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日本史についての雑文その225 伊勢神宮
熊野川流域の鴨県主一族や紀ノ川河口部の玉津島の雑賀衆は「八咫烏」を太陽神のシンボルとして崇めていたのでしたが、これが1世紀半ば以降に鏡が太陽神のシンボルとされるようになると、その鏡は伊勢神宮では「八咫鏡」と呼ばれるようになります。
「咫」というのは古代における長さの単位で、一咫が約18cm.なので八咫は約150cm.ということになりますが、実際に鏡や烏が150cm.あったというわけではなく、これは意味としては単に「大きい」という程度のものです。

ただ、固有物の名としては単に「大きい烏」や「大きい鏡」という意味では仕方ないので、これは「八咫烏」や「八咫鏡」で一種のブランド的な固有名詞であったと考えたほうが自然でしょう。つまり、太陽神の象徴物の接頭語として「八咫」という語を付するというのがこの太陽神信仰の流儀であったということなのでしょう。もしかすると「八」という数字に何らかの宗教的なマジックナンバーとしての意味を見出していたのかもしれません。
つまり、熊野本宮大社の神官であった鴨県主氏やその同系の九鬼氏、そして紀ノ川河口部の玉津島神社の祭祀を行っていた雑賀衆らが「八咫烏」をシンボルとして信仰していた太陽神も、伊勢神宮において「八咫鏡」を神体として祀られることとなった太陽神も、その伊勢神宮に関係の深い尾張氏やその一族である津守氏や海部氏の信仰していた太陽神も、また雑賀衆の同族と見られる紀氏が紀ノ川河口の南の日前宮で「八咫鏡」と同格の鏡をシンボルとして信仰していた太陽神も、もともとは皆同じ太陽神であったのではないかということになります。

伊勢地方の海洋民の太陽神としては猿田彦があります。猿田彦は古事記の記載によれば、「天の八衢」、つまり天の八方の分かれ道に居て高天原や地上を照らす神であるとされ、これは天照大神と同じ属性であるといえます。日本書紀においては猿田彦は「衢神」と呼称されていますが、八衢にいるわけですから「八衢神」と言い換えることも出来ます。ここでもまた「八」という数字が出てきます。
そしてまた猿田彦は天孫降臨時に天孫であるニニギの道案内をした神であるとされていますが、「八咫烏」もまた天孫であるイワレヒコの道案内を務めた神であり、そのモチーフは共通しています。
また猿田彦は鼻が大変高い神として描かれており天狗のモデルとなった神ですが、後の牛若丸の伝承にもあるように烏は天狗の眷族と考えられており、それは猿田彦と八咫烏の間の主従の関係性を古代の人が認識していたのでこういう伝承が生じたのかもしれません。そういえば天狗や烏天狗は修験者の格好をしていますが、修験道が生まれて発展したのはこの猿田彦や八咫烏の信仰された紀伊や大和、伊勢の山岳地帯でありました。
古事記や日本書紀の天孫降臨神話において最初に登場した時はこの神は正体不明であったのですが、ウズメという女神に問い質されてその正体を「猿田彦」であると明らかにしています。つまりウズメによって猿田彦はその姿を顕わすことが出来るわけで、ウズメというのは猿田彦という太陽神に仕える巫女を神格化したものなのだといえます。
ところが天岩戸神話においてはウズメは天岩戸に篭ってしまった太陽神の天照大神を引き出すために岩戸の前でトランス状態になって踊り狂う役割を演じます。つまりここでもウズメは太陽神をこの世に顕現させる役目を果たすことになるのです。これはまさに太陽神に仕える巫女の姿であり、ウズメは天照大神に仕える巫女でもあることになります。そうなると猿田彦と天照大神は同一神であるとも考えられるのです。

記紀によれば猿田彦はウズメを伴って伊勢国の五十鈴川のほとりに降って鎮座したといいますが、この場所はまさに伊勢神宮の内宮の位置であり、伊勢神宮の内宮の地ではもともと猿田彦への祭祀が行われていたということになります。
伝承によれば、猿田彦の子孫が天照大神を祀る地としてこの地を3世紀後半のイクメイリヒコ大王の時代に皇女のヤマトヒメに献上したのが伊勢神宮の始まりだといいます。そして猿田彦の子孫は内宮のすぐ北の自分の屋敷内で祖霊として猿田彦を祀り、それが現在の内宮のすぐ北にある猿田彦神社の始まりだといいます。
これはつまり、五十鈴川のほとりで行われていた猿田彦という太陽神への祭祀を3世紀後半に大王家が引き継いで天照大神、いやイクメイリヒコの時代ならばまだアマテラスと呼ぶべきで、アマテラスという太陽神への祭祀という形に発展させたと見たほうが適当でしょう。おそらく記紀の天岩戸神話の原型となった伝承の中のウズメの仕える太陽神も元来は猿田彦であったのでしょう。それがイクメイリヒコ時代以降はアマテラスということになり、記紀においては天照大神という名になったのですが、それに仕える巫女はウズメのままであったということなのでしょう。

この伊勢神宮の内宮から五十鈴川を下って伊勢湾に出た地点のすぐ西に二見浦があり、その海上に夫婦岩があります。この夫婦岩は男岩と女岩から成り、この2つの岩の間に注連縄が張り巡らされており、一種の鳥居の役目を果たしています。つまりこの夫婦岩の向こうは神域であるということです。ではどういう神を祀っているのかというと、夫婦岩の東北東の沖合660m.地点に沈む興玉神石をご神体としているといいます。
興玉神石というのは、古事記の中の伝承にもあるように手を比羅部貝に挟まれて海中に沈んだ猿田彦の化身とされる石で、まぁ実際にそんな石が海中にあるのかどうかは分かりませんが、要するに猿田彦を祀っている神域を示す鳥居が夫婦岩だということです。そうした神域が海中にあるということは、猿田彦という太陽神が海や海洋民に深い縁のある神なのだということも示しています。
この夫婦岩の男岩と女岩の中心線と興玉神石があるといわれている場所とを一直線に見る位置に存在しているのが二見浦の海岸線にある二見興玉神社です。この神社は本殿が無く拝殿のみがある神社で、本殿には通常ご神体が安置してあるものですからこの神社にはご神体が無いことになります。しかしそういうわけではなく、つまりこの神社は三輪山をご神体とする拝殿のみの大神神社と同じタイプの神社であり、海中の興玉神石をご神体とする神社なのです。そういうわけでこの神社の祭神は猿田彦なのです。

ところがこの神社で祀られているのは猿田彦だけではなく「日の大神」という神も祀られているといわれます。これは夏至の日の朝に実際にこの地に行くと一目瞭然で、二見興玉神社から夫婦岩を見ると、夏至の日の日の出の太陽が男岩と女岩の真ん中から海面を照らしながら昇ってくるのが見えます。
つまり、この地はもともとは海上の男岩と女岩の間から昇る夏至の太陽を海洋民が拝むためのスポットであり、そこにいつしか拝殿が作られるようになり、夏至の日の海面を照らして昇る朝日を「日の大神」として祭祀するようになったのですが、その朝日を象徴化したご神体を海中に沈む架空の興玉神石として設定し、その興玉神石に伊勢地方の太陽神であった猿田彦ゆかりの伝承を合体させたというのが実際のところでしょう。
この「海面を照らして昇る朝日」というイメージは、アマテラスの原型である「海照」のイメージに非常に近く、この二見興玉神社を通して「日の大神」=「猿田彦」=「アマテラス」という関係性が強く意識されます。なお、「日の大神」という神名は紀ノ川河口部の日前神宮の祭神である「日前大神」とも類似しています。ただ日前大神の場合は位置的に朝日の神ではなく夕日の神ということになりますが、海を照らすという点では共通することになります。

また古代において伊勢神宮に参拝する者はこの二見興玉神社の位置で海に入って禊をしてから五十鈴川を遡って内宮へ向かったといわれますが、わざわざそんなことをするのは本来は不自然であり、おそらくは元来はこの地の海で禊をした者が参拝したのは二見興玉神社そのものだったのでしょう。それがわざわざ伊勢神宮まで出向かねばならなくなったというのは、二見興玉神社で祀られていた神が伊勢神宮でも祀られるようになったからでしょう。つまり、アマテラスがもともと二見興玉神社で祀られていたということです。もちろん、ここで言うアマテラスは記紀にあるような天神としての天照大神ではなく、むしろ海照や「日の大神」のイメージに近い存在で、猿田彦とも同一神と考えてもよく、アマテラスの原型と解釈すればいいでしょう。
また、この二見興玉神社という名称は実は1909年以降の呼称であり、もともとはこの地には猿田彦を祀る「興玉社」と、宇迦御霊之神を祀る「三宮神社」という2つの神社が存在し、それが1909年に合祀されて1つの神社とされ、その総称として二見興玉神社という名がつけられたのです。
猿田彦を祀る「興玉社」のほうはアマテラスの原型を祀る神社であるということでいいのですが、この「三宮神社」で祀られる宇迦御霊之神という神はいったい何なのかというと、これは豊受大神の別名だといわれます。豊受大神というのは伊勢神宮の外宮で祀られている神で、つまりこの二見浦の地では伊勢神宮の内宮の原型も、外宮の原型も両方とも揃っていたということになります。この地が伊勢神宮祭祀の原型の発祥の地と考えていいでしょう。

そして伊勢神宮は大王家にとっての東方への進出の橋頭堡の位置にあったのですが、それはもちろん伊勢湾の入り口に位置していて尾張方面や三河方面へ内湾を通ってアクセス可能であったという地理的な好条件の要素もありましたが、それがどうしてこの伊勢神宮の地でなければならなかったのかというと、それは伊勢神宮のすぐ近くの二見浦にある伊勢神宮の原型である二見興玉神社の地に立つと解答が得られます。
夏至の日の朝に二見興玉神社から海上に浮かぶ夫婦岩を眺めると朝日が海面を照らしながら男岩と女岩の真ん中から昇るということは先ほど説明しましたが、実はこの朝日は海面から昇るわけではないのです。この夏至の朝日は男岩と女岩の真ん中に遥か彼方に小さく見える富士山から昇って伊勢湾の海面を照らすのです。
つまり、夏至の日の「日の大神」、つまりアマテラスは富士山から生まれるのです。古来、富士山は霊峰として信仰されてきましたが、伊勢の地においては夏至の日の太陽神を生み出す遥か東方の地の霊峰として強く意識されることとなり、ここから伊勢湾に漕ぎ出して彼方に見える富士山を常に目標として進んでいけば東方の太陽神の故郷へと辿り着くのだという思想を生み出したと推測されます。まぁそこまで宗教がかったものでなかったとしても、遥か彼方に巨大な山が見えていればその地に行ってみたくなるのが人情というものでしょう。
そしてその航路は遠州灘を通り太平洋の荒波に晒される危険なものであったので、この伊勢の地で夏至の時期の最も勢いのある太陽神に手を合わせ、そのパワーを自らの中に取り込み、その加護を祈るというのが伊勢の地から東方を目指す船乗り達にとって不可欠の神事となったのでした。
このように伊勢の地における太陽神信仰は東方へ向かうベクトルを強く内包したものであり、実際に大王家にとって東方の開拓はその命運を賭けた運命的事業でもあったので、東方進出のイデオロギーを内包した伊勢アマテラス信仰に大王家は一族を挙げて帰依することとなったのです。
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