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日本史についての雑文その222 八咫烏
紀伊半島の海岸線は太平洋の荒波の波当たりが激しく河口部の土砂の堆積がなされないので全体的にリアス式海岸が連続し、ほぼ全域が天然の良港を形成しますので水軍の根拠地となりやすいといえます。そうしたリアス式海岸を紀伊国最南端の潮岬から熊野灘沿岸伝いに北東へ進んだ場合ほどなく熊野川河口に行き着きますが、潮岬から北西に太平洋沿岸を進んだ場合は、潮岬からの距離感において熊野川河口とほぼ同じほどの位置にあるのが白浜温泉ということになります。
白浜温泉は道後温泉、有馬温泉と共に日本三古湯に数えられる古くから知られた温泉で、温泉は古代においては聖地として信仰されていましたから海洋民も多く立ち寄ったものと思われます。
そしてこの白浜温泉のすぐ北の田辺湾は大きく湾入した入り江で、しかも目ぼしい河川の河口が無いために湾内の海岸線はほとんど岩礁海岸で天然の良港となっており、湾内には小島が多数あり、ここは古代から中世にかけて熊野水軍の根拠地として知られる土地でした。
その田辺から更に海岸線沿いに北西に進むと紀伊水道の入り口にあたる日ノ御埼が行く手を遮るように現れてきますが、その手前の御坊には紀伊国南西部の山中を流れる日高川の河口が開いておりその南には港が開かれ、古くから山中で伐採した材木の集積場として栄えました。日高川の流域の山中で伐採された木材は御坊港から海岸沿いに運搬され、南の田辺や北の紀伊水道方面へ運ばれたのでしょう。
御坊の北にある日ノ御埼は紀伊半島の最西端で紀伊水道の南東端にあたります。日ノ御埼と対岸の阿波国の蒲生田岬との間の約25km.の幅の海峡より北側の海域は紀伊水道で、御坊以南の太平洋岸よりは波は幾分は穏やかとなります。

この日ノ御埼には日ノ山があり、この地名や位置からしても、ここで南洋系海洋民によって太陽神への祭祀が行われていたと考えられます。そしてこの岬の先端の海上には鏡岩という岩があり、太陽神祭祀と鏡との繋がりが認められます。
実際、この日ノ御埼やその北の日高町から由良町、湯浅町まで続く海岸線は複雑に入り組んだ岩礁海岸で沖合いに小島も多く、海洋民や水軍の根拠地としては絶好の条件を備えた海域でした。特に日高町は日本書紀のオキナガタラシヒメの条によれば、三韓征伐の帰途において発生した畿内の反乱軍に対処するためにオキナガタラシヒメが本拠地とした地点であり、しかもこの地でひとまず避難させていた皇子のホムタと落ち合っているのですが、ホムタはこの時点では赤ん坊ですから絶対安全地帯に避難させていたはずです。つまりこの地はオキナガタラシヒメ陣営にとっては本拠地といえる場所で、そこに船団で乗り付けているわけですから大和王権の水軍の本拠地であったと見ていいでしょう。
しかも、この日高町の海岸線には産湯温泉という温泉があり、ここにはオキナガタラシヒメの皇子が産湯を使ったという伝説の伝わる井戸がありますが、オキナガタラシヒメの産んだ皇子はホムタ、つまり後に言う応神天皇ただ一人であり、産湯というものは出産時に使うものですから、そうなるとホムタが産まれたのは北九州の宇美ではなくこの日高町ということになり、そもそもホムタは産まれてからずっとこの日高に預けられていたのではないかという疑惑も生じてくるのです。
そのあたりについては後でまた考えるとして、とにかくここでは、日高あたりが大和王権の水軍にとって重要拠点であったであろうということを押さえておきます。となると、そのすぐ南にある日ノ御埼に見られる太陽神信仰は大和王権によるものということになるのかというと、確かにそういう側面もあるでしょうけれど、その起源はおそらくもっと古く、潮岬起源の南洋系海洋民、つまり太陽神の化身である八咫烏を信仰する鴨県主一族と同じ系列の海洋民による信仰がまずこの地に存在していたのでしょう。そこにイワレヒコの水軍がやって来て、その祭祀に加わったと考えたほうが自然でしょう。

日高町、そして由良町や湯浅町の海岸線が南洋系海洋民の根拠地になっていたとすれば、その海洋民が船の材料として不可欠の木材を得るための山地へ至るために使った内陸水路は、湯浅町の北の有田市で紀伊水道に注ぐ有田川であったでしょう。有田川は先述のように紀伊国の西部の山中を縫うように走っており、その水源は高野山に達しており、高野山を経由して十津川水系や紀ノ川水系にも連絡可能でした。
その有田川の河口部のすぐ北は和歌浦湾で、この湾は現在では北方にある紀ノ川の河口からは独立していますが、古代においては大河である紀ノ川の最下流域は、このあたりになると波当たりが緩くなっているために広大な湾内に干潟地帯を形成しており、この和歌浦湾もその紀ノ川河口部の干潟地帯から連続した海岸線を形成していたと思われます。
この干潟地帯に注いでいた河川は北から紀ノ川、和田川、亀の川でした。現在の紀ノ川河口部の北岸一帯は干潟地帯で、紀ノ川河口部の南に広がる和歌山市の市街地一帯も古代においては干潟地帯でした。干潟地帯と陸地との境界線はだいたい日前宮から竈山神社、紀三井寺、浜宮神社を結ぶラインであったと思われます。
日前宮は和歌山市街を東から見下ろす大日山の西にあり、現在は和歌山市街の東端に位置しますが古代においてはこのあたりが海岸線で、ここより西は干潟地帯であったと思われます。日前宮から干潟地帯に漕ぎ出して北へ向かえば紀ノ川の干潟地帯へ注ぐ河口部に行き着き、日前宮から干潟地帯を海岸線に沿って南へ向かえば和田川の河口部の南に竈山神社があります。現在は竈山神社は内陸部にありますが古代においては海岸線沿いにあったと思われます。竈山神社の南には名草山があり、その西麓に紀三井寺がありますが、古代はこのあたりが海岸線であったと思われます。紀三井寺より南は現在は砂浜海岸ですが古代はもう少し海岸線は後退していたと思われ、和歌山市南端の毛見崎まで海岸線は続き、その南は岩礁海岸の入り江になっていて海南湾を形成していました。この毛見崎の北岸に浜宮神社があります。
このように紀ノ川の河口部は大きな湾を形成しており、現在の和歌山市街や和歌山港は干潟ないしは海中であったのですが、現在の和歌山港南端にある雑賀崎や和歌浦のあたりの岩礁地帯は古代においてはこの大きな湾内に浮かぶ玉津島という比較的大きな島であったのであり、この島の西端で紀伊水道に向かう岬が雑賀崎で、この島の南東端で対岸に名草山を望む地には玉津島神社がありました。
だいたい紀ノ川河口部はこのような地形になっていたわけですが、有田方面から南洋系海洋民が海岸線を北へ進んできた場合、干潟地帯は港としては不適でその傍らにある岩礁海岸を外港として利用して干潟地帯へ進出していきますから、この地において外港に適した地は干潟地帯の南側にあった海南湾とその北の毛見崎、そして干潟地帯の沖合に浮かぶ玉津島でした。潮岬から紀伊半島の西岸を白浜、田辺、御坊、日高、有田という順に進んできた南洋系海洋民はこの毛見崎と玉津島のポイントに根拠地を築いて、そこから紀ノ川河口部の干潟地帯や紀ノ川流域へと進出していくことになるのです。

玉津島の地域というのは後年になって雑賀庄といわれるようになる地域で、ここに土着していた豪族を雑賀衆と呼び、戦国時代には鉄砲を駆使した傭兵集団として名を馳せる一族となり、現在の大坂城の位置にあった石山本願寺と共闘して織田信長を苦しめることになります。石山本願寺も古代以来の「海都」であった上町台地の先端にあった海上勢力であり、雑賀衆も元来は島であった地域に地盤を置く海上勢力で、これは大阪湾の海上勢力の連合であったということになります。
雑賀衆は戦国期には独自の水軍を持っており紀ノ川河口付近を押さえて貿易や海運も行っており、それらが力の源泉となっていたのですが、この水軍は熊野水軍の流れを汲むものでしょう。何故なら、雑賀衆の頭目であった鈴木孫一は八咫烏の神孫と自称し、その家紋も熊野本宮大社で信仰される八咫烏をあしらったものであったからです。雑賀衆は潮岬方面から北上してきた太陽神や八咫烏を信仰する南洋系海洋民が和歌山市沖合の玉津島に住み着いたものの末裔であったのでしょう。
そもそも雑賀衆が鉄砲を他の大名などよりも上手に駆使するようになったのは、それは鉄砲使用のキャリアが抜群に長いからです。1543年の種子島への鉄砲伝来の時にちょうど種子島に居合わせた堺商人と紀州根来寺の僧が鉄砲を本土に持ち帰り研究し、雑賀衆もそれをいち早く取り入れたとされていますが、この商人や僧を種子島に運んだ海洋民が存在したはずで、だいいち種子島のような隔絶した場所にたまたま堺商人や根来の僧がいるはずもなく、彼らは種子島に常駐していたと考えるべきで、紀州や堺と種子島の間に定期便が行き来していたと考えたほうが自然でしょう。
ではその定期便は誰が運航していたのかというと、紀ノ川河口部の水運を押さえて堺や本願寺とも交易を行っていた南洋系海洋民の流れを汲む水軍であった雑賀衆であった可能性が高いといえます。実際、雑賀衆はそうして導入した鉄砲をいち早く実用化していますから、この本土への鉄砲伝来に雑賀衆が一枚噛んでいる可能性は高いといえるでしょう。
つまり、戦国期に紀州と種子島を結ぶ南洋ルートの交易路が存在していたということであり、これが古代から南洋系海洋民によって運航されていたのではないかとも考えられるのです。紀ノ川河口部を出発点として、紀伊水道や淡路島南岸を渡って阿波を経るか、あるいは御坊や田辺から一気に室戸岬を目指すか、どちらかのルートで土佐、そして宇和島を経由して日向、薩摩を経て種子島、そして南西諸島方面に至るという交易路が古代から南洋系海洋民のネットワークで運用されていた可能性はあります。もしそうだとすれば、南九州にも拠点を持っていたであろうイワレヒコも「木の国」の海洋民の存在をもともと知っていた可能性が高いということになります。
また、玉津島神社の社伝によれば、オキナガタラシヒメが紀伊半島に進軍した際に玉津島神の加護を受けたことが祭祀が始まるきっかけとなったとされていますが、これは要するに反乱軍へ対処するために紀伊国へ移ってきた際にこの島を拠点とする海洋民の協力を得たということでしょう。また、このオキナガタラシヒメの三韓征伐から反乱軍討伐までの一連の流れの始まりとなったタラシナカツヒコ大王の熊襲征伐の出発点となった地が紀伊国の徳勒津宮という地であり、紀伊国の海洋民の勢力圏と大王家とは密接な関係があるのは確かであるといえるでしょう。
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この記事に対するコメント

 雑賀衆がなぜ鉄砲に長じていたのか、その点について種子島との定期便を持つなど海の民としての性格があるとの指摘は、なるほどそうかもしれないと思いました。

 沙也可という、朝鮮出兵の際に降倭となって、満州族の南下を食い止めたり、歴史をつくる中心にい続けた一族といえるかもしれません。

【2007/08/02 18:15】 URL | 田島敬一 #gT61Wq7M [ 編集]



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