KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その224 皇紀元年
これらの大阪から名古屋に至る海岸線の南洋系海洋民たちが同一の太陽神を信仰していたわけで、そこに瀬戸内海西部を根拠地とした海洋民であった海人氏のイワレヒコが紀元前75年に船団を率いてやって来たのです。その目的は、シナ帝国と北九州「火の国」勢力の連合による西日本侵略という最悪の事態に備えるために瀬戸内海における海上防衛網を構築することで、その防衛網維持のための瀬戸内海一体型の交易圏の形成も視野に入れたものでした。
そのためにまずは瀬戸内海東端の大坂湾とその後背地である奈良盆地を制圧しようとしたのですが、奈良盆地の出雲系と南洋系の連合勢力の抵抗を受けて失敗し、和歌山沖まで南下してきました。もともと南洋交易路が存在し、それを通してイワレヒコも「木の国」の存在は知っていたのではないかと思われます。
そもそもイワレヒコの瀬戸内海の防衛網にせよ交易路にせよ、それらの構想を実現するためには多くの船が必要であり、その原料の木材の供給源として「木の国」との協力関係は不可欠だということはイワレヒコにも最初から分かっていたことで、何れにせよ「木の国」との接触は図るつもりであったとは思われます。
ただ、おそらくイワレヒコの当初の計画では、まず奈良盆地という広大な盆地の中にある数多くの共同体を支配下におさめて、それらの共同体を「木の国」の材木の一大消費地とし、また同時に「木の国」へ向けて輸出する金属器などの生産地とするという、奈良盆地と「木の国」を一体化した経済圏を作り、その経済圏でもって瀬戸内海に進出していこうという構想を「木の国」に対して持ちかけるという計画になっていたのではないかと思います。
それが奈良盆地制圧の失敗によって頓挫したので、まず「木の国」にそうした構想を説いて、「木の国」の利益代表としてイワレヒコが奈良盆地内に地盤を築くことへの協力を要請することにしたのでしょう。つまり現実に利権を手にした上での交渉は断念して、まず計画のプレゼンテーションをして先行投資を取り付けて、まずは「木の国」のエージェントとして、「木の国」の力を後ろ盾にして奈良盆地に進出していくことにしたのです。

古代の大和歌山湾へやって来たイワレヒコ船団は、まずは和田川の河口付近の竈山において、河内での戦いで負った矢傷が悪化して死んだイワレヒコの兄のイツセを葬りました。後にこの地にイツセを祭神とする竈山神社が作られることになります。
この竈山の地は現在は内陸部ですが当時は海岸線近くであったと思われ、しかも干潟地帯の奥であったのでイワレヒコの外洋船団は近くには停泊は出来なかったはずで、停泊地として適当であったのは竈山の対岸に浮かぶ玉津島か、あるいは海岸線に沿って南の、日前宮のあった毛見崎と海南湾であったと思われ、これらの地は紀氏などの南洋系海洋民の支配地であったはずですから、既にイツセの葬送の時点ではイワレヒコと南洋系海洋民の間では敵対的関係は無く、一種の和親条約を締結したような状態であったと思われます。
しかしこの和親関係はあくまでイツセの葬送という非常事態に対応したもので、イワレヒコの構想に完全に同意共感した軍事同盟にまで発展したものではなかったと思われます。もしこの時点で紀氏らがイワレヒコとの軍事同盟を受け入れていれば、イワレヒコはそのまま紀ノ川を遡って吉野から奈良盆地へ侵攻したはずですが、実際はそうはならずにイワレヒコ船団は更に南へ向かうわけですから、当初はこの地ではイワレヒコへの敵意は無かったものの、イワレヒコの構想は眉唾ものとして警戒されたのでしょう。
そこでイワレヒコはおそらく紀氏らに更に南へ向かえば協力してくれる氏族もいるのではないかと諭され、紀伊水道を南下し有田、日高、御坊、田辺、白浜を経て、ついには潮岬を越えて熊野川河口にまでやって来て、熊野川を遡っていくと、そこで十津川流域に勢力を持つ鴨県主一族が協力を申し出てくれたということなのでしょう。
そしてイワレヒコは鴨県主一族の協力を得て十津川水系を遡り、その北の山岳地帯も越えてまずは宇陀を制圧し、そこから奈良盆地東南部の畝傍山や天香具山方面へ進出し、奈良盆地北部から攻めてきた長髄彦の軍勢を撃破して、奈良盆地北部の実力者であった物部氏のニギハヤヒと講和して、奈良盆地東南部の一角の橿原近辺の支配権を勝ち取ったのでした。
ここに至り鴨県主一族以外の「木の国」の各氏族もイワレヒコを奈良盆地における「木の国」の利益代表として承認し、イワレヒコは「木の国」の森林資源のパワーを背景にして各方面に対して積極的な働きかけをしていくことになります。これが紀元前74年のことで、いわゆる神武紀元元年ということになります。

すなわち、奈良盆地の各共同体に「木の国」産の木材を提供し、その木材を燃料として奈良盆地の共同体に土器や金属器を作らせて、それらを「木の国」や瀬戸内海沿岸地域の諸国に回すという仲介貿易を行い、それによって得た余剰資産で、「木の国」の木材を買い取り、出雲系技術者集団を雇い、奈良盆地の共同体には兵士や人足の提供を求め、その交易路の警備や北九州方面への備えのための水軍や瀬戸内海沿岸の監視用高地性集落システムなどを構築していったのでした。
そのためにイワレヒコは奈良盆地内に勢力を持っていた出雲系技術者集団の氏族、おそらく賀茂氏の娘を妻に迎えて縁戚関係を築きました。また、その技術集団をイワレヒコの力の源泉である「木の国」に積極的に誘致して「木の国」のパワーを高めることに努めました。
このように海人氏はイワレヒコの代にその地盤を築き、紀元前36年のイワレヒコ没後も、その子孫達もこのイワレヒコの敷いた路線に従って交易や水軍の運用などを行っていき、そうしているうちに、次第に奈良盆地内や瀬戸内海において指導的立場を確立していくことになったのです。

ただ、そのように海人氏の立場が強くなってくると、それに対する反発も生じてくるわけで、奈良盆地内で敵も増えてくるのです。また、奈良盆地勢力の指導的立場として例えば瀬戸内海の諸国と交渉する場合にも後ろ盾となる力が強大なものが必要になってきます。つまり海人氏の指導的立場を維持するために外部のパワーと連携していく必要が生じてくるわけで、元来それが「木の国」であったのですが、更にプラスアルファの要素を求めるようにもなってきました。
「木の国」は木材の供給源としては有用だったのですが、あまりに山地が険しく、紀ノ川か流域以外は農業共同体が乏しく人口があまり多くありませんでした。しかし古代においては軍事力というのは兵員の数に比例するのであり、動員力のある地域、つまり人口の多い地域を押さえている勢力が有利でした。
何らかのトラブルが起きた場合には軍事力などの抑止力を示す必要があったわけですが、海人氏が示すことが出来ていた抑止力というのは「木の国」の資源パワー及び技術力だけではなく、奈良盆地という人口豊富な地域が動員可能な潜在的な兵力というものだったのです。
しかしこれは奈良盆地以外の勢力に対しては抑止力となりますが、奈良盆地勢力が海人氏に背いた場合には抑止力にはなりません。もし奈良盆地全体が海人氏に背いた場合でも奈良盆地に対して圧力を加えられるぐらいの人口豊富な地域を押さえておく必要があるのです。それが出来てこそ、奈良盆地において真に指導的な立場を確固としたものに出来るのです。
また、奈良盆地以外にも吉備国や播磨国、丹波国、出雲国、そして越の国など、有力な国々は多くあり、これらが連合して敵対した場合、奈良盆地と「木の国」との連合だけでは安心できません。それになんといっても朝鮮半島やシナ帝国を後ろ盾にした北九州勢力は強大で、上記の諸国が連合して対抗してやっと均衡を保っている状況であったのですが、その連合は絶対的ではなく、たとえば出雲や吉備が北九州側に寝返ったりすれば一気に均衡が崩れてしまう危ういものでした。
ですから、理想としては、一応海人氏の指導の下にある奈良盆地と「木の国」の連合勢力のみでも北九州勢力と対抗し得るくらいの実力を蓄えておきたいということになります。それぐらいの実力を持つことによって、奈良盆地内の諸勢力への押さえも効くし、吉備や出雲などの同盟諸国への睨みも効いて、同盟を強固なものにすることになるはずなのです。

そこで海人氏はその資源力と動員力を上げるために、まずは「木の国」の紀ノ川河口部から淡路島南岸を渡って阿波国や讃岐国に進出していきました。阿波国は「木の国」と同じくらいの森林資源の宝庫であり、また阿波の吉野川流域には農村共同体が多く、人口もそれなりに多い地域でもありました。まぁ阿波に関しては資源力の増量の意味合いのほうが大きかったと思われます。
むしろ軍事力に直結する動員力の増強という意味合いで期待されたのは広大な東海地方への進出でした。そもそも縄文時代の日本列島というのは西日本よりも東日本のほうが人口が多かったぐらいで、東国は人口豊富な地域でした。つまり東国というのは決定的な軍事力を発揮することが出来る地域なのです。例えば壬申の乱などのように、古代史においては東国勢力の動向が天下の趨勢を決定づけるというような、そういう潜在力を東国は持つことになるのです。ただ、まだこの時点ではまだ東国はそうした役割は担っていませんでしたが、海人氏が東国のそうした潜在力に最初に着眼したわけです。
その東海地方への進出のための拠点となったのが伊勢ということになります。海人氏は熊野川河口部から更に熊野灘を北東に進んで、志摩まで至って伊勢湾方面に進出することになり、その足がかりに伊勢を開発したのです。また、尾張に進出していた尾張氏とも連携を模索しました。1世紀初頭ぐらいには海人氏と尾張氏は縁戚関係を結んでいます。

こうして、阿波、紀伊、伊勢、そして尾張というのは海人氏にとって大変に重要な拠点となっていき、これら地域の各海洋民氏族とは堅い協力関係や信頼関係を維持していくことが不可欠となりました。信頼関係とは心を一つにすることによって得られるもので、その最も良い手段はつまり信仰を同一にすることです。
これら地域の海洋民はみな同じ太陽神を信仰していたので、海人氏としては彼らの太陽神祭祀に加わり、彼らの信仰する太陽神を信仰するようになることで、これら地域と堅い絆で結ばれることが可能となっていったのです。これが後に海人氏、つまり大王家によるアマテラス信仰に繋がっていくのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。