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日本史についての雑文その230 豊受大神宮
このように、3世紀に伊勢神宮は大和王権の公認の太陽神信仰であるアマテラス信仰の場として、そして大和王権の東方進出の根拠地として立ち現れてくることになるのですが、元来は南洋系海洋民による猿田彦という海洋的な太陽神祭祀の中心地であったのです。
ただアマテラス信仰というのは伊勢神宮の内宮、つまり現在の正式名称を皇大神宮という神社における祭祀のことを言うのであって、伊勢神宮の外宮、すなわち豊受大神宮における祭祀となると全く別の祭祀となります。

皇大神宮という名称は記紀編纂時にアマテラスを皇祖神と位置づけて以降のものであろうと思われ、それ以降、皇大神宮を「内宮」、豊受大神宮を「外宮」として、総称して「伊勢神宮」として扱うようになったのであり、それ以前は別々の神社であったと考えればいいと思います。そもそも祭神が違うのですから、別の神社なのです。
では皇大神宮は記紀編纂以前はどういう名前であったのかというと、それはよく分かりませんが、普通にこの内宮が元来は「伊勢神宮」と言われていたと考えればいいでしょう。その伊勢神宮の西に接して流れる五十鈴川は北へ向かって下っていき伊勢湾へ注ぎます。現在の五十鈴川の河口は後年になってから流路変更によって開削されたもので、本来の河口は現在は五十鈴川派川と呼ばれている東側に流れて伊勢湾の太平洋への出口である伊良湖水道へ向けて開口する河口です。その五十鈴川の河口のすぐ西の海上に浮かぶのが夫婦岩で、この夫婦岩の西南西の岩礁海岸上に伊勢神宮の祭祀の原型となった二見興玉神社がありました。
いや正確に言えば現在において二見興玉神社と言われている神社の建っている地には元来は興玉社という猿田彦という太陽神を祀る神社があり、その太陽神祭祀が伊勢神宮に受け継がれたのです。

そしてこの二見興玉神社の地には元来はもう1つ、三宮神社という神社があり、ここで祀られていたのが宇迦御霊之神という神だったのですが、「ウカ」というのは穀物を意味し、この神は穀物神とされています。
この神は後に秦氏の氏神であった稲荷神と習合して農業や産業全般の神として広く信仰されることになりますが、もともとはスサノヲの子とされており、出雲系の穀物神でした。スサノヲの子とされているのは出雲系の神であるということの表現であって、本当にスサノヲの子というわけではありません。むしろこの神の本来の姿はスサノヲに斬り殺される穀物神であるオオゲツヒメと同一のものでしょう。
空腹を覚えたスサノヲがオオゲツヒメに食物を求めると、オオゲツヒメが鼻や口や尻などから食物を出してスサノヲに与えたのでスサノヲが怒ってオオゲツヒメを斬り殺すと、その死体の各所から蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生まれたという神話が古事記に収録されています。
これとほぼ同じ内容の神話が日本書紀ではツクヨミに斬り殺されるウケモチの話として出てきて、こちらでもウケモチの死体から牛馬、粟、蚕、稗、稲、麦、大豆、小豆が生まれたとされています。ここではウケモチは葦原中国の神とされており、葦原中国というのはスサノヲが開拓しオオアナムチが支配した国ですから、このウケモチも出雲系の神ということになり、「ウケ」というのも「ウカ」と同じく穀物を意味しますから、出雲系の穀物神で、宇迦御霊之神やオオゲツヒメと同一神と考えていいでしょう。
この「ウケ」というのが豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祭神である豊受大神と共通しており、これも同一神とされています。豊受大神も穀物神とされており、豊受大神宮の社伝によれば、この神はもともとは丹波国の比沼真奈井の食物神である等由気大神を伊勢に呼び寄せたものとされ、また丹後半島先端の竹野郡にある奈具社や、丹後国一宮の宮津の籠神社に付属する奥宮の真奈井神社で主祭神として祀られており、もともとはウケモチなどと同じく出雲系の穀物神であると考えられます。

このウケモチやオオゲツヒメの神話はハイヌウェレ型神話といいまして東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸などで見られる、「殺された神の死体から食物が生まれた」という食物起源神話の一類型です。その典型例とされるインドネシアのセラム島のヴェマーレ族の神話の中での主人公の名がハイヌウェレというのですが、このハイヌウェレが大便として排出した宝物を村人に配ったところ、気味悪がった村人がハイヌウェレを殺してバラバラにして埋めた場所から様々な種類の芋が生えて、人々はそれを主食にしたという神話で、この神話の分布範囲は芋を主食とする地域なのです。
これが日本列島においては芋ではなく五穀が生じたとされているのであり、南洋経由で伝わったハイヌウェレ型神話が日本列島において五穀を産する畑稲作に対応した形に変わったという可能性も十分ありますが、ウケモチやオオゲツヒメの出雲系神話世界との関わりの深さを考えると、東南アジアからシナ南部を経て畑稲作が日本列島に伝わってくるのに伴って、このハイヌウェレ型神話が穀物型に変化してから日本列島の日本海側に伝わったと考えたほうが適切でしょう。
そして、ウケモチやオオゲツヒメの死体から生じた穀物の種類から見て、それは紀元前400年あたりの水田稲作の伝来時ではなく、おそらくそれよりも古い縄文時代における畑稲作伝来時に伝わった古層に属する神話であろうと思われます。
そうした古い出雲系の穀物神である宇迦御霊之神への祭祀が伊勢の二見浦の三宮神社の地まで伝播してきており、それが同じく二見浦の興玉社の猿田彦祭祀が伊勢神宮のアマテラス祭祀へと発展したのに対応して、豊受大神宮における豊受大神への祭祀に発展したのでしょう。おそらく元来同じ地にあった興玉社と三宮神社の祭祀は信仰する側にとっては既に一体化しており、片方だけが大きくなって片方だけが元のままというわけにはいかなかったのでしょう。そういうわけで三宮神社の地から海岸線に沿って南西に6km.ほどの地で宮川の河口部の東の海岸に豊受大神宮を作ったというわけです。

伊勢湾は閉鎖海域なのでその内部においては河川の河口部では干潟を形成しやすく、言い換えると現在の伊勢湾沿岸の平野部というのは元来は海であった場所に河川の運んできた土砂が堆積して形成されたものなのです。そういうわけですから伊勢湾の西岸、伊勢から桑名まで続く伊勢平野というのも古代においては大部分は海あるいは干潟であったわけで、当時の海岸線は現在の海岸線とは違うわけです。
現在は夫婦岩や二見興玉神社のある岩礁部より西には二見浦海水浴場の砂浜や宇治山田港などがありますが、古代においてはこのあたり一帯は海だったのであり、古代の海岸線は二見興玉神社から豊受大神宮に至り、更にそこから北西に向かい現在の松坂市街の南を通るラインであり、その間に宮川や櫛田川の河口が伊勢湾に開いて土砂を堆積させて干潟地帯を形成しつつあったという状況であったと想定されます。
そのような古代の地形をふまえて見てみると、豊受大神宮は伊勢湾に面した地に建っていたのであり、海から真っ直ぐ豊受大神宮を見た場合、その奥2km.ほどの地点に伊勢神宮があるということになります。つまり、陸側から見れば伊勢神宮はより内陸部にあり、豊受大神宮はより外側、海側にあるということになるのです。そういうわけで、まさに伊勢神宮は「内宮」であり、豊受大神宮は「外宮」となるのです。

問題は、このような出雲系の穀物神信仰がどのような経路でこの伊勢の地にやって来たのかです。この地は基本的には南洋系海洋民の勢力の強い地で、伊勢から尾張、美濃、飛騨方面にかけては南洋系海洋民の尾張氏が進出していったわけですが、これらの地では暴風のことを「一目連」と呼び神風として畏れ敬っていました。伊勢国最北端の桑名の多度大社の併社には一目連神社がありますが、ここの祭神の一目連大神は出雲のたたら吹き製鉄の神である天目一箇神であるとされ、しかもこの神は出雲系の神の特徴である蛇神であるともされています。
これは紀伊国の本宮あたりまで進出してきた出雲系氏族の伝えた神話世界の影響が熊野灘の南洋系海洋民に伝播して、タタラの持つ風を起こす力や、一つ目の神というイメージが台風のイメージと重なり合い、台風の通り道である伊勢や尾張などで暴風神という性格を持つようになり、そうした暴風神への信仰を尾張氏がその進出地域に広めていったということでしょう。つまり、この地域の南洋系海洋民はもともと出雲系神話世界の影響を受けており、その中には出雲系穀物神に関する祭祀も含まれていた可能性もあるということです。

ただ、もっと直接的に出雲系氏族がこと伊勢の地にもやって来ていたとも考えられます。伊勢神宮の祭祀を担当した忌部氏は伊勢国にも元来から進出していましたが、忌部氏はもともと出雲系氏族です。また、他にも出雲系氏族は古くから奈良盆地や吉野地方にも進出していましたから、そこから内陸水路で伊勢湾方面へ進出してくることは可能でした。
吉野方面からのアクセスは、吉野川に注ぐ支流の高見川は伊勢国と大和国の境にある高見山に水源を発しますが、その南にある高見峠で櫛田川の最上流部に乗り換えて松坂の東で伊勢湾に注ぐことが出来ます。この櫛田川の河口から海岸線沿いに東南へ10km.ほど進めば豊受大神宮に至り、そこから更に海岸線伝いに三宮神社に着きます。
奈良盆地方面からのアクセスは、盆地東南部の三輪山の南を通って東へ遡ってきた初瀬川が榛原で乗り換えた宇陀川が名張まで下ってきて、そこから名張川を上流部へ遡っていくと大和国と伊勢国の境にある三峰山の北麓の御杖村の神末で伊勢地川に乗り換えることが出来ます。伊勢地川はほどなく雲出川に合流し北東に流れていき、古代の海岸線は現在より山側であったので、現在の松坂市街の北西10km.ほどの地点で伊勢湾に注いだと思われます。ここより東は雲出川の運んできた土砂が堆積した干潟地帯が形成されていたと思われ、干潟地帯を南東に進んでいけば櫛田川の河口部に辿り着けたことでしょう。

この松坂の北の干潟地帯の最も海寄りの地点で、現在は雲出川の河口となっている地点に香良洲神社があり稚日女尊を祭神としていました。稚日女尊は天照大神の幼名とされていますが元来はアマテラスを祀る巫女の神格化されたもので、更に遡るとアマテラスは海の太陽神である猿田彦であり、この香良洲神社のほとんど海中に建っているような立地条件を考えると、二見興玉神社と同じように猿田彦のイメージのほうがふさわしいと思われます。おそらくはこの地では元来は南洋系海洋民によって猿田彦関連の祭祀が行われていたのでしょう。
そこでこの神社の名称ですが、香良洲というのは当て字で、読み方は「カラス神社」といいまして、元来は太陽神の使いである「八咫烏」を祀っていたのではないかと思われ、そのイメージが後に太陽神の巫女である稚日女尊の祭祀に置き換わったのではないかと思うのです。後に江戸時代になって伊勢参りが盛んに行われた頃、「お伊勢参りをして加良須詣らぬは片参宮」と言われたほど、伊勢神宮とは1セットの扱いの神社でありまして、猿田彦を祀る興玉社とその眷属である八咫烏を祀る香良洲神社とが伊勢湾の海上の道を通じて密接に繋がっていたとも考えられます。
こうした伊勢から松坂の北に至る平野部の臨海部に広がる干潟地帯の北には津があり、ここはその名の通りの港町で、比較的海岸線近くに高台があったので海岸線は現在のラインに近く、古来から伊勢に付随した伊勢湾内の良港として栄えました。こうした津から伊勢へ広がる南洋系海洋民の世界に櫛田川や雲出川のような内陸水路を通って吉野や奈良盆地から出雲系氏族がやって来たとするなら、ウケモチやオオゲツヒメのような東南アジア系の穀物神神話が伊勢の地に伝えられたということは大いにあり得ることであり、それが二見浦の夫婦岩を望む地に宇迦御霊之神への祭祀という形で成立したと考えられます。
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