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日本史についての雑文その226 首長霊祭祀
このアマテラスの原型である猿田彦が阿波国の大麻比古神社でも祀られており、この南洋系海洋民による同一の太陽神の信仰が四国にも及んでいたことを示しています。阿波は大王家が開拓に熱心であった土地ですが、その開拓の中心となっていたのは忌部氏であり、そのため大麻比古神社の主祭神は阿波忌部氏の祖霊であり、猿田彦は後に合祀されたもので、もともとは鳴門海峡を見下ろす大麻山で祀られていたものでした。
つまり、阿波国の猿田彦信仰の起源はもっと古く、おそらくイワレヒコ以前に遡るでしょう。そこにイワレヒコ以後に忌部氏が阿波国にやって来て開拓を始め、大麻比古神社を創建したというわけです。大麻比古神社はイワレヒコの時代に創建されたとされていますから、忌部氏はイワレヒコの時代から阿波国にやって来ていたのでしょう。
忌部氏というのは、もともとは出雲国の玉作氏の一族で、祭祀関連の技術者集団の氏族でした。その忌部氏は他の金属技術集団や土木技術集団などと一緒に出雲から丹波などを経て畿内地方へも進出してきており、イワレヒコは彼らを重用して「木の国」にも大いに誘致しました。忌部氏も本職の祭具製作だけではなく、その技術力を活用して「木の国」の開拓を熱心に行い、海人氏の阿波国開拓計画にも賛同して、紀ノ川流域から河口部を経て、淡路島を通って阿波国へと勢力を伸ばしていったのだと思われます。

こうした海人氏による西方への勢力拡大の橋頭堡の位置にあったのが紀ノ川河口部の南の毛見崎にあった日前宮で、特に海人氏が大王家となった3世紀以降には阿波国などの四国との連携は非常に重要になり、日前宮の重要性も増すようになりました。
そこでイクメイリヒコ大王の時代に毛見崎の地から大和歌山湾の奥の現在地に移転することとなったのです。伊勢神宮を創建したのもイクメイリヒコ大王の時代のことであり、この時代には祭祀上のトピックといえる事件が多く起きています。
この現在の日前宮は和歌山県庁の東方の内陸部にあり、和歌山市街を見下ろす位置にありますが、3世紀後半のイクメイリヒコ時代においてはまだ干潟遅滞と陸地との間の海岸線沿いにあり、しかも移転前の毛見崎のような南の辺境地ではなく、交通の大動脈であった紀ノ川河口のほど近くに位置していました。
この地にはもともと紀伊国の一宮である伊太祁曽神社が存在しており、五十猛命を主祭神としていました。五十猛命は木の神で、スサノヲの子とされている神であり明らかに出雲系氏族の祀る神です。古来から木の国に進出してきていた出雲系氏族が紀ノ川河口部にまで進出してきていたということであり、おそらく後に一宮とされていることから考えて、この伊太祁曽神社は出雲系氏族にとっては紀伊国において最重要な神社であったと思われます。
ところがその伊太祁曽神社が、日前宮がこの地に移転してきたために、和田川の上流部の現在地に移転させられることとなったのです。つまり、イクメイリヒコ大王にとっては、それだけ日前宮をこの紀ノ川近傍の一等地に移転させて拡充させなければならない理由があったのだといえます。
そして、これと同じイクメイリヒコ大王の時代、大王家にとっての東方への勢力拡大の橋頭堡の位置にあった伊勢の二見浦にあった猿田彦信仰が、やや内陸部の伊勢神宮の地に移転してアマテラス信仰としてリニューアルされています。
つまり3世紀後半のイクメイリヒコ大王の時代に、先代のミマキイリヒコ大王の時代に形成された大和王権がいよいよ畿内政権の枠を超えて西日本全体の連合政権に発展しようという兆候を見せ始め、ますます大和王権の東西それぞれの前線基地である伊勢神宮や日前宮の役割が大きくなると同時に、大所帯となった大和王権を支える祭祀体制として、先代のミマキイリヒコ時代に確立した首長霊祭祀を更に整備し完成させる必要性が生じてきたのです。

首長霊祭祀の思想とは、祖霊や穀霊や自然霊などの共同体の守護神は遠くから共同体を見守るのではなく共同体の首長の身を借りてその霊力を行使するのであり、首長の身にその霊力を受け継ぐ首長霊継承秘儀こそが共同体にとって最重要の祭祀であるとする考え方です。
これは人間が神の霊力を得るという考え方であり、ある意味で人間が神と化するという思想です。こんなことは不可能なことであり、これは現代科学文明の視点で見て不可能と判断できるというのではなく、古代のほうが神と人間の区別はより厳格であったはずで、こんなことは現代以上に不可能なことだと思われていたはずです。
むしろ現代のほうが神と人間の区別は曖昧で、神が存在しないと考えることによって人間が神となり得る不遜な時代であるといえるでしょう。現代において人間が神になるという奇跡を実現するために駆使されているのが科学であり、科学がそういった傲慢を生み出しているのです。しかし人間というものは不可能を可能にする奇跡というものを常に求める生き物であるゆえに、不可能と判断されることにこそ最先端科学の力で挑みたくなるものなのです。真に奇跡を可能にするものは僥倖なのではなく科学なのです。
古代においても人間のそういう面は不変であり、文明とはそうやって発展してきたのであり、文明の中心である王権や帝国などはそうした最先端科学の結晶であったのであり、その存在そのものが奇跡や神秘の産物なのです。実際、大和王権にとって常に潜在的脅威であるシナ帝国も最先端の科学や技術で神々をも斬り従えて全ての神の頂点に立つ神である皇帝という存在を作り上げて成立してきたのです。
だから大和王権において首長霊祭祀という、人間が神の霊力を受け継ぐという到底不可能なことを可能にする奇跡を起こすためには、この時代なりの最先端の「科学」を駆使するしかないのであり、またそうした難事への挑戦なくしては大和王権という王権は王権として存立していくことは出来ないのです。ですから、やるしかないわけで、但し、当時の最先端科学とは、現代的視点で見ればほとんど「魔法」や「儀式」と言って差し支えないものでありました。

実際にはほとんど無意味なことであっても、それが勿体つけた手続きや装飾を散りばめられていれば何か効果があるような気分になる、そうした共同幻想のようなものが成立しさえすれば「科学」というものは形式的には成り立つのです。それは厳密に検証すれば成立しないことが判明するのですが、厳密な検証というものが困難であった時代においては、そのまま「科学」として通ってしまい、つまり、何やら大袈裟な儀式できらびやかな祭具を振り回しているだけで人間が神の能力を得たとみんなが納得してしまったりもするのです。いや、現代の「科学」といわれて喧伝されているものの大部分も案外こんなものなのかもしれません。
古代であるからこそ人間が神の能力を手中にすることなど不可能であるとされ、不可能だと判断されたからこそそれを超越する奇跡を起こす力を王権は求められるのであり、奇跡を起こす方法は最先端科学でなければならないのであり、そしてこの時代の最先端科学とは一種の魔法的な儀式であったのです。その儀式で不可欠であったのが「神の霊力を封じ込めたといわれる祭具や神器」でありました。これを手中にすることによって首長は神の霊力を引き継いだことになるのです。

問題はどうやってそれらの祭具に神の霊力を封じ込めるのかですが、それはもう、それなりの共同幻想に則った儀式を通じて、それを見る者の多くにそれが聖なるものであると納得させるだけの説得力があればいいわけで、例えばオリンピックの聖火リレーで手渡しされる聖火トーチなどは実際は単なる棒きれに過ぎないのですが、アテナのオリンポス神殿で古代ギリシャの祭儀服に身を包んだ巫女たちが太陽光を集めて点火させるという儀式を経ることによって現代においても何となくあれを聖なるものだと多くの人が思い込んでしまい、さすがに拝んだりはしませんが、とにかくあの火を消してはいけないという、よく考えれば全くナンセンスな約束事を全員が必死になって守ろうとして世界中を大騒ぎしながら走り回るのですから、古代の首長霊祭祀だってそれとそう大差は無い程度のリアリティはあったといえるでしょう。
シナ帝国の祭儀などは全く単純明快であり、皇帝が地上唯一の神の代理人であるわけですから、皇帝の命によって作らせた品物、まぁもちろん当時の最先端の技術や技巧が凝らされたものでもあったわけですが、皇帝の下賜した物品というだけで権力の象徴と認識されたのでした。
そうしたシナ文明の影響を受けて北九州エリアではシナ産の鏡や剣が王権の象徴として祭祀の対象となり、更にそれに日本列島オリジナルの祭具であった勾玉を加えた鏡と剣と玉の三点セットを王権の象徴とする習慣が確立されるようになりました。そうした習慣が西日本にも広まってきた時点で、各地で首長霊祭祀の思想が生まれ、大和では首長霊祭祀をもとにして大和王権が成立しました。
大和王権は日本列島の各地の土着の首長霊の霊力を継承する大王を中心として国家連合体を作っていこうという運動でしたから、その首長霊継承儀式で使う祭具や神器もシナ産のものではなく日本列島の技術で日本列島の人間によって作られたものでなければいけませんでした。厳密に言えば連合を形成する各国それぞれの首長霊の霊力が込められた神器を集めて大王の継承儀式において使用する必要がありました。
いや、実際に祭儀はそのようにして行われたのであろうと思います。ただ、その中でも特に重視されたのが、既に畿内においても王権の象徴として一般的認識となっていた「鏡・剣・玉の三点セット」はシナ産のものではなく、国内の最先端の技術と意匠を凝らしたものを大和王権のもとで管理し、首長霊継承儀式で使うことだったと思われます。

そのうちの1つが先述した古代出雲の神秘的製鉄技術であった「たたら吹き」で製作された草薙剣であったのです。草薙剣はスサノヲやオオアナムチのような蛇に象徴されるような出雲系の神々の首長霊を封じ込めたものであり、その霊力を継承する者は出雲系氏族への支配権を持つことになったのです。そして東国は出雲系氏族によって開拓されて出雲系氏族が多く住んでいる土地であったので、東国進出を目指す大和王権にとっては是非とも手に入れたい神器であったのであり、それゆえ草薙剣は大和王権の東国進出の拠点であった伊勢神宮に当初は保管され、更にそこから東国へ向かうヤマトタケルの手に託されることになったのです。
日本書紀によれば、出雲の神宝が大和に献上されたのもまたイクメイリヒコ大王の時代であり、この時に草薙剣も大和に来たのではないかと思われます。イクメイリヒコの次の代のオオタラシヒコの時代にはヤマトタケルの手に渡らねばならないのですから、このあたりで大和入りしていないと辻褄が合わないのです。とにかくイクメイリヒコ時代付近にこういうことが一気に行われたようで、他の地域からの神宝の献上の記録なども多く記載されています。
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