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日本史についての雑文その231 ヤマトタケル伝承
そしてその出雲系氏族の進出ルートというのは、そのまま大和王権時代には奈良盆地や吉野方面から津や松坂を経て伊勢湾海上へ出て東へ進み二見浦の海の上から夫婦岩の彼方に見える富士山を目標にして伊勢湾を出て遠州灘へ漕ぎ出していく海路に繋がる道でもあったのです。そしてそれはオオタラシヒコ大王の時代にヤマトタケルが東国へ向かう際に通ったであろう道でもあるのです。
ヤマトタケルは東国征討を父である大王に命じられた後、大和から伊勢神宮に立ち寄り、そこで叔母のヤマトヒメに草薙剣を渡されてから東国への旅に出発し、その後に現れる地点は駿河となっています。おそらく雲出川や櫛田川で伊勢方面に出た後、伊勢神宮を経由して富士山を目標にして遠州灘ルートをとったのでしょう。
その後、ヤマトタケルは東国をぐるりと巡ることになるのですが、それを終えてから一旦は尾張に落ち着き、その後に近江国と美濃国の境にある伊吹山の神を退治に出かけ、そこで神の呪いを受けて病になってしまいます。

この伊吹山の神というのは大蛇の姿で現れていますから出雲系の神であり、ヤマトタケルの活躍した4世紀初頭においてもまだ伊吹山あたりは出雲系氏族のテリトリーで、大和王権の支配が完全に及んでいるわけでもなかったようです。
その後ヤマトタケルは故郷の大和への帰路につくのですが、おそらく伊吹山の南山腹から藤古川を下って南方の関が原に出て不破関を南東へ通過して、関が原東方の南宮山とその南方の養老山地の間の谷間で牧田川に合流して濃尾平野へ下っていったものと思われます。
濃尾平野というのは揖斐川、長良川、木曽川という伊勢湾に北から注ぐ三本の大河が流れ込んでくる典型的な堆積平野で、古代においては養老山地より東は、現在の岐阜市あたりを北限として知多半島の西まで干潟地帯が広がっていました。
つまりヤマトタケルの経路としては藤古川から牧田川に合流して養老山地の北から東へ回り込んだ養老のあたりからほどなく干潟地帯の水路に入っていったのであろうと思われます。また養老の東の大垣市街の南部も干潟地帯であったと思われ、このあたりに北から注いでいたのが関が原を水源とする相川です。
藤古川や相川の上流部は琵琶湖に注ぐ天野川の最上流部に関が原で乗り換えることが出来、天野川から琵琶湖を経て宇治川や木津川などを使って京都盆地や奈良盆地方面へ繋がるルートであり、それゆえ関が原には古代から不破関が置かれていたのですが、ヤマトタケルはこのルートで大和へ向かおうとはせずに関が原を東に進み濃尾平野の干潟地帯を南下して伊勢湾西部から大和への帰路をとりました。これはおそらく4世紀初頭の時点では大和へのアクセスは南回りルートのほうが安心できるルートだったからでしょう。近江国の北部や中部には日本海側起源の東南アジア系勢力がまだ根強く、それはおそらく次の世代であるオキナガタラシヒメの働きによって安定化することになるからです。

例えば関が原の東の相川の上流近く、南宮山の北の不破郡垂井町には美濃国一宮の南宮大社がありますが、南宮山も元々は南宮大社の背後にある山なので南宮山と呼ばれるようになったのであり、この南宮大社自体も律令制施行後に美濃国国府の南に位置するようになったので南宮と呼ばれるようになっただけで、元々は金山彦神社と呼ばれ、金山彦命を祭神としています。
金山彦命は鉱山や金属技工の神であり、出雲系の技術者集団と関係の深い神です。美濃国の一宮となるくらいですから盛んに信仰を集めていたのだと思われ、このあたりは近江盆地から関が原を通って進出してきた出雲系氏族の一大根拠地であったのでしょう。
この南宮大社の地から相川を南へ少し下ると濃尾平野の干潟地帯の西端となり、養老山地を西に見て南下していくことになります。この養老山地の南部の東、現在は木曽川の東岸あたりになる台地の上に津島神社があり、古代においてはこの地は干潟内の島であったと思われます。
この津島神社の祭神がスサノヲで、社伝によれば、スサノヲが韓国から日本へ渡った際に荒魂は出雲に行き、和魂は対馬(古くは津島と書いた)に留まったが後に6世紀にこの地に勧請したとのことで、それが津島神社の創建であるとのことですが、要するに東南アジア方面から対馬海流で朝鮮半島南岸や日本海側地方にやって来た出雲系氏族が琵琶湖を経由してこの地までやって来てスサノヲへの祭祀を既に古くからやっていたのでしょう。

このように、おそらくは近江盆地から進出してきた出雲系氏族は元来はこの干潟地帯の西端部やそこに注ぐ揖斐川流域にも進出していたのでしょうが、後に南方の伊勢方面から南洋系の尾張氏が進出してきて干潟地帯を勢力下に置くようになったのだと思われます。
そして当初は南宮大社のあたりを根拠地として揖斐川流域にあった出雲系氏族がそうした干潟地帯の尾張氏勢力と対峙したり共存していた時期もあったのでしょう。ヤマトタケルの活動した4世紀初頭などはそうした状況であったと思われます。
日本書紀においてはヤマトタケルは東国征討が終わった後は尾張に落ち着き、尾張氏の娘と結婚してその地に留まりしばらく安楽に暮らしたとされており、尾張氏と大王家とは良好な関係が維持されていたことが窺えます。実際、1世紀初頭の時点から大王家と尾張氏とは縁戚関係を結んでいたわけですから、尾張氏は既にその時点では濃尾平野の干潟地帯に勢力を持ち、大王家と同盟関係にあったといえます。
一方、日本書紀を見ると伊吹山の出雲系の神はヤマトタケルに敵対しているわけで、近江盆地起源の出雲系氏族は大王家とはこの時点ではしっくりした関係ではないようです。ならば尾張氏とも良好な関係ではないと推測されるのです。

そうした尾張氏による干潟地帯への進出の状況の名残をとどめるのが、ヤマトタケルも伊吹山からの帰途に通ったであろうルートに沿って、干潟地帯の西端を養老山地を右に見て下っていくと伊勢国の桑名に至り、その地の養老山地の最南端の多度山の南麓にある多度大社です。
多度大社の祭神は天津彦根命とされ、この神は天照大神の子とされ、古来から伊勢神宮との関わりが深く、北伊勢大神宮などとも称されました。しかしこの天津彦根命は製鉄神ダイダラボッチと同一神とされる天目一箇神の親ともされており、出雲系の匂いも漂う神様です。多度大社の境内にはこの天目一箇神を祀る一目連神社があり、本来はこちらの信仰のほうがこの地の本来の信仰であったのではないかと思われます。
この天目一箇神に関する信仰は元来は出雲系氏族の伝えたものでしたが、熊野灘で尾張氏に暴風神信仰として受け継がれてこの桑名の地にも達していたのでしょう。しかしこの一目連神社における天目一箇神は伊吹山の神と同じく蛇神とされており、元来は近江盆地から南下してきたものであり、そこに後から尾張氏の暴風神信仰が重なったものなのでしょう。また、この神社は社殿の背後にある多度山をご神体としており、元来は山岳信仰の要素もあったようです。
この多度大社の地が古代においては濃尾平野の干潟地帯の南西端にあたるのですが、干潟地帯はそのまま伊勢湾西岸を南下して鈴鹿市北部の海岸線まで続いており、この干潟地帯にも尾張氏が進出していたと思われます。つまり多度大社までは尾張氏は進出していたわけで、そこの地に元来から存在した出雲系の山岳信仰や蛇神信仰を受容しつつ、そこに更に南洋系海洋民の太陽神のアマテラス信仰の要素や、熊野灘起源の暴風神信仰の要素も加えていったのでしょう。そもそも「多度」という社名もダイダラボッチやタタラに関係があるのかもしれません。

さて、そうなると古代の伊勢湾西岸の海岸線は多度大社を起点として南へ向かうラインということになり、現在よりも相当内陸部にあったことになります。すなわち鈴鹿山脈の東側の山麓に沿ったラインということになり、その海岸線の東側の海域は鈴鹿山脈から流れ下ってくる何本もの河川の運んでくる土砂の堆積による干潟地帯が形成されており、それらの河川の中で最大のものがこの干潟地帯の南部に注ぐ鈴鹿川でした。鈴鹿川の河口部から南は海岸線は現在の海岸線に近づいていき、津のあたりで伊勢や松坂方面の海岸線に繋がります。
日本書紀のヤマトタケルの記述を見ると、伊吹山からどうやら関が原から南下して養老を通った後、尾張や四日市や鈴鹿を通過したようなのですが、これらの地域は古代においては干潟地帯の中にありましたから、どうやらヤマトタケルは養老から濃尾平野の干潟地帯に入り、そのまま伊勢湾西岸の干潟地帯まで水路でずっと移動したようなのです。
そしてその後ヤマトタケルは能褒野という地で亡くなるのですが、この地は鈴鹿市の西端で鈴鹿川に注ぐ支流の安楽川を少し遡った地点とされています。この安楽川を最上流まで遡っていくと伊勢国と近江国の境の山女原の山中で笹路川に乗り換えることが出来ます。笹路川は野洲川に合流して近江盆地南部を西進して守山市で琵琶湖南部の最も狭い部分に注ぎ、そこからならすぐに瀬田川の流れに乗って琵琶湖から出て、宇治川から古涼の池を経て木津川を通って奈良盆地の北部へ戻ることが出来るのです。
ヤマトタケルはそうしたルートで大和へ戻るために伊勢湾西岸の干潟地帯を南下した後、鈴鹿川を遡り、さらに安楽川を遡る進路をとった時点で力尽きたのだということになります。ただ、単純に大和に戻るとしたならこのルートは遠回り過ぎます。

安楽川に入らずにそのまま鈴鹿川を遡っていけば亀山市や関市を通って鈴鹿山脈の南部の山中に入っていって、鈴鹿川の最上流で船を降りて鈴鹿峠を歩いて越えれば山中川に乗り換えて野洲川に合流することも可能なのですが、この現在国道1号線が通っているルートは非常に急峻で有名であり、あまり現実的ではないでしょう。
むしろ関市で鈴鹿川に注ぐ加太川を遡って鈴鹿山脈の南の谷間である柘植町で柘植川の最上流部に乗り換えるルート、つまり現在国道25号線が通っているルートのほうがまだ鈴鹿峠越えよりも平坦で現実的だといえるでしょう。柘植川を下ると伊賀上野を通過して南山城村で木津川になり、笠置経由で奈良盆地北部へ入ることが出来ますし、あるいは南山城村から名張川を遡れば宇陀川を経て榛原で初瀬川に乗り換えて奈良盆地南東部に出ることも出来ます。
このように鈴鹿峠を通過するルートよりもその南の柘植町を経由するルートのほうが大和へ向かうには現実的であり最短コースであるので、本来の「鈴鹿関」というのはこのルートを通ってきた人や物のチェックを行うための機構を関市あたりに設けたもののことだったのではないか、だからこの地を「関」と呼んだのではないかとも思えるのです。
ヤマトタケルも本当はこの柘植越えのルートで大和へ戻ろうとしていたのであり、その途中で脇道に逸れた能褒野で力尽きたのかもしれません。

ちなみにこの能褒野で安楽川に注ぐ御幣川を遡っていって、鈴鹿山脈の山岳部に至ってから更に支流の鍋川を遡った入道ヶ岳の東麓には伊勢国一宮の椿大神社があります。この神社の祭神は猿田彦で、イクメイリヒコ大王の時代にヤマトヒメに下った神託に従って創建されたとされていますが、同じイクメイリヒコ時代に同じヤマトヒメに下った神託によって伊勢神宮の内宮で猿田彦祭祀に代わってアマテラス祭祀が始まっていますから、これは要するに猿田彦祭祀の代替場所としてこの鈴鹿の内陸部の地が与えられたということで、更に言えば、この地でももともと猿田彦の祭祀は行われていたはずであり、そこにヤマトヒメの肝煎りで猿田彦祭祀が大規模に行われるようになったということなのでしょう。
それがイクメイリヒコ大王の時代のことで、ヤマトヒメはその娘であり、次の代の大王であったオオタラシヒコはヤマトヒメの同腹の兄にあたります。つまりオオタラシヒコの子であったヤマトタケルにとってヤマトヒメは叔母にあたり、東国征討の出発前には草薙剣を託してもらうなど、大変に世話を焼いてもらった人です。その叔母の影響下にある伊勢国の猿田彦祭祀の中心地である椿大神社は、鈴鹿川下流域で病に苦しんで伊勢や尾張や大和まではとても持ち堪えそうにない体力のヤマトタケルにとっては最も最寄りの救命を求める場所であったはずであり、椿大神社へ向かおうとして鈴鹿川から逸れて御幣川に入ったところで力尽きてしまったのかもしれません。
ヤマトタケルが最終的にどういうルートで大和を目指していたのかは確かなことは分かりませんが、逆に大和から尾張方面に向かう場合の最短ルートは間違いなくこの柘植を越えるルートであったのであり、ヤマトタケルの時代にはこのルートを使って大和と濃尾平野干潟地帯の間を行き来するのは一般的であったと思われます。

ちなみに後年、隠棲地の吉野を脱出して東国へ向かった大海人皇子、つまり天武天皇の辿ったルートも、吉野から宇陀、室生、名張、伊賀、柘植、加太、鈴鹿、四日市、桑名へ至るというルートであり、まさにこの柘植経由ルートでありました。やはり古代においてはこのルートが定番であったようです。
ただ、これをもって、辿っているルートが同じであることからヤマトタケルの行動は後年の天武天皇の行動を過去に投影したものであり、実際はヤマトタケルは実在しなかったという説を唱えるような人もいます。また同じような理屈でイワレヒコが天武天皇の過去への投影であり実在しないという人もいます。ついでに言えば、同じく「ハツクニシラススメラミコト」という初代天皇という意の称号を持つためにイワレヒコはミマキイリヒコの過去への投影に過ぎないという説もあります。
こうした「過去への投影」説というのは、結局、ヤマトタケルやイワレヒコなどが実在していないという前提の上に成立する説であり、謬説であるといえるでしょう。日本列島の同じ地勢の上で行動している以上、時代は違っても同じ地政学的な制約を受けるのであり、その活動場所が類似してくることはよくあることです。例えば関が原では3度も天下分け目の戦いが行われていますし、大坂城の地は過去には難波宮であったし石山本願寺の地でもありました。
ヤマトタケルが柘植越えのルートを通ったから天武天皇の投影だというのなら、関が原で戦った天武天皇も徳川家康の投影に過ぎないということにもなってしまいます。また、「ハツクニシラススメラミコト」はそもそも記紀が創作した称号に過ぎず、単なる潤色表現に過ぎないのであって、イワレヒコもミマキイリヒコも実際はそんな称号では呼ばれていなかったのですから、そんなことでもってイワレヒコの実在か非実在かを論じるほうがナンセンスというものでしょう。
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