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日本史についての雑文その237 加賀と能登
福井平野の北端は現在は九頭竜川の河口部となっていて福井港、つまり古代の三国湊があり、その北が東尋坊となっています。太古の縄文時代において対馬海流から越前岬や東尋坊へやって来た東南アジア系海洋民の中にはそこから更に海岸線沿いに北へ向かう集団もいたでしょう。
東尋坊の北にある加佐ノ岬の北には古代においては海岸線に細長く干潟地帯が続いていました。後に加賀国として分割される地域の海岸線はほぼ全域がこの干潟地帯であったということになります。この干潟地帯というのが後に江戸時代に干拓されて金沢平野となるのですが、ここには現在の小松市や白山市、金沢市の市街地が含まれ、南から梯川、手取川、犀川、浅野川が両白山地を水源として注いでおり、やはりここも福井平野と同じように古代においては外洋に接した部には砂浜を形成して干潟地帯の内側には多数の潟湖が存在しておりました。

この金沢平野の干潟地帯へやって来た東南アジア系氏族たちは干潟地帯に注ぐ諸々の河川を遡って少し高くなったところの流域の土地に共同体を作って生活し、紀元前250年以降は水田稲作も盛んに行うようになりました。この干潟地帯は潟湖を抱えていたので上部のほうは水分は豊富で水田稲作に向いていたからです。
ただ、沿岸部のほうの干潟地帯はそのまま潟湖などが放置されたままであったので江戸時代以前はそれほど生産性の高い土地ではなかったようですが、安土桃山時代に前田家が領有するようになって以降は金沢平野の干拓によって極めて生産性が上がり、加賀百万石の基盤地域となったのです。

この日本海に面した加賀地域一帯の南北に細長い金沢平野の干潟地帯の何処からでも仰ぎ見ることが出来たのが標高2702m.の白山でした。日本三霊峰といえば白山、立山、富士山ですが、富士山は別格として、白山や立山より標高の高い山は他に幾つもあるのに、どうしてそれらの山よりも白山や立山のほうが古代から広く信仰されていたのかというと、この三霊峰は全て平野部や湾内、ないしは広大な干潟地帯を往来する多数の海洋民によって常に仰ぎ見られていたという共通の特徴を持っていたからです。
つまり、これらの2500m.超級の霊峰は「登る山」ではなく、あくまで「見る山」なのであり、いくら標高が高くても、あまりに奥地にあって海岸線の干潟地帯からは見えなかったり、見えたとしても他の山々と稜線が同一化してしまって独立した山容を認識出来なかったりした場合は、あまり広く信仰されるということはなかったようです。
例えば富士山であれば静岡平野の干潟地帯から仰ぎ見ることが出来たし、立山の場合は富山平野や富山湾がそれに当たりました。そして白山の場合もこの金沢平野の干潟地帯から東南アジア系海洋民によって仰ぎ見られて信仰されたのです。

特に手取川はこの白山の山頂付近に水源を持つ河川でしたから、金沢平野の干潟地帯から両白山地の山岳部に差し掛かる手取川沿いの地点に白山を信仰する神社が作られました。これが現在の白山市北部の三宮町にある加賀国一宮の白山比神社です。祭神は菊理姫であるとも白山比神であるともされていますが、元来は白山に対する古くからの山岳信仰の神社です。
ただ、これは「三宮」という町名が表すように、この神社は本来の一宮ではありません。これは本当の白山比神社の末社に過ぎず、真の白山比神社は、手取川を更に最上流まで遡った水源の上、白山の山頂の御前峰にある現在の白山奥宮だったようです。
ただ、白山山頂はとにかく標高2702m.であり、何時でも誰でも行けるというような場所ではなく、また手取川も日本有数の急勾配の激流でしたから遡るのも大変で、とにかく白山山頂部は基本的に神域でしたから神社でいえばここは神が鎮座する本殿で、白山そのものがご神体のようなものですから別にもう少し人の行ける場所で白山が見える場所に拝殿が必要になります。そこで手取峡谷を遡った上流部で手取川に注ぐ支流の尾添川を少し遡った白山の北山麓の地点にあった中宮が白山を遥拝する拝殿の役割を果たしていたようです。他にも白山の北側には様々な社殿が作られていたようなのですが、15世紀の大火でこれらが全て焼失してしまい、それ以後、従来の三宮の位置に白山比神社が移転してきたそうです。

この手取川をはじめとして、金沢平野の干潟地帯に注ぐ河川は全部、両白山地の南北山稜に水源を持ちますが、両白山地が非常に険しいのでその最上流部から他の河川に乗り換えて裏側の飛騨国や越中国方面へ連絡するのは困難です。
ただ、干潟地帯の最北部の金沢方面に注ぐ浅野川の上流部あたりになると両白山地も最北端部となり低くなってくるので、両白山地の最北部にある医王山の南山麓の加賀国と越中国の境で浅野川の最上流部は小矢部川の上流に乗り換えることが出来ます。小矢部川はそのまま北上して富山湾に注ぎますので、後に金沢は豊かな穀倉地帯であった富山平野に直結することになり金沢平野の中心都市、北陸最大の都市となり、江戸時代には江戸、大坂、京都に次ぐ日本四位の人口を誇ることになるのですが、それは後の話で、近世以前は大部分は単なる干潟地帯でした。
むしろ古代から金沢平野方面から富山平野方面への連絡路として有名であるのは、古代においては金沢平野の干潟地帯の最北端部、金沢の北の津幡町に注いでいた津幡川の上流部と小矢部川の支流を連絡していた、加賀国と越中国の境の栃波山の北にあった倶利伽羅峠でしょう。ここは源平争乱の時代には越中方面から侵入した源義仲軍が平家軍に大勝した倶利伽羅峠の戦いで名高い場所です。

金沢平野の干潟地帯の北端、津幡川の河口部から北にいくと、そこから先は能登半島エリアとなります。しばらく海岸線沿いに北へ向かうと、日本海の波が運んできた砂礫が堆積して形成された千里浜が続き、そして千里浜の北に注ぐ羽咋川の下流が形成する小さめの干潟地帯があり、その北には滝崎という岬があり、この滝崎の南側の海岸に能登国一宮の気多大社(けたたいしゃ)がありました。
この気多大社の祭神はオオアナムチで、社伝によればオオアナムチが出雲から舟に乗って能登に来て、国土を開拓した後にこの地に守護神として鎮まったとされています。この気多大社のある羽咋の地は能登半島の西岸の南部にあたり、能登半島は日本海に大きく突き出しているために実際に西岸には対馬海流に乗ってきた山陰地方や朝鮮半島からの漂着物が多いのであり、オオアナムチを信仰する出雲系の海洋民氏族が出雲からこの地へ舟でやって来るというのはあり得そうな話ではあります。
また、この羽咋の北方にある能登半島中部の西岸の福崎港は8?9世紀には渤海使の到着港となっており、朝鮮半島北部から海に出ると流れ着く場所でもあります。今でも北朝鮮から変なモノが流れ着いたりします。
まぁこの羽咋の地にオオアナムチの舟が着いたとは気多大社の社伝も言っていないわけで、能登半島のもっと北方に着いたのかもしれません。ただ出雲から舟が着いたとすれば普通に考えればおそらく半島の西岸であったろうし、着いた後で国土の開拓を行ったというのなら、いずれにせよこの気多大社の南の羽咋川の河口部へやって来ることになったはずです。
何故なら、能登半島の北部は丘陵地帯で、あまり開拓するような土地ではなく、能登国で開拓するような対象となる土地というのは、この羽咋から北東に進んで能登半島東岸の七尾に至る平地のラインのみということになるからです。

この七尾というのは能登半島の東岸の中央部に大きく湾入する七尾湾の南岸にある港町です。七尾湾は中心部に能登島という大きな島が浮かび、それによって北湾、西湾、南湾に分けられ、内部に多数の小島と複雑なリアス式海岸を備えた天然の良港で、この中の南湾の南部に七尾港があります。
この七尾港の中心地に気多本宮といわれる神社があります。正式には能登生国玉比古神社といいまして、祭神はオオアナムチで、社伝によればオオアナムチが出雲からこの地に上陸し、この国の鹿島路の湖水に住む毒蛇が人々を苦しめていたので退治して、その後、羽咋郡の竹津浦に垂迹したといいます。つまり、羽咋にある気多大社はこの能登生国玉比古神社から分社したもので、こちらの七尾のほうが本社であるという意味で「気多本宮」というのだそうです。

七尾湾に注ぐ川で御幣川という川があり、この川がこの能登生国玉比古神社の傍を流れているのですが、この御幣川を南西方向へ遡っていくと能登半島南部にある最高峰の石動山の北麓に達し、ここから少し南西に歩くと鹿島郡という地に着きます。この地は七尾湾の西湾に注ぐ二ノ宮川の上流部と、能登半島西岸に注ぐ羽咋川の上流部が錯綜して低湿地帯を作っており、湖水の多い地でした。
この二ノ宮川の上流沿いで石動山の西麓の中能登町二宮に天日陰比神社があります。この神社はもともとは石動山の山頂にあった伊須流支比古神社の下社で、祭神は屋船久久能智命といって、これは木の神なので元来は石動山を祀る山岳信仰の神社だったのでしょうけれど、ここの相殿にオオアナムチが祀られており、しかもここの相殿が近くにあった天日陰比神社を祀っているので現在は天日陰比神が主祭神となり、それゆえ天日陰比神社というのだそうです。
何やらややこしいのですが、同じ中能登町の西馬場に同じ名前の天日陰比神社があり、こちらの祭神は水波能賣命で、これは水神です。思うに、こちらの系統が本来の天日陰比神社であり、これが二宮の地にもあり、これを伊須流支比古神社の下社に合祀したのでしょう。そしてこの西馬場の天日陰比神社には更に高龗神と闇龗神が配祀されており、これは丹生川上神社のところでも出てきましたが、これは龍や蛇に象徴される出雲文化圏の水神です。
つまりこの鹿島の地に龍や蛇に象徴される出雲系の水神を祀った神社があり、その神社がオオアナムチも祀っていたということになります。この鹿島の地は湿地帯で人々は水害で苦しんでいたのでしょう。水神は龗神、つまり龍神や蛇神の姿で表されますから、水害が「毒蛇が人々を苦しめていた」という表現となったのであり、七尾からこの地に進出してきたオオアナムチを信仰する出雲系氏族が治水によって水害を治めたことが「オオアナムチが毒蛇を退治した」ということになったのでしょう。それで二宮の天日陰比神社ではオオアナムチも相殿に祀られるようになったのでしょう。

つまり、七尾の気多本宮の社伝にあるように、この鹿島の地にも出雲系氏族は進出したということになります。そしてこの二宮や西馬場の天日陰比神社は羽咋川の上流部にあり、ここから羽咋川を下ると羽咋市で能登半島西岸に達し日本海に注ぎ、その河口付近の干潟地帯の北部には気多大社があるのです。そうなると、やはり気多本宮の社伝にあるように出雲系氏族は七尾から鹿島を経て羽咋に進出したということになるのかもしれません。
気多大社の由来を伝える特殊祭事である平国祭は「おいで祭」とも言い、宮司や神職が正装して行列を作り、羽咋の気多大社を出発し鹿島郡を経て七尾の気多本宮へ行き、そしてまた同じルートで戻ってくるのですが、これは七尾の本宮にオオアナムチの神を迎えに行くという神事です。こういう神事が気多大社にも伝わっているということは、やはり気多本宮のほうが元社だということなのでしょう。
そもそも気多大社の社伝においても、祭神のオオアナムチが羽咋の地に舟でやって来たとは言っておらず、能登国の開拓をした後で羽咋の地に鎮座したと言っているのみであり、能登国で羽咋以外で開拓の余地のある土地が七尾から羽咋へ至る低地地帯であったとするならば、オオアナムチが羽咋にやって来る前に開拓した国土とはそのラインに他ならず、そのラインの出発点は七尾港以外にはあり得ないのです。

おそらく対馬海流に乗って北陸方面へやって来た出雲系の海洋民は、何らかの経緯を経て能登半島の何処かには辿り着いたのでしょう。能登半島一帯は水産資源が豊富で、しかも半島北部は岩礁海岸が多く天然の良港を備えていたので海洋民には魅力的な土地で、それらの岩礁部を拠点にして漁労活動を営むようになっていきました。そうして出雲系海洋民は能登半島沿岸一帯に活動範囲を広げていき、特に東側にある富山湾の水産資源が極めて豊富であるため、能登半島東岸や富山湾方面に多く進出してきました。
この海域の中で、いや北陸の海岸の中で最も多くの天然の良港を備えた入り組んだ岩礁海岸地形を有し、海洋民の根拠地として最も優れていたのが七尾湾であったので、自然に七尾湾が出雲系海洋民の本拠地となっていったのでした。
だから、この七尾こそがオオアナムチを信仰する出雲系海洋民の北陸における本拠地であり、ここから能登半島内陸部の開発が進められ、それが能登半島西岸の羽咋にまで達したことをもって能登地方の開拓の完了とし、それを記念してそのゴール地点である羽咋の滝崎の南に気多大社が作られたのでしょう。
そして七尾湾を外に出ると、そこはもう富山湾のすぐ北の海域となりますから、七尾からは海岸線を南下して更に富山湾方面へも出雲系海洋民は進出していきました。
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