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日本史についての雑文その234 越の国
いわゆる越前、加賀、能登、越中、越後の諸国というのは古代においては一括して「越の国」という大和王権から独立した地方勢力として扱われていました。それが大和王権の支配下に入ってから7世紀末以降に上記諸国に分割されたというわけです。
ただ、これは律令時代の令制国から逆算した考え方であり、実際は3世紀以前の畿内人の感覚としては、琵琶湖北岸に注ぐ何本かの河川を遡っていった先にある国境の峠を越した先にある未知の領域を一括して「越の国」と呼称していたのだと思います。

だからその領域というのは、正確な地図など無く、果てのほうまで行き着いた人もほとんどいない時代ですから、越前、加賀、能登、越中、越後はもちろんのこと、飛騨や信濃や甲斐も含まれ、東北地方、関東地方も含まれていたのです。最初はそれくらいいい加減な「琵琶湖より東北方面全部が越の国」というような認識であったと思われ、それは大和王権に抵抗した異民族である、いわゆる「蝦夷」の居住範囲と重なり合っていたといえます。
このように最初は「越の国」というのは「琵琶湖から見て東北方向の未知の世界」を指す地域名で、漠然と現在の北陸地方や甲信越地方、関東地方、東北地方を指す概念だったのですが、その後、4世紀から6世紀にかけて、北陸方面や甲信越方面が西から順次、大和王権の連合内に加わるようになると、次第に「越の国」という領域は「大和王権の支配地域の領域」と「蝦夷の住む未知の領域」に分かれるようになっていきました。

1世紀ぐらいから東海地方へ進出していった畿内の海人氏勢力が3世紀初めに大和王権として大きく発展し、その後もしばらく東へと進出していく傾向は続いたのですが、4世紀半ばに政策の転換が起こり、朝鮮半島方面への進出が重視されるようになり、その後、7世紀半ばまで大和王権は「西向きのベクトル」を維持することになります。
そういう時代に「越の国」の勢力が西から順次、大和王権の連合内に加わっていくようになったのであり、この期間は大和王権も積極的に東へ向けて進出していくという感じではありませんでした。積極政策は主に西方の朝鮮半島方面で展開され、東の方面は大和王権にとって必要とされる範囲の現状維持が重視されたようです。
この時期の日本列島内の畿内よりも東の地域のだいたいの地理的認識としては、現在の新潟県の上越地方と長野県と山梨県と静岡県地域までが大和王権の連合の勢力範囲で、それより東は未知の領域で蝦夷の住む地でした。
7世紀半ばの時点での現在の中部地方以東の大まかなニュアンスとしては、「尾張」「美濃」「飛騨」「三河」「遠江」「駿河」「甲斐」「信濃」の諸国が存在し、その北に越前から米山峠以西の上越地方までをひっくるめた「越」という東西に細長い大きな国があり、ここまでが大和王権の開発した地域ということになります。そして、それより東が「蝦夷の住む未知の領域」となり、言うなればここがこの時代における「越の国」の範囲ということになります。
つまり、ここでちょっとややこしいのですが、ここで言う「越の国」というのは「未知の領域」を指す普通名詞であり、特に領域の東の果てが固定化されているわけではない曖昧な領域なのであり、一方「越」というのは大和王権が定めた北陸地方の令制国の名前の1つなのです。新たに大和王権の連合内に入った地域には「越」という令制国が作られ、もともとの「越の国」の領域はその分狭まって東へ追いやられています。

そして、ここで7世紀後半に大和王権の政策の大転換があり、中央集権統一国家の成立、律令制への移行や白村江の戦いの敗戦などに絡んで日本は朝鮮半島から完全に撤退して東国の開発に本格着手するようになり「東向きのベクトル」が強く働くようになったのです。
そこで東国の地理的認識が大きく変更されることとなります。まず「越」の範囲を東に拡大し中下越地方も加えて、中下越地方を重点開発地域に指定しました。そしてまた、「駿河」「甲斐」「信濃」より東の関東地方を「総」「毛野」「武蔵」「常陸」などとして重点開発地域に指定し、そうした2つの重点開発地域の東北方向に蝦夷勢力との緩衝地帯として辺境国である「道奥(みちのく)」を設置し、その北限は宮城県の仙台市と山形県の酒田市を結んだラインぐらいとしました。このラインより北が完全なる未知の領域で蝦夷の支配地域というわけです。
こうした地理的認識は7世紀末には重点開発地域の開発が進むにつれて更に整備されるようになり、「越」は現在の福井県東部と石川県の「越前」、現在の富山県と新潟県上中越地方および下越地方南部の「越中」、現在の新潟県下越地方北部の「越後」に分割されました。これは「越前」「越中」が通常の令制国の扱いであり、中越地方と下越地方南部の開発が成果を上げたのでそれを「越中」に組み込んだのです。下越地方北部はまだ開発が十分ではなかったので「越後」は重点開発地域の扱いでした。
しかし、8世紀初頭には下越地方北部の開発も進んだので「越中」から現在の富山県部分以外の地域を分割して「越後」に組み入れ、現在の新潟県の本州部分全域が「越後」の範囲となり、「越後」は通常の令制国の扱いになりました。
その間、「道奥」で朝廷軍は北進して蝦夷を北へ追いやり、8世紀前半には「道奥」の北限は現在の宮城県と山形県の北端に達しました。その後、一時期「道奥」から山形県の沿岸部が割譲されて「越後」に「出羽郡」として加えられることもありましたが、結局、「出羽郡」は「越後」から切り離されて更に「道奥」から山形県の内陸部を与えられて「出羽」となり、「出羽」を割譲して現在の福島県と宮城県の領域となった「道奥」は「陸奥」となりました。
こうして8世紀前半には東北地方南部は大和朝廷の支配領域となり、その北が蝦夷の領域ということになったのです。そしてその後は日本海側の「出羽」と太平洋側の「陸奥」は、その南部を重点開発地域としながら、北部に新たな辺境地としての蝦夷との緩衝地帯を広げていくのでした。

このように、当初は大和王権にとっては「蝦夷の支配する未知の領域(越の国)」に過ぎなかった中越地方や下越地方も、時代状況の変遷によって次第に大和王権支配下にある「越」に含まれるようになり、未知領域を表す「越の国」や「みちのく」の地はそのぶん縮小し、東北地方北部の領域に収まるようになっていったのです。このように辺境の概念や名称というものは時代と共に変遷していくものであり、その範囲も大きくなったり小さくなったりするのです。
そういった変遷を垣間見ることが出来る史料が659年の大和王権からの遣唐使と唐の皇帝との問答の中にあり、その中で蝦夷のことが触れられており、それによると蝦夷には3種類あり、大和王権から最も近い地に住み従順な「熟蝦夷」、遠方に住む反抗的な「麁蝦夷」、そして最遠方に住む「都加留」がいるのだそうで、この時代はまだ大和王権が「西向きのベクトル」の時代であり、「越」と「越の国」の間の境が上越地方と中越地方を分ける米山峠であり、「越」が大和王権支配地で、「越の国」が蝦夷支配地の扱いであった時代ですから、これはつまり「越」に住むのが「熟蝦夷」で、「越の国」に住むのが「麁蝦夷」ということになり、越の国の住人と大和王権とは頻繁にトラブルを起こしていたことが分かります。そして更に遠方の津軽地方を含む「みちのく」地方に住む蝦夷とは大和王権は接触自体がそもそもほとんど無いような感じであり、この頃はまだ「みちのく」はほとんど未知の領域であり「みちのく」という概念自体がまだ未整備だったということになりますが、それでもそこに蝦夷の大きな勢力があるということは把握していたのだといえます。
そういう状況がそれから約100年後の8世紀半ばには越の国の「麁蝦夷」もほとんど大和王権に従う「熟蝦夷」になるようになり、越の国の領域の多くは単なる律令制下の一令制国となり、かわって出現した新たな辺境概念である「みちのく」の中に生じた新たな「麁蝦夷」の住む地としての出羽国や陸奥国の北部緩衝地帯が大和王権と境を接して対峙するようになっていくのです。
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日本海王権の首都
山陰の妻木晩田の四隅突出墳丘墓が造営されなくなってもそこに隣接する島根県安来市の塩津山墳墓群では古墳時代まで造営が続き、やがて全国一の大方墳を作るまでに集権化されています。
この地は出雲風土記でもスサノオが「安来」という名前を付けたという事で、古代出雲王朝の首都と考える人もいます。

【2007/08/27 00:02】 URL | 雲伯鉄 #- [ 編集]


 そこまでいくかどうがはしりませんが、技術者にとって安来というのは思い入れの深い土地です。そこには日立金属がありますが、今も様々な分野の人を研修させているのでしょう。
 なにせ、工具、金型は製造業の起訴で最先端の関心事ですから。

【2007/09/14 20:45】 URL | トヨタマ #- [ 編集]


 切れ味抜群の大和島根
きょうも一日立ちっぱなしだった
彩さんに乾杯。

【2008/02/16 21:42】 URL | 金属伝道師 #- [ 編集]


 伝統技術で世界最強の日本刀のナノテクノロジーを抽出し先端技術を駆使して日立金属がSLD-MAGICという金型用鋼を開発した。これは韓国製鉄が出来ない優秀なハイテン(高張力鋼板)を切り裂いたり、曲げたりする金型に応用され自動車などが製造されている。こんなことが韓国では出来ないのは切れ味抜群の日本刀には日本のオリジナル技術がいっぱい詰まっているから。

【2008/03/17 06:52】 URL | 日本ブランド研究員 #- [ 編集]


 噂に名高きSKD11に替わる次世代旗艦鋼種ですね。なんだか、大物の斬鉄剣なんか作ってみたくなりますね。

【2008/10/08 21:07】 URL | ゴエモン #- [ 編集]



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