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日本史についての雑文その221 熊野三山
天ノ川はこの山岳地帯を南西に下っていって大和国と紀伊国の境あたりの峡谷で十津川となり、そこから大和国南部の山岳地帯を蛇行しながら縦断していき、紀伊国に入ると熊野川と名を変えて南東に流れ下り、新宮において熊野灘へ注ぎます。
この十津川の最上流部から徒歩で北西に進んで出屋敷峠を越えると丹生川という河川の最上流部に連絡します。このルートは先述の山岳越えルートよりはよほど安全で、だいたい一般的には十津川へのアクセスはこちらということになります。この丹生川というのは先述の丹生川上神社の下社のあった丹生川とは名前は一緒ですが全く別の河川で紛らわしいのですが、こちらは紀伊国を流れるほうの丹生川ということで、九度山町で紀ノ川に合流します。

紀ノ川というのは吉野川が五條市で先述の大和国のほうの丹生川の合流を受けた後、紀伊国に入って名称を改めたものです。同一河川を大和国では吉野川といい、紀伊国では紀ノ川というわけです。吉野川はだいたい五條市あたりから川沿いに平野が広がるようになり、それは紀ノ川となってからも維持されて西へ流れていき、橋本市で河内平野から乗り換えてきた橋本川の合流を北から受け、そして九度山町でこの丹生川の合流を南から受けるというわけです。このあと紀ノ川はかつらぎ町で河内平野から乗り換えてきた弁天谷川の合流を受けた後、和歌山平野を西へ向けて突っ切っていって和歌山港の北で紀伊水道に注ぐことになります。
また紀伊の丹生川は九度山町で紀ノ川に合流する前に高野山を水源とする不動谷川の合流を受けますが、この不動谷川を遡っていくと転軸山の西に達します。誤解されることが多いようですが高野山という山があるわけではなく、弁天岳、転軸山、摩尼山などの山系を総称して高野山というのです。
この転軸山の南西に有田川の最上流部の支流が来ており、不動谷川から乗り換えることが出来ます。この乗り換え地点に後に空海が金剛峯寺を建立することになるのです。また、有田川の別の支流が転軸山の北に達しており、こちらにも不動谷川から乗り換えることが出来ます。こちらの支流沿いの転軸山東麓には弘法大師空海の御陵が後に作られることとなります。この有田川は紀伊国西部の山中の渓谷を蛇行して下っていき、最後は有田市で紀伊水道に注ぎます。
また、十津川の上流部で合流してくる支流に北原樋川があり、その支流の弓手原川の上流部まで遡れば紀伊国との境にある箕峠を越えて有田川の支流に乗り換え、高野山の南で有田川の上流部に合流することが出来ます。
河原樋川の合流を受けた後、十津川は十津川峡や十津川村を通過して大和国南部を南へ下っていき、十津川温泉で北西方面から西川の合流を受けます。西川を遡ると紀伊国との国境の牛廻越で日高川の最上流部に乗り換えて、日高川は紀伊国南西部の山中を蛇行していき、御坊市で紀伊水道の南の太平洋に注ぎます。

十津川温泉から更に十津川を下ると、ほどなく紀伊国に入り、十津川は熊野川と名を変えます。その熊野川が紀伊国に入ったあたりが本宮という土地で、ここに熊野本宮大社があるのでこういう地名になっているのです。
この熊野本宮大社はいわゆる熊野三山の1つで、三山の他の2つは熊野川の河口付近にある熊野速玉大社と、那智の滝にある熊野那智大社で、これら3つの神社が深い関連があると思われがちですが、この熊野三山という括り方はこれらの3神社が後に修験道の修行場として使われるようになり更に神仏習合をするようになってから後のことで、元来はこれら3つの神社は全く別個の神社でありました。
現在の熊野本宮大社は熊野川の川岸から少し山に上がった位置にありますが、1889年の大洪水までは熊野川の中洲の上にあったのであり、元来は河川交通に関する祭祀が行われていた可能性が高いといえます。祭神は熊野坐大神とされ、その正体はスサノヲであるといわれ、また水神、木の神、太陽神ともいわれます。
紀伊山地のうち特に険しい山岳地帯はこの熊野本宮大社のあたりが南限となりますから、豊富な森林資源を求めて南下してきた出雲系氏族はこのあたりまではやって来ていたでしょう。ですからスサノヲ信仰がこのあたりまで達していたということはあり得る話で、またスサノヲは木の神でもありますし、木を運ぶには河川を使うわけですから水神信仰も当然生じます。出雲国の熊野大社の社伝にもあるように、熊野本宮大社の主祭神がスサノヲであるのは確かでしょう。
そもそもこのあたりの「熊野」という地名も、出雲系氏族が出雲国の熊野大社の信仰を持ち込んでこの地に熊野大社を建てたことから発祥したものであり、この地における本来の熊野大社はこの本宮の地にある社だけで、それが後に神仏習合後に「熊野三山」というグループが作られたために、この地の神社を熊野本宮大社、熊野川河口付近にあった速玉神社を熊野速玉大社、那智神社を熊野那智大社と呼称するようになったのです。

ただ、それでもこの熊野本宮大社には出雲信仰とは何か異質な要素が混在しています。それは神使とされるのが太陽神の使いとされる八咫烏であるという点で、このような明確な太陽神崇拝や鳥をトーテムとする文化はむしろ南洋系海洋民に見られる傾向です。
海洋民がこのような集落も乏しい山岳地帯に何の用かと思われるかもしれませんが、それは早計というもので、海洋民といっても海岸線に張り付いていれば事足りるわけではありません。海洋民にとって不可欠の船というものは古代においては全て木製で、しかも燃料に使うのとは違い細い枝葉では船の材料とはならないわけで、それなりに立派な木材を求めて山林奥深く分け入って伐採して海辺へ運んできてから組み立てねばならないのです。また強大な水軍を維持するためには船の数は多数必要ですから、多くの立派な木材を得る必要があり、より多くの山林を開拓していく必要がありました。
つまり優秀な海洋民とは、優秀な樵であり、また優秀な河川交通の担い手でなければならないのです。黒潮に乗って紀伊国南端の潮岬に辿り着いた南洋系海洋民は紀伊半島の海岸線に沿って北西方向と北東方向に移動していき、そのうち北東方向へ進んだ氏族は熊野灘に沿って勝浦を経て熊野川の河口部に到着し、更に熊野、尾鷲、長島、志摩を経て伊勢湾方面へ進んでいったのですが、それらの氏族のうちで森林資源を求めて熊野川を遡っていって樵を生業とする氏族もあったものと思われます。
これが八咫烏をトーテムとする一族で、後の鴨県主氏ということになります。彼らは熊野川を遡り、大和国との境の手前の中洲にある熊野本宮大社のスサノヲと木と川に関する信仰に出会い、彼らもまた木を求め川を使う民であったのでこの神社を祭祀するようになり、この神社のスサノヲ信仰に自らの太陽神とその象徴である八咫烏信仰を習合させていったのです。

つまり熊野本宮大社より南の熊野川エリアは南洋系海洋民の鴨県主氏のテリトリーであり、それはそのまま熊野灘から伊勢湾方面の南洋系文化圏に繋がっていたと考えられます。例えば熊野川河口付近にある熊野速玉大社は山の神への信仰であり、勝浦から那智川を少し遡った地点の那智の滝の傍にあった熊野那智大社は滝の神への信仰が行われていたのであり、そこにはほとんど出雲系文化の影響は見てとることが出来ません。またこの速玉と那智のほうの祭神は互いに共通し合っているものが多いのですが本宮のほうは全く別の神々の体系が祭神を構成しており、同じ熊野三山といっても本宮のほうと速玉と那智のほうは別々の文化圏であることが分かります。
この熊野川エリアではスサノヲ信仰は太陽神信仰に習合させられ薄められ変質していったようで、それと同様に出雲起源の文化も南洋系にアレンジされていきました。その一例が、本来はタタラ吹きなどの製鉄の神であったダイダラボッチや天目一箇神がこのエリアにおいてはタタラの送風器としての側面とこの地域の地域特性とが習合して台風神や暴風神となったということでしょう。
そしてこの八咫烏を信仰する鴨県主一族は更に十津川を遡り、十津川の上流部まで進出して紀伊山地奥深くの木々を伐採して十津川を下って熊野灘まで運び船を作っていたと思われます。つまり鴨県主氏は熊野灘と十津川上流部との間を行ったり来たりして、その流域の山林に分け入って樵をやり、また熊野灘では船大工も行っていたことになります。
そうした樵や船大工の作業には斧や工具が必要で、それらは鉄器で作らねばなりませんから、十津川に進出してきていた出雲系の製鉄集団とも共存し、木炭を供給して斧や工具を作ってもらったりしていたのではないかとも想像できます。
そうした状況であったこの土地に、大阪湾で長髄彦に撃退されて紀伊半島を迂回してきたイワレヒコの船団が熊野川河口までやって来て、ここで鴨県主氏と出会い、その案内で熊野川から十津川を遡り、十津川から天ノ川の水源まで達した後は、普段は樵をして紀伊山地の山岳地帯のことは知り尽くした鴨県主氏の道案内で陸路で尾根や峠を越えて吉野川水系へ出て、そこから水路や陸路で宇陀まで到達し、そこから奈良盆地へ進出していったのでしょう。それが日本書紀では天照大神が八咫烏を遣わして道案内をさせたという描写となっているのです。あるいは鴨県主氏が実際に鳥や太陽の位置や動きを見上げて観察して現在位置を把握するような方法を実践していた可能性もあるでしょう。
イワレヒコも海人氏という海洋民であったのですから海洋民が樵や船大工も兼ねており本拠地が木々の豊富な場所でなければいけないことも把握していたでありましょうから、畿内の南方の木の国と言われる地域の海岸線へ行けば海洋民と接触して協力を要請することが出来ると踏んでいたのかもしれません。
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この記事に対するコメント

 島根県の安来市の「安来」とは出雲国風土記によるとスサノオノミコトが命名したとされています。その隣には松江市という県庁所在地があってそこに熊野大社というところがあります。ここにスサノオは祀られているのですが、紀伊の熊野と同名の屋代なので縁が深いのではと思われます。

【2008/01/28 19:34】 URL | 古社男 #- [ 編集]



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