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日本史についての雑文その229 丹生津比売
そもそも日本列島というものは内帯と外帯に分けられ、中央構造線というのはその内帯と外帯の境界線なのです。中央構造線の北側が内帯、南側が外帯です。ごく簡単に言えば、内帯はもともとはユーラシア大陸の東端にくっついていた陸塊で、外帯は南洋で生まれた陸塊なのであり、約7000万年前の白亜紀後半に外帯が南洋から北上してきてユーラシア大陸東端にあった内帯に激突して合体したことによって日本列島の原型が出来たといわれます。この時に形成された内帯と外帯のつなぎ目が中央構造線だといわれます。
ちなみにその後、約2500万年前にその合体日本列島がユーラシア大陸から分離して日本海が形成され始め、約1500万年前には日本海の拡大が完了しましたが、その過程で西南日本が時計回りに、東北日本が反時計回りに回転したために日本列島は現在のように折れ曲がった形になり、中央構造線の諏訪湖付近を頂点とした歪みが生じ、同時に折れ曲がった部分が陥没してフォッサマグナを形成したといわれます。
これらの激突や回転というものは一瞬で起こったものではなく、気が遠くなるほど長い年月をかけて継続したものですから中央構造線やフォッサマグナ付近には長期間ものすごい圧力が加え続けられたことになります。現在でも日本列島の日本海側は少しずつ東へ移動し、太平洋側は少しずつ西へ移動しており、中央構造線やフォッサマグナ付近には膨大な圧力が加わり続けているのです。

このように地底深くの岩盤に膨大な圧力が加わった場合、その地層内に存在する地下水にも膨大な圧力が加わることになります。水というのは高圧下では高温状態になりますが同時に沸点が上昇して、100℃を超えてもいつまでも水蒸気にならずに液体のままで温度が上昇し続けますから、このような高圧下では何百度にも達する超熱水となります。
水もこれほどの超熱水となると周囲の岩石と化学反応を起こし、岩石の成分が熱水の中に溶解するようになります。こうした深い地下の熱水が何かの拍子で地表近くまで上昇してくると冷却したり減圧したりして溶解していた物質が水と分離して沈殿するのですが、この熱水に溶解していた物質に金属元素が多く含まれていた場合は、地表近くで水から分離した金属元素が鉱物となり、そうした鉱物を含んだ鉱石が多く採集できる鉱床が形成されます。このようにして形成される鉱床を熱水鉱床と呼び、熱水鉱床で採集される鉱石においては金属元素は硫黄と結合した硫化鉱物の形で含まれることが多いのです。
中央構造線やフォッサマグナ付近にはこうした熱水鉱床が数多く形成されており、熱水鉱床で採集される金属元素には金や銀、銅、鉛など有用なものが多く、後にかなりの産出量を誇ることになるのですが、この古墳時代初期の段階においてはまだこれらの金属元素を含んだ鉱床の開発はほとんどなされておらず、中央構造線付近の熱水鉱床で唯一、活発に採取されていた硫化鉱物は「辰砂」だけでした。

辰砂というのは硫化水銀からなる鉱物で、赤色の結晶体として存在しており、古来から「丹」と呼ばれて赤色の顔料の材料として使われていました。「丹塗矢」もこの辰砂を溶かし込んだ顔料で赤く塗られた矢であったのです。また鎮静作用をもたらす漢方薬の材料としても使われました。水銀というのは単体では常温で液体という変わった金属なのですが、辰砂においては硫黄と結合することによって固体の結晶構造をとることになります。
この辰砂、つまり「丹」を産出する鉱脈のある地を古来、「丹生」と呼びました。十津川最上流部から九度山に向けて流れる紀伊の丹生川や、吉野山から五條市に流れる大和の丹生川、また丹生川上神社があったとされた候補地である吉野川上流域や高見川上流域も元来は「丹生」と呼ばれた地域に含まれていたのであろうと思われ、これらは全て中央構造線の少し南の地域で、辰砂が採取できた地なのでしょう。これらの吉野川や紀ノ川の南の「丹生」地域から吉野川や紀ノ川に出て川を下っていくと紀ノ川の河口部に出て、そこには日前宮が存在します。
また高見川の最上流部から高見峠を越えて伊勢国に入り、櫛田川に乗り換えて中央構造線の南を東へ向けて下っていけば多紀郡には縄文時代から辰砂の採掘が行われていた丹生鉱山があり、そこから櫛田川を下ると松坂の東で伊勢湾に出ますが、丹生鉱山から濁川を下れば宮川に合流し、伊勢神宮の近くを通って伊勢湾に出ることになります。この多紀郡の丹生鉱山の地には辰砂の採取を行っていた氏族の丹生氏がおり、丹生津姫を祭神とした丹生神社を建立していました。
また、中央構造線の南を流れる阿波国の吉野川の更に南を流れる那賀川の中流域には丹生谷といわれる地域があり、この中にある若杉山遺跡は辰砂採取遺跡として知られ、また少し上流の仁宇という地には八幡神社がありますが、ここには丹生神社が合祀されていますから、元来はここにも丹生氏が丹生神社を建てて居住し辰砂の採取を行っていたのでしょう。

このような丹生神社がこの中央構造線付近には数多くあるのですが、その中でも最も有名なものは紀伊国一宮とされる丹生津比売神社です。紀ノ川下流部の岩出で南から紀ノ川に合流する貴志川は高野山の西を水源とする川ですが、その支流の鞆内川の水源のかつらぎ町の天野の山中に丹生津比売神社はあります。この地は九度山町との境界付近であり、高野山のすぐ近くです。
もともとはこの地でも辰砂が採取され、丹生氏によって丹生津姫が祀られていましたが、空海が高野山に金剛峰寺を開いて以降、高野山との関係が深くなったといわれます。ちなみに空海の開山した寺院は中央構造線付近の水銀鉱床地帯に集中しており、真言宗教団の資金源は水銀であったといわれています。
それはさておき、この丹生津比売神社の本来の主祭神である丹生津比売大神という神は、天照大神の妹神とされており、稚日女尊と同一神とされます。稚日女尊というのは神戸の生田神社の祭神でもあり、また紀ノ川河口部沖合にあった玉津島の玉津島神社で祀られていた太陽神の名前でもあります。生田神社の社伝では稚日女尊は天照大神の幼名であるとされ、また玉津島神社の社伝によれば丹生津比売神社の祭神は玉津島神社の祭神の分霊なのだそうです。日本書紀のオキナガタラシヒメの条にもこの丹生津比売神社と思われる天野の神社にまつわる話が出てきて、太陽の怪異として語られていますので、古墳時代には太陽神の祭祀が行われていたようです。
また、この稚日女尊は日本書紀の天岩戸神話でも登場し、神衣を織っていた稚日女尊のところへスサノヲが馬を投げ込み、その拍子に稚日女尊が身体を傷つけて死んでしまい、それを知った天照大神が岩戸に篭ってしまったということになっています。しかし稚日女尊が天照大神の幼名であり天照大神自身であるのならば、死んだのは天照大神自身であり、岩戸に篭ったのは埋葬されたということであり、つまりこれは太陽神の復活神話の導入部ということになるのです。
まぁ元来はアマテラスは女神というわけではなく、天照大神の別名とされる大日女尊もその幼名とされる稚日女尊も元来は太陽神に仕える巫女を神格化したものだったのですが、いつしかこれらが一体化していき、その過程でこれらの伝承が出来上がっていったのでしょう。
この太陽神の復活神話を儀式化したものが伊勢神宮や日前宮の神体鏡を使った太陽神復活神事であり、それに深く関わる太陽神と辰砂採取の守護神が丹生津比売神社では同一神とされており、つまりはその他の丹生神社でも同様の扱いであったのでありましょう。稚日女尊は若く瑞々しい日の女神であるともされ、太陽神復活神事で蘇った太陽神の姿を表現したものでもあったのかもしれません。
このように鏡を使った太陽神復活神事と辰砂採取作業は、その神事を行う神社と辰砂鉱床との位置関係の観点からも、それぞれの祀る神の深い関係性からも、密接に関与していたことは間違いないことです。そしてこれらの地域が全て忌部氏の勢力範囲であったことから、太陽神復活神事で使用される祭具、つまり鏡と辰砂の間に何らかの関係があったということが想像できます。

辰砂を空気中で400度?600度に加熱すると水銀蒸気と二酸化硫黄(亜硫酸ガス)が生じ、この水銀蒸気は毒性が強く長期間吸い続けると水銀中毒を起こす危険があるのですが、この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが出来るのです。水銀の沸点は約350度ですから、常温常圧下で加熱をやめて凝縮すればすぐに水銀蒸気は液体化して水銀となります。
この水銀は常温で液体として存在する唯一の金属で、しかも他の金属と非常に合金を作りやすいという性質を持っており、その合金をアマルガムというのですが、多くのアマルガムは常温で液体となります。つまり常温で金属は水銀の中に溶け込むことが多いのです。
その液体状のアマルガムを他の金属製品の表面にハケなどで塗りつけた後で350度以上の高熱、といっても木炭を燃やせば400度の熱が得られますから容易いものなのですが、そうした高熱で加熱して水銀だけを蒸発させて飛ばしてしまえば、金属製品の表面には水銀と合金してアマルガムを形成していた金属のみが残り固まるのです。これが「アマルガムめっき」であり、「消鍍金」といわれて古墳時代から実用化されていた古典的メッキ法です。青銅鏡の場合は鏡面に錫メッキを施すのが一般的でした。
つまり鏡の場合、現代の鏡はガラスで出来ていますから非常に鏡面の反射率が高いのですが、古代の鏡は金属鏡ですから反射率を上げるためにはメッキを施すという手段をとることになります。この3世紀の時代、つまり古墳時代初期において新たに青銅鏡の鏡面の反射率を上げるために加えられた最先端技術による工夫が鏡面に錫と水銀のアマルガムを使った錫メッキを施すことだったのです。あるいは錫の含有量の多い青銅を入手できない場合は、青銅鏡の鏡面を水銀で磨くだけでも自然に鏡面上に銅と錫と水銀のアマルガムを形成することが出来ました。

海洋民の素朴な太陽神信仰を3世紀に成立した大和王権の国教的な普遍的宗教に脱皮させるための太陽神復活神事においては反射率の高い鏡面を持った鏡が必要であり、そのための当時の最先端技術が水銀を使ったアマルガム鍍金だったのであり、それに不可欠の原料が辰砂であったのです。その産地は紀ノ川や櫛田川、那賀川の中流や上流域だったのであり、古事記で言うところの鏡製作時に鉄と共に採取した「川上の堅い岩」とは、つまりこの硫化水銀鉱物である辰砂を含んだ鉱石のことだったのであり、その辰砂の産地から最もアクセスの良い下流域にあった太陽神信仰の聖地が伊勢神宮や日前宮だったのでしょう。
その伊勢神宮や日前宮を、辰砂を運んできて水銀を精製して鋳造した鏡にアマルガムを塗って水銀を飛ばす作業まで一貫で行う鏡工房を併設できるほどの広さを有した場所に社殿を移転する必要もイクメイリヒコ大王の時代には生じたのでしょう。神事で使う「日矛鏡」を各地の共同体の分を作るのだとしたなら、なおさら工房は必要であったでしょう。そして、それらの地域で辰砂の採取から運搬、工房における鏡製作作業の一連の管理を行っていたのが忌部氏であったのでしょう。

こうして、紀ノ川流域および阿波国で採取された辰砂は紀ノ川河口部の日前宮に運ばれ、櫛田川流域で採取された辰砂は伊勢神宮に運ばれ、そこで忌部氏によって水銀を精製されて鏡製作作業の中のアマルガム鍍金の工程で使われ、太陽神復活神事で使われる祭器である「日像鏡」や「日矛鏡」が作られたのでした。
この太陽神復活神事によって太陽神信仰は大和王権の国教としての「アマテラス信仰」に脱皮し、その神事で使われる「日像鏡」や「日矛鏡」も祭祀の対象となったのです。特に元来から夫婦岩の彼方の富士山を太陽神の故郷とする思想の生まれた地であり東方への進出拠点でもあった伊勢神宮は重要視されるようになり、伊勢神宮に祀られていた鋼製の「日像鏡」は特に「八咫鏡」と呼ばれて太陽神の霊力を封じ込めた神器と見なされ、これを引き継ぐ者は大和王権の首長霊を継承する者であるとして、王権の象徴として扱われるようになっていくのです。

また、青銅鏡の「日矛鏡」は大和王権の連合の証として各地の共同体に下賜されていったと思われ、それと同時にアマテラス信仰も各地に広まっていったのではないかと思います。そのような鏡が各地に残っていないことを指摘される方もいるかもしれませんが、残っていないのは当然で、これらは全部溶かして再利用されたからです。
日本では8世紀初めまで国産銅というものが産出されず、青銅器というものはもともと存在する銅製品を溶かして新しい鋳型にはめて作るという銅リサイクルを行っていたのです。そして国産銅が産出されるようになっても慢性的銅不足はほとんど改善されず、そのうえ8世紀半ばには銅を膨大に消費する国家プロジェクトを進行させることになります。
それが奈良の大仏建立計画であり、また同時進行した国分寺や国分尼寺の建立計画でした。これらの計画を遂行するためにありとあらゆる青銅器が集められて溶かされ鋳直されました。その中にはこれらの「日矛鏡」も含まれていたはずです。何故なら、大仏や国分寺に象徴される仏教鎮護国家思想こそはアマテラス信仰に代わる新しい日本の国教であったからです。新しい神のシンボルを作るために古い神のシンボルを溶かして材料として再利用するのは、むしろ当然のことであったはずです。
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