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日本史についての雑文その223 日前宮
また、玉津島と向かい合う紀ノ川河口部の大きな湾の南端に位置する毛見崎の北岸、つまり紀ノ川河口部の干潟地帯への橋頭堡というべき地には現在は浜宮神社がありますが、もともとはこの地に紀伊国一宮の日前宮があったと伝えられています。
日前宮は日前神宮と國懸神宮という2つの神社の総称ですが、主祭神はそれぞれ日前大神、國懸大神といいまして、正体はイマイチ不明なのですが、この両神宮は朝廷が神階を贈らない神社として知られており、全国でもそんな神社は他には伊勢神宮だけという特別扱いの神社です。

つまり他の神社は天皇の名のもとに従一位とか正二位とかの位を贈られるわけで、要するに天皇は最高位の神様である皇祖神の天照大神の分身だから全国の神社の神様に対しても臣下扱い出来るということで、それが出来ないのは皇祖神である天照大神の本霊を祀っている伊勢神宮に対してだけだという理屈なのです。ところがこの日前神宮と國懸神宮に限っては伊勢神宮と同じ扱いが為されているわけで、つまりこの両神宮の祭神である日前大神と國懸大神は皇祖神と同等の存在ということになります。
また、奈良盆地南部からの東の海への出口付近にあるのが伊勢神宮であり、それに対して西の海への出口付近にあるのがこの日前宮ということで、伊勢神宮と同格の神社として扱われるようですが、それもつまり祭神が同格であるからでありましょう。
日前大神は天照大神の別名であるとも妹神であるともされ、この両神宮の祭祀を継承してきた紀氏が紀ノ川河口部から紀ノ川流域に勢力を張っていた海洋民であったことからも、そしてこのような干潟地帯の更に外側の海岸線に立地していたことからも南洋系海洋民による太陽神信仰であったと考えていいでしょう。
ちなみにこの紀氏は先述のオキナガタラシヒメの反乱軍対処のための紀伊半島への進軍時にもオキナガタラシヒメ軍の主力として登場し、おそらく玉津島神や雑賀衆とも関係が深い氏族であり、またイワレヒコの時代から大王家とは密接な関係にあったようです。

この両神宮の創建伝承によれば、イワレヒコによる東征の後、紀氏の祖神が、日本書紀の天岩戸神話の中で天照大神が岩戸隠れした際に石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡として登場する日像鏡と日矛鏡をイワレヒコから賜り、日像鏡を日前神宮の、日矛鏡を國懸神宮の神体としたのが祭祀の始まりとしていますが、これはもともとこれらの両神宮のご神体であった両鏡を日本書紀作者が天岩戸神話の中に登場させたのが真相でありましょう。
ただ、この両神宮の祭祀がイワレヒコの時代よりも更に古代に遡るのであろうこと、その祭祀を行っていた紀氏と大王家との関係がイワレヒコの時代に遡るものであること、これら両神宮のご神体の鏡の名称や鏡そのものが太陽神の象徴であることから想像してこれら両神宮の祭祀がやはり太陽神信仰であること、わざわざ日本書紀に脚色として挿入されるほどにこの両神宮のご神体の鏡が伊勢神宮の八咫鏡と同格扱いされていたこと、等々が分かります。
つまり、この日前宮で祭祀されていた太陽神はそんじょそこらの太陽神ではなく、伊勢神宮の天照大神と同等同格の特別の太陽神、あるいは天照大神そのものであったのであり、その証となるのが八咫鏡と同格とされる日像鏡と日矛鏡というこれら両神宮のご神体ということになります。
ただ、鏡はシナ起源のものであり、それが紀元前100年ぐらいには北九州に銅鏡として伝わった後、祭祀の対象となるようになりましたが、最初はシナから輸入した銅鏡をもっぱら祭祀の対象としており、銅鏡が北九州で本格的に製作されるようになるのが紀元前後ぐらいのことで、それが畿内方面で作られるようになるのが紀元後の50年ぐらいのことでした。
しかも元来は鏡と太陽神信仰は無関係であったので、おそらくこの日前宮や伊勢神宮などにおける鏡を太陽神の神体として祭祀する信仰形態は、元来これらの地に存在した自然信仰としての太陽神信仰に西暦50年以降に新たな要素としての鏡信仰が習合して成立したものだと推測されます。
つまりイワレヒコが東征してきた頃には日前宮にも伊勢神宮にも鏡信仰は存在せず、自然信仰としての太陽神信仰のみが存在したということになります。そしてその日前宮と伊勢神宮の太陽神は、後にその神体鏡が同格とされるということから考えて、当初から同格の太陽神であったと思われます。いや、神体や神話などの装飾物の無い自然信仰の世界での話ですから、この場合は「同格」というより、ハッキリと「同一神」であったと考えたほうがいいでしょう。

紀伊半島の東端にある伊勢神宮で祀られているのは天照大神という太陽神で、そのご神体は「八咫鏡」であり、「八咫鏡」は太陽神の象徴です。一方、紀伊半島の南端に河口を開く熊野川を遡った中州にある熊野本宮大社で祀られている「八咫烏」もまた太陽神の化身であり使者であるとされています。そして紀伊半島西端にある日前宮で祀られる太陽神は伊勢神宮の太陽神と同一神と思われ、しかも伊勢神宮と同じく鏡を神体とし、この日前宮の祭祀を行う紀氏と関係が深いと思われる雑賀衆は「八咫烏」の神孫と称していました。「八咫烏」も「八咫鏡」もどちらともに太陽神のシンボルであり、この名称が酷似していることからも同一の太陽神への祭祀を表す用語なのだと思われます。
つまり、古代の紀伊半島の海岸線を和歌山市から潮岬を経て伊勢湾方面までぐるっと囲むように同一の太陽神への祭祀が行われていたということであり、おそらくそれを信仰していたのは黒潮から潮岬に辿り着いて紀伊半島の海岸線を東西に拡散していった南洋系海洋民であったのでしょう。
潮岬から西に向かった氏族は白浜や田辺や御坊で熊野水軍の祖となり、日高や有田を経て紀ノ川河口部に至り、紀ノ川流域に勢力を伸ばした氏族の代表的なものが紀氏で、その流れから後年は雑賀衆などが生じることとなりました。また、紀ノ川河口部から更に友ヶ島水道を越えて北上した氏族から大鳥氏や中臣氏、物部氏、住吉大社の宮司を務めた津守氏などが生じました。また、紀ノ川河口部から淡路島南岸を通って阿波国や讃岐国へ進出していった氏族もいたと思われます。
一方、潮岬から東に向かった氏族は那智勝浦や新宮へ至り熊野那智大社や熊野速玉大社の祭祀を興し、新宮から熊野川を遡った鴨県主一族は出雲系文化と習合しながら十津川流域に勢力を伸ばしました。
新宮から更に熊野灘を北上して熊野や尾鷲を経て紀伊国北端の紀伊長島に上陸した海洋民は海岸近くの伊勢国との国境となる荷坂峠を越えれば宮川の上流部に行き当たり、その流れに乗って下っていけば伊勢市の外宮の近くを通って伊勢湾に出ることが出来ます。
また、紀伊長島から更に伊勢国の南岸を東に進んでいくと五ヶ所湾に入り、ここに注ぐ短い川を遡ると剣峠で五十鈴川の最上流部に乗り換え、五十鈴川を下ると伊勢神宮の内宮のほとりを通過して二見浦で伊勢湾に注ぎます。
五ヶ所湾のすぐ東には志摩があり、ここは九鬼水軍の根拠地として知られていますが、九鬼氏はもともと熊野本宮大社の神官の子孫で、つまり九鬼氏もまた雑賀衆と同じく「八咫烏の神孫」であったのであり、その発祥は尾鷲だとされ、尾鷲から志摩に至る伊勢国の太平洋岸エリアは九鬼水軍のテリトリーであったといえます。実際、このエリアは古代においては志摩国と呼ばれ、伊勢湾に面した伊勢国とは別の国として扱われていたのです。
そして大王崎や鎧崎を回りこんで伊勢湾方面に進出していった海洋民の代表格が熱田神宮の宮司家であった尾張氏で、伊勢国や尾張国に上陸し開拓を進めていくことになります。尾張氏は津守氏と同族とされ、また、後に丹波国の宮津の籠神社に豊受大神や天照大神の祭祀を習合させて元伊勢とする際に宮司として派遣される海部氏も尾張氏の一族とされています。伊勢神宮とも縁の深い一族であるといえるでしょう。
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