来は古代に「丹生川上神社」という1つの神社が存在していたのですが応仁の乱以降に祭祀が途絶えたために所在地が不明になり、江戸時代から近代にかけて3箇所の候補地が推定され、大正時代にそれらをそれぞれ上社、中社、下社と呼びならわすようになったのです。
丹生川上神社という名称は「丹生川の上流にある神社」ということです。丹生川という川は吉野山から黒滝村方面へ流れていく黒滝川が注ぐ河川で、吉野川には宇智川の合流地点のやや川下の五條市西部で合流します。その丹生川の上流部沿いにあるのが丹生川上神社の下社で、名称に忠実に考えればここが本命と考えればいいのでしょうが、どうも古い文献の所在地の説明と合わないとのことで、上述の吉野川上流沿いの上社、そして伊勢国との国境へと向かって東へ遡っていく吉野川の支流である高見川沿いにある中社などの候補地のほうが現在では有力とされています。
ただ、上社も中社も下社も、いずれにしても古くから祭祀されている神社であるという点では変わりなく、それぞれが水神を祀っていた別々の神社であったものが、後に明治や大正になってからそれぞれ「丹生川上神社」という名の認定を受けただけのことで、それ以前は別の名で呼ばれていたのです。
ここで注目したいのはどれが古伝にある「丹生川上神社」であるのかではなく、吉野川水系の河川沿いに少なくとも3つの古くからの水神を祀る神社があったということで、おそらくは伐採した材木を運搬する河川交通をする氏族によって祭祀が行われていたのでしょう。
そしてこれら3社で祀られている祭神は、大正期にこれら3社の間で祭神を入れ替えたりしたのでややこしいことになっているのですが、とにかく主祭神は水神で罔像女神、高龗大神、闇龗神などがこれら3社では祀られていたのです。これらはやはりイザナギの神産み神話の中で登場してくる神々ですが、これらのうち高龗大神は京都の北方の貴船神社で祀られている水神と同じ神で、出雲文化圏との関係が窺えます。
高龗神と闇龗神は対の存在であり、総称して龗神、又は淤加美神といいます。龗というのは「おかみ」と読み龍の古語で、闇は谷を表し、高は山を表します。この神が水神であるというわけで、龍や蛇を水神として扱うのは出雲文化圏の特徴で、山を流れる川の神が高龗神で、谷を流れる川の神が闇龗神ということなのでしょう。
そして、この2神の総称である淤加美神というのは、日本神話においてはこの神の娘とスサノヲの孫との間に出来た子がオオアナムチの祖父ということになっており、出雲系の神々と非常に近い存在となっています。実際、これらの3社ではこれら3種の水神は水神や川の神としてだけでなく、雨乞いの神としても信仰され、木の国においては雨が降ると森林が生育するわけで、それは木の国の森林の神であるスサノヲへの恵みにもなるわけです。

いずれにしてもこれら3社の丹生川上神社は木の国の山林奥地の方面から発する河川沿いに存在し、上社は吉野川上流方面、中社は高見川方面、下社は丹生川方面に存在する山林で伐採した材木を運搬する河川ルートの交通安全の神というのが元来の姿であったと思われます。
そして、これら3本の河川の流域よりも更に奥地の森林資源を求めようとする場合、これらの河川から別の河川に乗り換えていくことになりますが、高見川は大和国と伊勢国の境にある高見山の山頂の南の高見峠で櫛田川に乗り換えることが出来ます。この櫛田川は伊勢国の山中を東へ進み、最後は松坂で伊勢湾に注ぎます。
また吉野川の上流や丹生川へは吉野山の南方の険しい山岳地帯から幾つかの支流が注ぎますが、それらの支流はこれら山岳地帯の尾根伝いに、これら山岳地帯の南西部を流れる天ノ川の支流の幾つかに連絡しますが、これらのルートは非常に険しく危険なルートであったので山岳地帯に通じた者しか利用できないルートでありました。
しかしともかく、そうした一部の者はこの山岳越えのルートを利用したであろうと思われます。何故なら、これらの山岳地域が山岳信仰の聖地のようになっているからで、つまりはこのルートを通る者が多く存在し、そうした者達が山の神の加護を必要としたということなのでしょう。
この山岳地帯の南西部を流れる天ノ川の上流部沿いには天河大弁才天社がありますが、弁財天は後に神仏習合によって習合したものですから本来の祭神は別で、それは市杵島姫命で宗像三女神の1つです。これはもともと海神ですから、これも後にオキナガタラシヒメ以降の大和王権によって習合させられたもので、ただ弁才天にしても宗像三女神にしても水神に習合することが多いので、この神社は本来は水神を祀っていたのでしょう。
そしてこの神社はもともとは天ノ川の上流にあたる弥山川の水源である弥山の山頂に存在していたようで、水神であると同時に山岳信仰の聖地として信仰されていたといわれています。弥山の山頂というのは紀伊山地の最高峰の標高1915m.の八剣山の山頂の傍らにあり、標高は1895m.で、八剣山とほとんど一体化していることから事実上は木の国の最高峰にあるといってもよく、山岳信仰の聖地となるのも当然であろうと思われます。
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