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日本史についての雑文その236 気比大神
ここで注意しなければならないのは、「越の国」というのは畿内側から見た他称であり、特定の地域を指した地域名ですらなく、単に近江の北の国境を越えた向こう側全般というような漠然とした概念であるということです。
つまり、例えば「吉備国」や「木の国」などはもちろん厳密な意味での「国家」といえるようなものではないのですが、それでも幾つかの連絡し合った河川流域の集合体という意味で、何らかの共通文化を持った地域共同体という括り方は出来る地域概念であり固有名詞であったのですが、この「越の国」というのは普通名詞であり、そういう名でまとめて呼べるような巨大国家があったわけでもなく、何らかの統一性のある共同体があったわけではないのです。

「越の国」は、出雲系や東南アジア系といえるような大きな括りでは確かに共通の基盤が有していたのですが、実態としては紀元前100年以降ぐらいから「越の国」内部のそれぞれの地域ごとにバラバラの地域共同体が存在しており、それら同士はお互いに異質な共同体であることを意識し合っていたのであり、それを畿内側から見て勝手に一括りにしていただけであろうという状況であったと思われます。
そして、この古代の辺境時代の「越の国」というのは現在の「裏日本」というイメージではなく、海路交通も盛んな非常に豊かな先進地帯であったということも忘れないようにしたほうがいいでしょう。

そうした「琵琶湖より東北方面の辺境地の全て」である「越の国」の西端に位置した地域共同体が敦賀でした。対馬海流に乗ってきた東南アジア系海洋民が丹後半島先端の経ヶ岬をやり過ごして次に上陸の目印とするポイントは越前岬ですが、そこから海岸線を真っ直ぐ南下していくと西方に南から北へ伸びる敦賀半島が出現し、本州と敦賀半島に囲まれた敦賀湾に入り、その最南部にして最奥部が敦賀港になります。この敦賀半島より東が「越の国」となります。
敦賀は日本海側の港のうちで、いや日本中の全ての海港のうちででもなのですが、西日本の内陸水路の要である琵琶湖に最も近い港です。敦賀港に注ぐ笙の川を遡ると敦賀南部の山中で琵琶湖へ注ぐ何本かの短い河川に乗り換えることが可能であり、つまり敦賀は北陸地方にある「越の国」内の東南アジア系海洋民の諸国や諸共同体にとって西国と交易するための橋頭堡のような重要な地であったのです。
もちろん敦賀は琵琶湖に最も近い港ですから越地方の諸国だけでなく西方の出雲国にとっても重要な畿内との交易のための拠点であったのですが、出雲国の場合は他にも敦賀と代替可能な畿内方面や瀬戸内海方面へ繋がる内陸水路ルートを持っていましたが、北陸方面からは西国へ繋がる目ぼしい内陸水路というものは無く、どうしても敦賀港を使った海路への依存度が高くなります。唯一、内陸水路もあるにはあるのですが、それもこの敦賀エリアを通過するのであって、結局、越諸国にとっての敦賀の重要度は出雲国におけるそれとは比べ物にならないくらい大きいものだったのです。
また、越諸国にとって敦賀は山陰の大国であった出雲国との日本海交易の重要な中継点でもありました。越と出雲の関係というのは、出雲神話でスサノヲに退治される悪役であるヤマタノオロチが「高志(越)」からやって来るとされているように、スサノヲに象徴される太古の時代においては敵対的な存在であったようですが、オオアナムチに象徴される国作りの時代、すなわち弥生時代においては友好的関係となっていたようです。それは北陸地方に出雲系に関連する伝承が多く残されているからです。

そういう重要な地でありましたから、この敦賀の地では古くから東南アジア系海洋民によって海神や航海神の祭祀が行われ、それが敦賀港の近くにある越前国一宮の気比神宮の祭祀の原初の形となったと思われます。
気比神宮の祭神は気比大神といい、社伝によれば神代の昔から当地に鎮座しているとされ、大和王権などよりも起源は古い日本最古の部類に入るような祭祀の古さがあるといえます。この敦賀の地はそれから長い間、東南アジア系海洋民の交易港として栄えたと思われ、日本海航路もその間ずっと東南アジア系海洋民のものでした。
この敦賀の地に大和王権の勢力が及んできたのは4世紀前半のことでしょう。奈良盆地から北へ進出してきた海人氏の支族である息長氏が近江国で日本海方面に勢力を持つ土着の東南アジア系海洋民氏族と縁戚関係を結び、そこで両者の間に生まれた後継者がオキナガタラシヒメで、このオキナガタラシヒメがヤマトタケルの子であったタラシナカツヒコ大王の妻となり敦賀の気比神宮に参宮したのが4世紀半ばのことになります。
これはつまり、大和王権が敦賀の気比大神の祭祀に加わったということであり、大和王権の勢力が敦賀の地に及んだということでしょう。この後すぐに熊襲征伐、そしてそれが三韓征伐に転じていくという流れを考えると、どうやらこの時期においては日本海側の東南アジア系海洋民勢力は朝鮮半島と緊張関係にあったようです。

日本列島の北岸を根拠地とした東南アジア系海洋民は元来から朝鮮半島とは密接な関係にあったようです。そもそもこのオキナガタラシヒメの母方の東南アジア系氏族の先祖はタジマモリであり、この人はイクメイリヒコ大王の命令で朝鮮半島に行って一年中咲く花を探したりしていますし、このタジマモリの先祖は新羅の王子で日本に帰化した天日槍であるとされます。また、この敦賀の地にはツヌガアラシトという大加羅国王の子がミマキイリヒコ大王時代に帰化したがイクメイリヒコ大王時代に朝鮮半島に帰り国王となったという伝承もあります。
新羅というのは辰韓から生じ、加羅は弁韓から生じ、辰韓も弁韓も民族的にはほぼ同一だったので日本列島の倭人から見ればこれらの地域は国家成立前はまぁ同じようなものでしょう。新羅の正式な建国は356年といわれますが、それ以前は辰韓も弁韓も含めて一緒くたのようなもので、この地域にはだいたい朴氏、昔氏、金氏の3つの有力な王族がいて、王位を持ち回りしていたようで、つまり混沌としていたわけですが、その3つの王族のうち、昔氏は先祖が倭人であるとされ、朴氏の重臣の一族は倭人でした。
このように、どうやら新羅や加羅の地域には古くから倭人、つまり日本列島北岸の東南アジア系海洋民の勢力が強く、朝鮮半島南西部に何らかの利権を持っていたようなのです。そしてこの4世紀半ばぐらいというのはシナ大陸が五胡の侵入によって大混乱に陥り、朝鮮半島にもその影響が及んでいたところに更に北方から高句麗が侵入してきて、そうした激動の中で新羅の王族間の利権争いを倭国勢力も巻き込んで激しくなり、倭国と新羅との間で抜き差しならない対立が生じてきたようなのです。

そこで東南アジア系海洋民勢力の倭人たちは新羅の王族を討つことにしたのですが、その際に後ろ盾として畿内や瀬戸内海、東国において大国として成長著しい大和王権と本格的に同盟することにしたのです。あるいは最低でも新羅を攻めている間に背後から大和王権に攻撃されることや、大和王権が朝鮮半島勢力と手を組むことは避けたかったのかもしれません。同盟の条件としては、まぁ色々あったのでしょうけど、おそらく大和王権による熊襲征伐への加勢なども含まれていたのでしょう。
そうした同盟交渉において大和王権側は、もともと東南アジア系海洋民氏族に近い関係にあったオキナガタラシヒメが担当し窓口となったのでしょう。そして同盟の証としてオキナガタラシヒメが敦賀の気比神宮に参り、大和王権においても東南アジア系の海神を祀ることを宣言したのでしょう。
その後、新羅を討ち、倭国は朝鮮半島での利権を確保したようですが、結局この後、新羅では356年に王朝が金氏に一本化されることになるのです。そして三韓征伐を経て大和王権も日本海航路に参画するようになり、敦賀を根拠地として「越の国」方面へ本格的に進出していく足がかりを掴んだのです。そしてオキナガタラシヒメは再び王子ホムタを連れて気比神宮へ参り、ホムタと気比大神の名を交換したといいます。いや厳密に言えば、もともとホムタは気比大神の名で、オキナガタラシヒメの王子の名はイザサワケといったのですが、この時に名を交換してイザサワケが気比大神の名になり、王子の名前はホムタになったというのです。
まぁこれは要するに敦賀の東南アジア系海洋民が祭祀していた気比大神という首長霊をホムタ王子(つまり後のホムタ大王)が継承して、敦賀が大和王権の勢力下に参加したということを意味しているのですが、それが名の交換という形で伝承されていたので、こういう伝承が生じたのでしょう。

こうして敦賀を拠点として4世紀半ば以降、大和王権は琵琶湖から日本海へ進出していくことになるのですが、敦賀からの日本海航路となると、まずは敦賀から北上して越前岬を経て、更に北上して次の目印は越前国北端の東尋坊となります。この東尋坊のすぐ南に古代の有名な港である三国湊があります。その内陸は現在は福井平野ですが、古代においては平野部分は大きく内湾を形成しており、九頭竜川、足羽川、日野川の下流が流れ込む干潟地帯が湾内に広がっていました。
そして、この日本海側の場合、瀬戸内海よりは外洋に接する部の波当たりが強いので、湾の外洋に接する部には砂礫が運ばれてきて砂浜が形成されやすく、それによってますます湾の出口が狭くなり内側に水が溜まりやすくなり、「潟湖」という浅い湖が広がるというパターンが多くなりますが、この福井平野もその典型的パターンで、干潟地帯内に潟湖を形成していました。この潟湖に九頭竜川、足羽川、日野川が注ぐわけですから、上流部に大雨など降るとすぐに下流の潟湖の水があふれて洪水を起こしてしまうのです。
この福井平野の干潟地帯を開拓したといわれているのがオオド王で、つまり6世紀初頭にオオド大王(継体天皇)として即位する人ですが、この人は5世紀末の時点では越前の開拓を行っていた王族だったのです。オハツセワカサザキ大王の死によって男系の直系王族が途絶えてオオドにお鉢が回ってきたのですが、オオドも当初はそんなことも予想せずに越前の開拓をして一生を終えるつもりでいたことでしょう。
オオドの行ったといわれる事業は福井平野の干潟地帯の治水と干拓でした。まずオオドは干潟地帯の南部にある現在の福井県庁のすぐ南西にある標高116m.の小高い山である足羽山に社殿を設けて地霊である大宮地之霊を祀り、その守護を恃み、その上で潟湖の出口を広げて水を外洋に逃がすようにして、九頭竜川と足羽川、日野川の流路を確定させて潟湖を干拓し、干潟地帯を平野として豊かな土地にして、その後、九頭竜川の河口付近に三国湊を開いて交易を盛んにしたといいます。
この足羽山の祭祀が後に足羽神社になり、祭神は継体天皇と大宮地之霊とされていますが、オオドが大宮地之霊を祀ったのが始まりなのですから本来の祭神は大宮地之霊であり、この神はおそらくこの地の守護神として古来から信仰されていた神で、対馬海流に乗ってやって来た東南アジア系海洋民の氏族の祖霊だったのでしょう。それがこの地の民の守護神として祀られていたので、大和王権から派遣されてきたオオドもそれを祀り、土着の人達と一緒に開拓の成功を祈ったのでしょう。
この足羽山は福井平野の干潟地帯の東南端にあたり、オオドはこの山を拠点にして治水干拓事業を進めたのでしょう。この山は干潟地帯に流れ込む足羽川の河口の近くにあり、この足羽川を少し遡ると一乗谷で、戦国時代に朝倉氏が大規模な城郭都市を構えて本拠地として栄えた天然の要害です。あるいはオオドも一時はここを根拠地にしていたのかもしれません。

そもそも何故オオドがこの越前にいて、福井平野の開拓を行っていたのかというと、オオドがホムタの5世孫だったからです。ホムタは先述のように4世紀半ばの時点で越前国一宮の気比大神という首長霊を継承したわけで、いわば越前王になったわけです。ホムタはその後、大和王権の大王位も継承し、その地位は息子のオオサザキ以降に受け継がれていくのですが、ホムタの受け継いだ越前の首長霊もまたホムタの越前における子孫にも受け継がれ、代々にわたって越前王を継いでいったのでしょう。その5代目の越前王が5世紀末のオオドであったのでしょう。だから越前国の開拓はオオド一族の代々の宿願であり義務であったのです。
オオドもまたホムタと同じく代々その気比大神の首長霊を受け継ぎ、その祭祀を行う者であり、となると、この正体不明の、おそらくは東南アジア系海洋民の祖霊であろう気比大神とは、オオドが足羽山で祀った越前の守護神である大宮地之霊と同一神なのではないでしょうか。
また、このオオドが行ったとされる治水と干拓の事業はあまりに大規模であり、オオド一代では到底為し得なかったと思われ、こうした治水や干拓という事業は記紀を見る限りでは朝鮮半島に進出して大陸の新技術を盛んに導入するようになったホムタやオオサザキの時代以降に各地で盛んに行われるようになっていますので、おそらくこの福井平野の開拓も実際はホムタやその子の越前王の代から着手されたのであり、代々受け継がれた事業であったのでしょう。
その成果が上がったのがオオドの時代であったのか、あるいはオオド以降の時代まで事業は継続したが後世になってオオドの事跡としてまとめられたのか、いずれにしても、このような伝承がまとめられた飛鳥時代や奈良時代においてこの系譜で最も有名人であったオオドの事跡としてまとめられたのでしょう。

この福井平野の干潟地帯に注いでいた河川は北から順に九頭竜川、足羽川、日野川ですが、九頭竜川が最も長大な河川で、九頭竜川を遡っていくと越前国の北部を通って東部へ行き、勝山盆地や大野盆地を通過します。これらの盆地は水田稲作が盛んで、ホムタ一族による福井平野開拓以前は土着の東南アジア系氏族はこれら盆地を拠点にしていたと思われます。
それらの盆地を通って越前国東部を南下した九頭竜川は、越前国の東南端の、両白山地の東西方向の山稜と南北方向の山稜の中間の蝶番のような繋ぎ目の隙間にある油坂峠の水源に至ります。この油坂峠を越えて美濃国に入ると、白鳥で長良川の上流部に乗り換えることが出来、濃尾平野方面に下っていくことが出来ます。あるいは長良川の最上流部で庄川に乗り換えて富山湾へ出ることも出来ます。
足羽川は越前国南部の美濃国との境にある、両白山地の東西山稜にある冠山を水源として越前国の中央部の山岳地帯を北へ流れて、一乗谷を通って福井平野の干潟地帯に注ぐ河川でした。
そして日野川は越前国の南西部の両白山地の西端の栃ノ木峠に水源を有して、そこから北上して広大な鯖武盆地を通過してから福井平野の干潟地帯に注いでいましたが、栃ノ木峠を越えて近江国に入ると高時川の最上流部に乗り換えることが可能で、また栃ノ木峠から少し徒歩で南下すると椿坂峠で余呉川に乗り換えることも出来、いずれの河川を下っても琵琶湖北東岸の湿地帯に注ぎ、宇治川水系に繋がります。ちなみに高時川の支流の杉野川を遡っていくと近江国と美濃国の境の三草峠で三草川に乗り換え、三草川は揖斐川に合流して伊勢湾に注ぐことが出来ます。

つまり、近江国の北部からは栃ノ木峠経由で日野川に乗り換えて福井平野方面へ内陸水路で移動することが出来るということになります。近江国の北部はオキナガタラシヒメの勢力圏であり、その子のホムタもその勢力圏は引き継いだでしょう。そしてオオドの越前開拓伝承では最初に福井平野の干潟地帯の南部の足羽山に拠点を築いて干潟地帯を治水干拓して平野にしてから北へ進出して平野北方に福井港を築いたという順番になっているわけですから、ホムタ一族の越前進出は海側からではなく山側から進められたことになります。つまり海路で越前に入ったのではなく、内陸水路で進出したのです。
そうなると近江国北部のホムタ一族の本拠地から越前国へ入って福井平野方面へ向かう内陸水路というと日野川しかないわけで、ホムタ一族は敦賀の東の栃ノ木峠を北に越えて越前国に入って、日野川の流れに乗って進出していったのです。
そうなると途中で通るのが鯖武盆地ですが、ここは古来より水田稲作が盛んで、福井平野は干潟地帯で、オオドらの開発後も九頭竜川がたびたび決壊して基本的には低湿地帯でしたから、古代においては実質的には鯖武盆地が越前国の中心でありました。
だから、古来から越前国に居住していた東南アジア系氏族は鯖武盆地を主要な根拠地、つまり「山都」にしていたのであり、新たに越前の首長霊を継承したホムタ一族は日野川を下って、まずこの鯖武盆地の東南アジア系氏族と共に共同体を作り、協力して鯖武盆地、そして更に日野川を下って福井平野の干潟地帯の開拓を進めていったのだと思われます。
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