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日本史についての雑文その233 日本海航路
こうして見てみると、太平洋側の海洋民が濃尾平野の干潟地帯から内陸水路を通って東へ進出していこうとした場合、木曽川の支流の飛騨川流域より東は、東へ進もうとする進路を飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈、富士山、箱根山系、関東山地というそれぞれ南北に連なる巨大な山塊が順々に塞ぎ、これらの山塊が非常に東西に密集して順々に屹立しているために、それらの間を流れる河川がそれらの山塊間の狭い急峻な谷間を流れる一本の河川に集約され大河となりがちであり、その下流では暴れ川となり東西間の渡河が困難となり、上流へ遡ろうにもあまりに急流なので溯上そのものが困難であり、遡ったとしても延々と両側を二千?三千メートル級の山塊が塞ぎ、他の河川に乗り換えることは相当上流まで遡らなければ困難です。
このように太平洋側の海洋民が内陸水路で濃尾平野より東へ向かおうとした場合、南北に連なる山脈と南北に流れる河川が何度も繰り返し現れて、東西交通の進路を妨害するのです。そうなると海路で東へ進めばいいということになりますが、伊勢湾より東は外洋である太平洋を航行することになるわけで、これは瀬戸内海を航行するのとは違い、非常に危険な航路となります。
もちろん太平洋側で活動していた南洋系海洋民というのは、そもそもこの太平洋を通って日本列島へやって来たわけですから、太平洋の荒波に怖じ気づくなどということはなかったでしょうけれど、ここで言う「進出」というのはそういう行ったきりになる半ば漂流のようなものではなく、ちゃんと定期的に行き来できる航海路を開拓することですから、そういうレベルでは太平洋岸というのは古代においてはまだまだリスクの大きいものでしたので、その開拓はなかなか順調には進まなかったと思われます。

一方、日本海側の海洋民が若狭湾より東に内陸水路を使って進出していこうとした場合は、その進路に立ちはだかるのは両白山地と飛騨山脈、そしてその東にある妙高高原ぐらいで、確かに飛騨山脈および妙高高原は東西交通にとっては絶対的な障壁として機能しており、これを内陸水路で越えて東へ進むことはほぼ不可能でしたが、ここさえ海路で越えてしまえば、妙高高原より東は、基本的には険しい地形ではありましたが、内陸水路による東進を阻むほどの絶対的レベルの南北に連なる障害物は、越後国北部まではとりあえず見当たりません。
妙高高原より東は海岸線は基本的には平野ないしは干潟が多く河川も豊富で、山岳部が海岸に迫っている場合も多々ありましたが、それらが内陸までぎっしり詰まっているというわけでもないので内陸水路の抜け道はありましたし、しかもそれらの河川は太平洋側ほど急流ではなかったので河川交通は容易でした。そして内陸部の多くの盆地エリアへは日本最長の河川である信濃川を遡るというアクセスもありました。
それでも飛騨山脈部分や妙高高原部分、その他の一部の峠部分など、どうしても海路が必要な部分もあるのですが、日本海側の海路というのは、まぁ瀬戸内海ほど静かではないのですが、それでも太平洋側に比べれば随分と海が穏やかで、安全な航路でありました。冬の日本海は割と荒れますが、夏場などは天気のいい日は湖のように静かです。
また、そもそも日本列島というのは全体的に弓なりにカーブを描いており、そのカーブの内側が日本海側で、外側が太平洋側となります。言うなれば陸上競技のトラックのカーブで一番内側のコースが日本海側航路で、一番外側のコースが太平洋側航路ということになります。同じ条件でスタートしても、一番内側のコースのほうが距離も短く、早くゴールすることが出来るでしょう。ましてや太平洋側のほうが遠回りの上に難コースなのです。そういうわけで、海路としては太平洋側よりも日本海側のほうが断然発達することになります。

日本海側というと現代的感覚ではどうしても「裏日本」というような負のイメージがありますが、これは明治以降にどうしても日本という国家の急激な近代化を進める必要があり、国土全体を満遍なく発達させるという道を捨てて太平洋側を重点的に発達させるという政策を選択した結果であり、それでもまだ戦前はマシだったのですが、戦後になってそうした傾向がいっそう極端になり、今や東京のみ繁栄して地方を殺すような歪な政策が罷り通っているというわけです。
とにかく近代以前は日本海側というのは決して「裏日本」などではなく本来的には豊かな地域で、例えば日本一豊かな藩であった前田家の加賀百万石なども日本海側であったし、富山県などは貯蓄率や持ち家率が常に日本でも上位の基本的に生活の豊かな県であり、新潟は北海道を除いては日本一の米の産地で、明治前期までは日本一の人口を誇る地域でした。また長野県も農業が盛んで、日本一の長寿県でもあります。
なぜ日本海側が豊かであったのかというと、まず豪雪地帯であるために寒冷地帯であると誤解されがちですが、日本海に対馬海流という暖流が流れているために意外と暖かいということがあります。特に夏場はフェーン現象によって、むしろ太平洋側よりも暑い日が多く、稲作などは春から秋にかけて行うものですから冬場に豪雪が降ってもさほど関係は無く、むしろその雪解け水が春になって水田を潤し、夏場の暑さで稲がよく育つので稲作に非常に適した土地であるといえます。
そして日本海側航路の発達という要素があります。江戸時代などは蝦夷地の物産、まぁ主に綿花畑の肥料用のニシンだったわけですが、そういう物産を運ぶ北前船の航路は日本海航路でした。日本海側航路であれば最短距離で敦賀まで至り、そこから少し内陸水路を使えば琵琶湖に出て、そこから淀川水系を使えば京都や大坂、奈良に至ることが出来ました。その物産を次は大坂から江戸に太平洋岸航路で回送するわけですが、そっちの航路のほうがよほど危険だったわけです。

このように近代以前の日本海側というのは非常に豊かな地域だったのですが、これでもまだ豊かでなくなったほうなのであって、紀元前250年から紀元後150年ぐらいまでの地球が温暖化していた時代、特にローマ極大期といわれる紀元前100年から紀元後100年ぐらいまでの期間においては現代よりも気温は上だったのです。
まぁ現代も実は結構暖かいのですが、現代はもう近代の誤った政策によって日本海側は本来の姿を失っていますから参考にはならないのです。しかし少なくとも、その古代における温暖化期間の気温というものは江戸時代よりも断然高いのであって、その気温の低かった江戸時代においてさえもかなり繁栄していた日本海側が、まぁ江戸時代の技術水準や土地開発の恩恵などを差し引いて考えたとしても、それでも他の地域との相対的な優劣関係というものはほぼ同じと考えた場合、どうしても寒冷化というものは日本海側により大きくハンデとして作用するのですから、温暖化によって日本海側のアドバンテージは大きくなるのが自明のことであり、紀元前250年から紀元後150年あたりの日本海側のイメージは、いわゆる「裏日本」や「北日本」というイメージとは全く異質な、非常に先進的なものであったと考えたほうがいいでしょう。

そういうわけで中部地方以東においては日本海側のほうが太平洋側よりも開発は早く進んだと思われます。それは言い換えれば南洋系海洋民よりも東南アジア系海洋民のほうが東日本への進出で先んじたということです。しかも、ここで更に重要なのは東南アジア系海洋民のほうが南洋系海洋民に比べて、シナ大陸南部での内陸水路開発の経験という強みがあり、内陸水路への適応力が高かったということです。
そうして対馬海流に乗ってやって来た東南アジア系海洋民が北陸の海岸線沿いに交易路を開拓し、干潟地帯から内陸水路を辿って内陸に浸透していき、特に糸魚川や信濃川を遡って信濃国や甲斐国の奥深くの各盆地にまで進出していきました。
そうなると今度は東南アジア系海洋民が信濃国や甲斐国から太平洋側へ下っていく河川の流れに乗り換えて、太平洋方面へ進出していくことになります。ただその場合、西方への進出はぎっしり詰まった日本アルプスを越えていくのは困難で、ルートとしては実質的には天竜川水系の1本だけでした。
実際、日本アルプスの天然の障壁としての機能は際立っており、日本海岸から太平洋岸までぎっしりと連なる三千メートル級の森林限界を突破した山々は、人間の通行はもちろんのこと、動物や植物の種子の移動までも阻害し、日本アルプスおよびその東を並行して走る糸静線を挟んで日本列島の西と東とで動植物の生態系すら異質なものにしてしまっているぐらいなのです。
それに比較して、更に東方へと進出するルート、つまり関東地方へ進出するルートに関しては、越後山脈や関東山地は日本アルプスのように森林限界を超えて人の通行を不可能にするほど標高が高いわけでもなく、また何箇所か隙間があり、それらを抜けていけば進出は比較的容易でした。そういうわけで東南アジア系海洋民は更に上野国や武蔵国へも進出していくことになりました。

だいたい東日本に水田稲作が普及していくのが紀元前250年ぐらいからのことで、それ以前の、おそらくは縄文時代から北陸方面への東南アジア系海洋民の進出はあり、それなりの勢力は誇っており、それが出雲神話の中でヤマタノオロチの根拠地として示される出雲にとって敵対的な「高志(越)」という勢力ということになるのでしょうけれど、紀元前250年ぐらいからその越国の方面に水田稲作の技術とそれを中心理念とした国作りの思想を携えて出雲系の勢力が進出していくことになるのだと思います。
そして紀元前100年ぐらいまでの間には信濃や甲斐、関東地方や東海地方の東部にまで出雲系氏族は進出していって水田稲作を広めていったと思われます。おそらくそれは従来からの東南アジア系住民との統合や協力によって進められたものであって、征服などではなかったと思われます。そして紀元前100年以降はこれら地域でも共同体の統合が進められていき、遅くとも2世紀ぐらいには少なくとも越の国や信濃国ではかなり強大な地方勢力を形成するようになっていたと思われます。
こうした動きが起きている間、太平洋側の南洋系海洋民も何もしていなかったというわけではなく、それなりに濃尾平野よりも東方へも進出していったのでしょうけれども、海路の困難もあり山岳や河川の障害もあって沿岸部を少しずつ進むにとどまったと思われ、そうしているうちに大和地方で海人氏が勢力を伸ばしていくにつれて1世紀ぐらいから東海や関東南部への進出が図られるようになり、3世紀に大和王権が成立するとそれは本格化していくことになり、そして4世紀初頭のヤマトタケルの時代を迎えるのです。

また、東北地方についても状況は同じようなもので、太平洋航路で東北地方北部へ行くのと日本海航路で東北地方北部へ行くのとでは断然、日本海航路のほうが近く、しかも穏やかな海を渡っていけるわけで、しかも東北地方の山地は中部地方ほど急峻でもなく密集もしておらず、北へ向かう内陸水路を妨害するような向きで発達しているわけでもなく、内陸水路は発達していました。
そうなると東北地方奥地へのアクセスとしては日本海航路か、あるいは内陸水路ということになり、日本海航路が東南アジア系氏族の独壇場であることは言うまでもありませんが、内陸水路の場合もその起点は越後か北関東ということになりますから、既にこれら地域に進出していた東南アジア系、出雲系の氏族が有利となります。
このように、東国の開発については、先行する出雲系氏族に対する後発の南洋系氏族という構図が基本となり、当初の開発は日本海側から進められたということになり、そうした事実をふまえてまず日本海側の状況から見ていくことにします。そうなると最初に考察すべきは「越の国」ということになります。
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