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日本史についての雑文その238 富山平野
富山湾は極めて特殊な海底地形を有する湾で、海岸線地点で急激に海底に向かって落ち込んでいて水深が極めて深く、しかも海底地形が非常に険しくなっているので、日本海の荒波がそのまま弱められずに海岸にぶつかり、河川の運んできた土砂を持ち去るため、非常に多くの河川が注ぐ湾でありながら干潟地帯がほとんど形成されないのです。
いや、そもそも河口部の海底がいきなり深海に向かって断崖のようになっているので土砂の溜まりようがないのが実際のところで、湾内の各所に岩礁海岸による天然の良港が形成されています。

湾内の大部分が水深300m.以上に及び、温度の低い海洋深層水が存在しているために冷たい海に生息する魚類が繁殖し、また水深が深いために対馬海流が湾内に流れ込み暖流に生息する魚も繁殖しており、海底の複雑な地形の部分では貝や海老が繁殖し、そして湾内に注ぐ多くの河川が豊かな栄養分を供給するため、ますますそれらが繁殖し、極めて水産資源の量や種類が豊富な漁場となっています。それゆえ、富山湾内の天然の良港は漁港として古くから栄え、富山湾は出雲系海洋民の活発に活動する海域となりました。

この富山湾に注ぐ河川は主要なもので小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、早月川、片貝川、黒部川などがあり、富山平野の西部を流れる小矢部川と庄川は古代においては富山平野の南部で合流して射水川となって後は現在の小矢部川下流域の流路を流れていましたが、小矢部川の水源は両白山地北部の大門山の北麓であり、庄川の水源は飛騨高原の鷲ヶ岳の北麓となります。
また、富山平野の中央部を流れる河川は神通川と常願寺川ですが、神通川の水源は飛騨高原の川上岳の北麓で、常願寺川の水源は飛騨山脈の立山の西山腹です。そして富山平野の東部を流れる早月川、片貝川、黒部川の水源はそれぞれ、早月川は飛騨山脈の立山の北山腹、片貝川は飛騨山脈の毛勝山の北山腹、黒部川は飛騨山脈中の黒部峡谷を通って三俣蓮華岳の北山腹であります。
これらの富山平野を流れる河川は全て極めて標高の高い山から深い峡谷の底を急流で流れ落ちてきて富山平野に出てくるので、大量の土砂を平野部に流し込みます。それゆえ山岳部から平野部への出口に複合扇状地を形成し、扇状地の北端となる海岸線近くの平野部は湧水帯をなして小河川が数多く発生し、水田稲作に非常に適した土地となります。また、富山湾の水深が深いため、暖流である対馬海流の海水が富山湾内にも流れ込むので、富山平野は温暖でますます水田稲作にとって有利な環境となり、弥生時代には水田稲作が盛んに行われました。
現代においても富山県は北陸工業地帯の中核地域であり、北陸一の産業地帯ですが、こうして豊かな漁場と穀倉地帯を抱えた越中国の地域は古代においても同様に北陸地方一の産業地帯であり「越の国」の中心地であったのです。

越中国の一宮とされる神社は現在においては4つあり、射水神社、気多神社、高瀬神社、雄山神社となっています。射水神社は富山平野の西部の高岡市の海岸線近くにある二上山をご神体として、この地を開拓した祖神である二上神を祭神としていました。古代においては二上山の麓にあったようです。おそらく、もともとは太古から存在する山岳信仰だったのであり、そこに開拓民の祖神を合祀したのでしょう。
ただ、この射水神社が越中国の一宮となった経緯は複雑で、もともと越の国が分割される以前は越中地域の人々が一宮として崇拝していたのは能登半島西部の羽咋の気多大社であり、また七尾の気多本宮であったのですが、律令制施行後に越中国と能登国が分割されて気多大社や気多本宮が能登国の範囲に入ってしまったために、新たに越中国の一宮が必要になり、それで射水神社が越中国一宮となったのです。おそらく射水神社の祭祀の起源が最も古かったのでしょう。
しかし、新たに出来た越中国では気多大社や気多本宮のオオアナムチ信仰への思慕が強く、そこで気多大社から勧請を受けて二上山の東麓の射水川の河口部の西に新たにオオアナムチとヌナカワヒメを主祭神として気多神社を作って、これも一宮と称するようになったのです。そして、射水神社と気多神社のどちらが一宮にふさわしいか勢力争いがあり、結局、新設の気多神社のほうが勝ったのだそうです。
まぁ、こうした不満も無理からぬことで、もともと越の国の内部に国境線など無かったのに、大和王権が勝手に国境線を引いて能登国だの加賀国だの越中国だの分けて、今まで祭祀していた神を異国に持っていってしまったわけですから、土着の民は不満が募るのも当然でしょう。
つまり、それだけ古代における富山平野の地では能登国の七尾の気多本宮に起源を持つオオアナムチ祭祀が盛んであったということであり、越中国も出雲系氏族によって開拓された土地であるということになります。
そして、このような越中国一宮の古代における決定の経緯を伝えるのが加賀国一宮の白山比神社の社伝であるということからも、金沢平野の干潟地帯の民も越中国の民と近しい関係にあったと推測され、おそらく金沢平野の干潟地帯で活動していた海洋民も出雲系であったと推測されるのです。射水川となって富山湾に注ぐ小矢部川の支流は倶利伽羅峠で津幡川に連絡して金沢平野の干潟地帯の最北端に注ぎますから、このルートを通じて富山湾地域と金沢平野地域は密接に結びついていたと思われます。

平安時代の末に国府が二上山のある射水郡から内陸部の砺波郡に移転した際に一宮とされるようになった高瀬神社も起源の古い神社ですが、この祭神もオオアナムチです。この高瀬神社は南砺市にありますが、この神社の地は古代においては庄川が南の飛騨高原の山岳地帯から出てきて小矢部川に合流するために西へ流れていく流路沿いにあったと思われ、このような越中国の西部の内陸部まで射水川を遡って出雲系氏族の開拓が及んでいたということになります。
一方、残る1つの一宮である雄山神社は越中国の東部にあり富山平野から仰ぎ見ることの出来る霊峰である立山をご神体とした山岳信仰の神社で、立山の山頂に本社がありますが、実際の信仰の拠点は立山連峰の西麓一帯にあったのでしょう。この祭祀自体は古い起源を有するものですが、一宮とされるようになったのは中世以降、立山信仰が全国的に有名になってからのことです。
こうした立山連峰地域への出雲系海洋民の進出は、常願寺川や早月川を遡ってなされていったのでしょう。また、庄川や神通川を遡っていくと飛騨高原にまで至りますが、この地域は森林資源が豊富で、富山湾や七尾湾を拠点として活動する海洋民にとっては舟の原材料や富山平野での共同体の運営のための木材の供給源として不可欠の地域でしたから、庄川と神通川は富山湾と飛騨高原を結ぶ内陸水路として重宝されました。
特に庄川の上流部にある白川郷や神通川の上流部である宮川の最上流部にある高山盆地などは飛騨地域における林業従事者や大工の拠点として利用され、村落共同体が作られました。高山盆地の南を流れる宮川の水源近くで位山の北東には飛騨国一宮である水無神社がありますが、この神社は位山をご神体とする元々は山岳信仰の神社ですが、主祭神は御年大神とされ、これは葛城御歳神社で祀られていたのと同じ神で、出雲系です。飛騨国奥地の宮川の水源部、高山市南部までは富山湾から出雲系氏族が進出していたということでしょう。

庄川は両白山地の東を南へ南へ向かって、飛騨高原内の峡谷部を遡っていき、その最上流部は飛騨国南西部の蛭ヶ野高原で長良川の最上流部に乗り換えられます。また、神通川は飛騨国に遡ると宮川となり、最上流部は高山盆地の南の刈安峠で木曽川の支流の飛騨川の最上流部に乗り換えることが出来ます。長良川や木曽川は濃尾平野に至り伊勢湾に注ぎます。
このように富山平野の「越の国」方面から長良川流域や飛騨川、木曽川流域に出てきて濃尾平野の干潟地帯にまで進出してくる出雲系氏族も紀元前250年以降には存在したものと思われます。
また、神通川に飛騨と越中の境で注ぐ高原川を上流へ遡っていくと神岡町を通って最上流部の平湯温泉に至り、そこで乗鞍岳の北の安房峠を越えれば飛騨山脈を越えて信濃国に入り、梓川の上流部に乗り換えることが出来ます。梓川は糸静線を越えて松本市へ出て犀川となり長野市で千曲川に合流し信濃川となって新潟市で日本海に注ぎます。
しかし、この日本アルプスを越えるルートは非常に険阻であり危険を伴い、冬季には閉ざされるため、あまり使われなかったとは思われます。
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