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日本史についての雑文その235 蝦夷
さて、ここまで、九州から畿内の古代における状況について考察して、「○○の地域が××系海洋民の氏族の支配下にあった」などという表現をやたらと使ってきましたが、これは多分に文脈を分かり易くするための便宜的表現であり、全くの異民族国家や海洋民国家が日本列島のあちこちに存在したという意味ではありません。
日本列島の住民の基本構成は、ヴュルム氷期以前渡来の新モンゴロイド狩猟民とヴュルム氷期以後渡来の旧モンゴロイド海洋民の混血なのです。その海洋民にも大別して南洋系と東南アジア系があり、その二大部族の中でもまた色々な部族が存在したということを説明してきました。しかも、それらの海洋民が元来の純粋な南洋系や東南アジア系の海洋民部族の状態を保持しているということはあり得ないのであり、必ずヴュルム氷期以前から住んでいる新モンゴロイド狩猟民との混血を経ており、ミクロネシアやマレー半島にいるような海洋民がそのまま原型を保持していたということはまずあり得ません。
彼らは新モンゴロイドと混血して日本民族となっているのであり、そしてまたその新モンゴロイドのほうも単一部族なのではなく、地域によって異なった多数の部族によって構成されていたのでありますから、その新旧モンゴロイドの混血の組み合わせは多数のパターンが存在し、長い縄文時代の間には新モンゴロイドの異部族同士、旧モンゴロイドの異部族同士の混血も含めて、無数の混血パターンが繰り返されてきたのであり、ただそれでいて新モンゴロイドも東南アジア系海洋民も南洋系海洋民も、それぞれの中の各部族間の人種的民族的な根っこは同じであったので、それらの混血によって生じた日本列島の住人というものは結果的には人種的民族的にはそれほど大差なく「日本民族」という大枠の中に収まった存在となり、そうして各地の共同体の氏族は形成されていたのです。

ただ彼らは先祖伝来の文化や伝承を伝えていたのであろうし、その居住地域に応じた利害や利権を持っており、それを守るために近隣の共同体と協力したり争ったりしつつ、一定地域に一定の勢力を作り上げていったのです。そしてその一定地域の単位が、古代日本においては河川や海洋における水路交通が重要要素であったので、各地の氏族が保持していたその海洋民としての文化がどういう種類の海洋文化に由来するものであるのかについてここまでの説明中では便宜的に分類したのです。
あくまで「南洋系海洋民」「南洋系氏族」などという表現はしていても、それは便宜的な表題に過ぎず、その実体は「南洋系海洋民の部族と新モンゴロイドの部族の混血氏族」なのであり、それも組み合わせによって幾つもパターンがあるということになるのです。同じ「南洋系氏族」などといっても、その混血する新モンゴロイド部族の違いによって全然違う氏族となるのです。そういう概念を単に短縮して「南洋系氏族」と言っているだけのことであり、100%南洋系の血筋などというものは日本列島においてはあり得ないのです。
そしてまた、由来する海洋文化が同じであっても、居住地域の環境が異なれば自然とその海洋文化や水上文化の在り方は異なってくるのであり、例えば同じ東南アジア系氏族であっても地域によってはその有り様は全く違うものとなります。
逆に出自の違う海洋文化を持った氏族同士、つまり南洋系と東南アジア系同士でも、共通した環境や政治的経済的条件があれば吉備や播磨や畿内や木の国などのように共生していくことも多々あるということになるのです。むしろ、そのように新モンゴロイド、東南アジア系海洋民、南洋系海洋民という3種の部族の共生によって成り立った地域を中心として後に連合国家としての大和王権が形成されていくのであり、そうした共生の要素が少ない地域ほど、例えば北九州や出雲や熊襲、そして越の国のように、大和王権への参加がやや遅れる傾向があるといえます。

このように「新モンゴロイド狩猟民」「東南アジア系海洋民」「南洋系海洋民」という3種の民族集団の混血として日本民族というものは形成されてきたわけですが、これらの中で最も人口が多く、日本民族の形成の基本要素となっていったのは、やはり「新モンゴロイド狩猟民」であったと思われます。
この新モンゴロイド狩猟民はもともとヴュルム氷期の最盛期で最も海水面が後退して日本列島がユーラシア大陸と地続きであった約2万年前から、ヴュルム氷期が終わってそのユーラシアとの陸橋が沈む1万4千年前の間に、北方の樺太陸橋経由か、あるいは西方の対馬陸橋経由かで日本列島へやって来たと思われます。
樺太陸橋を通ってやって来た新モンゴロイド狩猟民は現在のロシア沿海州方面から、対馬陸橋を通ってやって来た新モンゴロイド狩猟民は現在の朝鮮半島方面からやって来たのですが、ヴュルム氷期が最盛期になる以前に新モンゴロイドが主に活動していたのはシベリアの奥地で、そこから満州平原に出てきた集団のうち、沿海州方面に移動した集団が樺太陸橋を渡り、朝鮮半島方面に移動した集団が対馬陸橋を渡ったのでしょうから、樺太陸橋で北から日本列島に来た集団も、対馬陸橋で西から日本列島に来た集団も、もともとは非常に血縁的には近い民族同士であったと思われます。
実際、縄文時代の中頃には日本列島内の各地で日本語の原型が形作られますが、これらは細かな単語の差異はあったとしても、全てツングース系言語の文法については統一されており、これはつまり、北と西から入ってきた新モンゴロイドの両方とも、ツングース系言語を使う集団で、しかも単語も共通したものが多かったということで、ごく近しい民族であったということを表しているといえます。

ただ、この2つの集団は元々はごく近しい関係であったのでしょうが、満州平原で別れた後、再び日本列島で再会することが出来たかというと、それはごく一部を除いてはあまり再会は叶わず、多くはお互いに同じ列島に移住してきたということすら想像もしなかったことでしょう。
それは何故なのかというと、日本アルプスがあったからです。樺太陸橋を渡って北海道、そしてこれも陸続きであった東北、関東、中部地方へと広がってきた新モンゴロイド狩猟民たちも、対馬陸橋を渡って九州、陸続きだった四国、中国、近畿、中部地方へと広がってきた新モンゴロイド狩猟民たちも、この頃は既に存在していた飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈という日本海側から太平洋側まで屹立する三千メートル級の壁によってその移動を阻まれたのです。
この日本アルプスを挟んではあまりにも移動が困難であるために、日本アルプスの東に沿って南北に走り東北日本と西南日本を二分する糸魚川静岡構造線を挟んで西と東とでは動物の種類や植物の植生までが違うのです。動植物でさえ移動できないわけですから、古代においては人間もまた移動は出来ないのであり、樺太陸橋を渡ってきた新モンゴロイド集団は糸静線の東の東北日本に留まり続け、逆に対馬陸橋を渡ってきた新モンゴロイド集団は糸静線の西の西南日本に留まり続けることになったのです。
そうなると、東北日本と西南日本とではそもそも動植物の生態系すら違うわけで、つまりは環境が全く違うわけですから、そこに暮らす人間もまた、長い年月の間に環境に適応して変化していき、おそらく元々は東北日本の新モンゴロイドも西南日本の新モンゴロイドも似たようなものだったのでしょうけれども、いつしか全く違う民族集団となっていったのだと思います。

東北日本と西南日本の縄文時代中期における人口比は一説によると25対1というほど大きな開きを持っていたそうで、それは極端な説であるとしても、とにかく東北日本のほうが圧倒的に人口が多かったのは間違いないことのようです。おそらくもともと樺太陸橋を渡ってきた新モンゴロイドのほうが人数が多かったのだと思いますが、それが更に東北日本では増え、西南日本ではさほど増えなかったのは自然相の違いにも原因があるのでしょう。
東北日本は西南日本に比べて山岳地帯が豊富で、その植生は落葉広葉樹林帯で、山岳地帯にはブナやナラ、クリ、クルミの森が広がっており、極めて多彩な堅果類の採集が可能でありました。また冬になると葉の落ちる落葉樹の山林は肥沃な土壌を形成し、山地においてはユリネやヤマイモなどの根茎類も豊富に自生しており、更に東北日本の山野を流れる河川にはサケやマスのような大型魚が川を上ってくるのであり、また河川には貝類も非常に豊富で、これらの山の幸や川の幸を餌とするクマやイノシシ、シカ、カモ、キジなどの山岳地帯に生息する動物も種類も数も豊富で、しかもこれらは東北日本においては大型化する傾向にありました。これらの動植物を狩猟採集する東北日本の新モンゴロイド狩猟民たちはほとんど食料不足に苦しめられることもなく順調に増え続けていったのです。
これに比べ西南日本の植生は常緑広葉樹林帯で、カシやシイやクスが多く、またスギ林も多く、さほど豊富な堅果類が採集できるわけではありませんし、あまり落ち葉が多くないので土壌も肥沃ではありません。河川にはサケもマスもいませんし、山岳地帯が広大でないので動物の数も東北日本ほど豊富というわけにはいきません。そういった不足がちな食料を何とか遣り繰りしていた西南日本の新モンゴロイド狩猟民たちはあまり増えなかったのでしょう。まぁそういう状況であるから後に農耕を受け入れやすい状況であったのだといえるでしょう。
このように東北日本と西南日本とでは自然環境が全く違うわけで、それによって人口格差が広がったのですが、同時にその文化も互いに全く違うものとなっていき、まるで違う民族集団のようになっていったのです。

そういう状態の西南日本と東北日本に今度は南洋や東南アジア方面から黒潮と対馬海流に乗って旧モンゴロイド海洋民がやって来たのですが、海洋民もやはり陸地が見えたら早めに上陸したくなるのが人情というもので、どうしても南洋系ならば九州、四国方面、東南アジア系ならば九州、山陰方面への上陸者、すなわち西南日本への入植者が多くなり、東北日本に入植するのはどうしても少数派になります。ただでさえそういう傾向があるのに、更に太平洋岸の場合は東北日本へ行く航路は危険で遠回りになるので敬遠されがちになり、ますます東北日本へ行く旧モンゴロイド海洋民の総数は減ることになります。
しかし、もともと新モンゴロイドの人数は西南日本が少なく東北日本が多いわけですから、そこに旧モンゴロイドが西南日本に多く東北日本に少なく移住すれば、新旧モンゴロイドの混血度は西南日本では高くなり、東北日本では低くなります。こうして形成された西南日本と東北日本の日本民族はそれぞれ、ますますその民族的な差異を大きくしていったのでした。
実際はこれは相当単純化した説明であって、東北日本方面へは他にも千島方面や小笠原方面からの移住ルートがあったようですし、西南日本へも日本海横断ルートや南西諸島ルートなどの移住ルートもあり、また弥生時代以降は主に西南日本へはシナ大陸や朝鮮半島からの渡来人の移住もかなりあったと思われます。
ただ、弥生時代になってから国家や共同体を形成するようになった西南日本の住人の目から見て、糸静線、つまり上越地方を流れる糸魚川や木曽地方の向こうの諏訪湖などのラインよりも東に住んでいる人々を見た場合、既に自分たちとは相当に異質な存在であると意識するまでにその差異は広がっていたことは間違いないでしょう。そういう東北日本の住人を指して西南日本の住人たちは「蝦夷」と呼んだのだと思います。

そう考えると7世紀における律令制初期の頃の令制国としての「越の国」の領域というのは「蝦夷」の領域である東北日本とはほとんど重ならないのですが、そもそも「越の国」という概念のもともとの領域は「琵琶湖より東北方面の辺境地の全て」という漠然としたものですから、それはほとんど「蝦夷」の領域であると見なしていいと思います。
そういうわけで、本来は地理的には西南日本に属する越前、越中方面なども「越の国」であり「蝦夷」の住む地域と見なされたのであり、後にこのあたりが大和王権の支配下に入った以降には、このあたりは大和王権の支配地の一地方としての「越」という名を与えられ、従順な蝦夷、すなわち「熟蝦夷」の住む地とされたのです。
そしてその後は大和王権支配地としての「越」の領域が東北方向に拡大していき、そのたびに元来は「越の国」に住んでいた「麁蝦夷」が「越」の住人である「熟蝦夷」に編入されていったのです。もともと「熟蝦夷」も「麁蝦夷」も、基本的には根っこの同じ新モンゴロイドと旧モンゴロイドの混血によって形成された集団で、互いの文化が違っていただけですから、共に大和王権の文化を受容してみると、見かけ上はあまり差異が無くなり、いつしか麁蝦夷も同化していくことになったのでした。

ここから考察していきたいのは、そうした大和王権に従順になった「越」の時代ではなく、それよりも遥か昔、「越の国」という言葉が「琵琶湖より東北方面の辺境地の全て」という意味合いであった弥生時代におけるこの地域の有様についてであり、そこからどのようにして大和王権の影響を受けていくようになったのかについても考察していければとも思います。
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