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日本史についての雑文その239 ヌナカワヒメ
このように「越の国」の中心地帯の富山平野は周辺と繋がっていくのですが、ここで、高岡市の二上山の東麓の海岸線にあった気多神社においてオオアナムチと共に主祭神とされていたヌナカワヒメについて少し考えてみることにします。
ヌナカワヒメは奴奈川姫とも書き、古事記によると「越の国」の女神で、八千矛神の妻でタケミナカタの母にあたるといいます。出雲からヌナカワヒメの評判を聞きつけた八千矛神がやって来て歌を交わして求婚するという話が古事記に記されていますが、この八千矛神というのがオオクニヌシの別名とされていまして、オオクニヌシの別名がオオアナムチですからオオアナムチと八千矛神は同一神ということになり、ヌナカワヒメはオオアナムチの妻ということになります。

いや実際は八千矛神とオオアナムチは本来は別の神であったという説もあるのですが、それはこの際あまり大した問題ではなく、実際に能登や越中の地域においてはオオアナムチ信仰が古くから存在しており、それが越中の気多神社では越の女神と夫婦神として扱われているということです。これらの神社伝承自体が古事記に収録された古い伝承を受けて作られたものであったとしても、八千矛神がもしオオアナムチとは別神であったとしても、八千矛神が出雲からやって来たことには違いないのだし、それが越地方の神社で八千矛神への祭祀にならずにオオアナムチ祭祀という形になっているということは、実際にこれら二神は同一神であるか、少なくとも相当古くから同一視されていたことは確かだということになります。
つまり、出雲からヌナカワヒメへ求婚するために神がやって来たという伝承があるのは確かであり、それはオオアナムチであったと越の国では信じられていたので、越の国ではオオアナムチ祭祀が生じたのです。

古事記では八千矛神はヌナカワヒメと結婚した後、いったん能登に移り、そのあとまた越に戻ったとされていますが、この越というのはだいたい現在の富山湾を中心としたエリアでしょう。すると能登半島の七尾の気多本宮の社伝でオオアナムチが出雲から七尾の地へやって来たということになっていますが、実は七尾に来る前に富山湾地方でヌナカワヒメに求婚していたということになります。
いや、順番はどうでもいいのですが、要するにオオアナムチが越の国へやって来た動機というのは単に開拓をするためであったのではなく、ヌナカワヒメと深い関係を持つことであったということになります。もちろんこれは神話ですから、ここで言う「深い関係」とは男女関係のそれではなく、オオアナムチを祭祀する出雲系氏族とヌナカワヒメを祭祀する現地氏族との何らかの同盟関係、あるいは交易関係を象徴するということになります。
越でヌナカワヒメと結婚して能登に移り、その後また越に戻ったというオオアナムチがその後どうしたのかというと、高瀬神社の社伝では出雲へ帰ったということになっています。まぁもともと出雲の神ですし、帰ったのでしょう。南砺の高瀬神社や七尾や羽咋、高岡の気多神社で祀られているのはオオアナムチが出雲へ帰る際に残していった御魂であるということになります。
結局、オオアナムチは開拓以外の何か別の用件があって越へやって来たのであり、それが達成されたから出雲へ戻ったともいえます。もちろん本当にオオアナムチが来たわけではなく、実際にやって来たのは出雲系氏族の集団であり、彼らのうちの幾らかは現地との交渉が終わった後はオオアナムチのように出雲へ帰っていったのでしょうし、彼らのうちの幾らかはそのまま越の国に残って現地駐在員となり居住地の開拓に精を出したのでしょう。そうした彼らの行動がオオアナムチに擬人化されて伝承となったのでしょう。

すると、この出雲系氏族が越の国へやって来た目的にはヌナカワヒメの正体が関係してくるということになるのですが、ヌナカワヒメを祭祀している神社は富山平野西部の高岡市にある気多神社以外には、新潟県上越市の直江津港の日本海に面した地にある居多神社があります。この居多というのは「こた」と読むのですが、古い史料では「けた」と読むようになっており、気多神社(けたじんじゃ)と同系統の神社だといえます。
この居多神社は越後国一宮を称しており、オオアナムチとヌナカワヒメ、そしてその子であるタケミナカタを祭神としています。ただ、この神社は気多神社の系統ですから、あくまでオオアナムチを祀るのが第一目的の神社であり、ヌナカワヒメはその妻神という扱いになります。しかしこの直江津の地においてもヌナカワヒメに対する信仰は存在していたということは確かで、オオアナムチを祀る出雲系氏族の勢力と同じように、ヌナカワヒメを祀る越の国の氏族の勢力もこの直江津までは及んでいたということでもあります。

直江津は富山湾から海岸線に沿って東へ進んで、飛騨山脈の北端にあたる親不知の沖合を通り過ぎて越後国に入ったその東にあります。親不知より東は糸静線よりも東ということになり、東北日本の領域に入ったということになります。つまり、ここから東は本格的に蝦夷の領域ということになります。
ただ、この直江津の地は米山峠よりも西にあり、いわゆる上越地方であり、後に大和王権が越地方を支配した時に、支配領域としての「越の国」の範囲を最初に定めた時にこの上越地方は糸静線の東側であるにも関わらずその範囲内に含まれていました。それはおそらくこの上越地方が米山峠の東の中越地方や下越地方に比べて開発が進んでいたからであり、また大和王権にとって有益な土地であったからでしょう。そしてそれはおそらく古代の出雲系氏族にとっても同じように有益であったのであろうと思われます。だからこそ、大和王権が北陸に勢力を伸ばしてくるよりも遥か以前、古代出雲が関与していた時代からこの地域は開発が進められていたのでしょうし、そういう下地が無ければ大和王権の時代の開発もスムーズには進まなかったでしょう。
その上越地方の西端の親不知の沖合から海岸線を東へ進むと、日本海に迫る飛騨山脈の北端の山塊が途切れた地点に姫川が日本海に注ぎ、姫川下流にある糸魚川市の沖合を通り過ぎると妙高高原の山塊を右に見て航行し、烏ヶ首岬を越えると妙高高原の山塊が途切れ、直江津港に着きます。直江津港から20km.ほど東に進むと米山峠に至り、その先は中越地方となります。
つまり、直江津は上越地方の東端近くにあり、その地に富山湾にもあったヌナカワヒメ信仰が存在しているということは上越地方全域にヌナカワヒメ信仰が存在していたと推測され、ヌナカワヒメ信仰の存在が上越地方が早くから開発された事情に深く関わっていると見ることも出来るのです。

そのヌナカワヒメが単独で主祭神となっていた神社が糸魚川市にある越後国一宮の天津神社の境内にあった奴奈川神社です。また上越地方には他に奴奈川神社と呼ばれる神社が複数存在し、ヌナカワヒメに対する信仰が上越地方に存在していたのは確かですが、その信仰の起源はこの天津神社の地のようです。
天津神社の祭神はニニギとアメノコヤネ、フトダマであり、大王家と中臣氏、忌部氏という大和王権の祭祀に関係の深い氏族の祖神を祀ってあるということで、いかにも大和王権の支配下に入ってから作られた神社であり、後に飛鳥時代には孝徳天皇の勅願所としても使われたそうです。おそらくはもともとこの地には現在は境内社になっている奴奈川神社の総本社があり、地元の宗教的な中心地であったので、大和王権がこの地を支配するようになった際に越後国一宮に比定されるような重要な神社である天津神社をこの地に持ってきたのでしょう。
天津神社のある地は現在の糸魚川市の中心部で、姫川の河口部のやや東の海岸近くの平らな土地になります。この辺りは古代においては沼川郷といいまして、沼川は「ぬのがわ」と読むそうで「ぬなかわ」と非常に音が近く、古事記ではヌナカワヒメは沼河比売という字で書かれており、この女神はこの沼川の地に住んでいたからヌナカワヒメという名になったのだと思われます。
この沼川の地に住んでいたヌナカワヒメのもとをオオアナムチが訪ねて結婚したということになります。つまり、この沼川の地がヌナカワヒメを信仰する氏族の本拠地であったということになり、そしてこの地に出雲系氏族がやって来て、その現地氏族と同盟や交易に関する交渉をしたのだということになります。

ではその「沼川」という地名の由来は何なのかというと、これは普通に考えれば川の名前でありますが、この地の近くを流れている川は姫川であり沼川ではありません。しかし、この「姫川」という川の名称は、古事記においてこの地を舞台にした物語でヌナカワヒメという姫が登場することに由来してつけられた名のようですから、この物語が成立する以前はこの川は別の名で呼ばれていたはずです。それが「沼川」だったのではないかと思われるのです。
それはどうしてなのかというと、この姫川流域が古代日本でほぼ唯一の翡翠の産出地であり加工地だったからです。翡翠は古代日本では瓊(ぬ)、沼名玉(ぬなたま、ぬのたま)、青玉、玉(たま)などと呼ばれていました。
三種の神器の一つに八尺瓊勾玉というのがありますが、「八尺」というのは、1尺が約30cm.ですから8尺は240cm.となりますが、これは八咫鏡の「八咫」と同じように「大きな」という程度の意味で、「瓊」が翡翠ですから「大きな翡翠製の勾玉」という意味になります。といっても240cm.にもなる翡翠の塊など存在しませんから、勾玉をたくさん繋げたペンダント状のものの全長がものすごく長いものであったと考えればいいでしょう。おそらく240cm.は長すぎるので実物はもっと短かったとは思いますが、稀少品であった翡翠の勾玉をそれだけたくさん繋げた稀にみる神宝であったのだということなのでしょう。
翡翠は「瓊(ぬ)」であり「玉(たま)」でもあったわけで、ならば「沼名玉(ぬのたま)」は元来は「瓊の玉(ぬのたま)」であったものが「沼の玉(ぬのたま)」に変化したわけですから、「瓊=沼」となり、「沼(ぬ)」は翡翠を表す言葉ということになります。つまり「沼川」というのは「瓊川」であり、「翡翠の川」という意味であり、古代日本において「翡翠の川」という名称がふさわしい川というのは姫川を措いて他に無かったといえます。
そして「沼河比売(ヌナカワヒメ)」は「瓊の川の姫」であり「翡翠の川の女神」であり、姫川の下流域の糸魚川地方を中心とした上越地域の翡翠の産出や加工に従事する氏族の祭祀する女神であったか、あるいはその女王や祭祀に関わる巫女であったのかもしれません。

そして古代において糸魚川にオオアナムチを祭祀する出雲系氏族が山陰の出雲地方から対馬海流に乗ってやって来たのは、まずこの翡翠を入手するためではなかったかと思われます。そして交渉成立後、出雲と越の間の翡翠交易の定期航路が開かれ、その中継地として出雲系氏族の一部の現地駐在組は富山湾の高岡や能登半島の七尾や羽咋、金沢平野の干潟地帯などの開発を行い、それらの地にオオアナムチ信仰の痕跡を残したのではないでしょうか。
だからこそ、糸魚川を含んだ上越地域が糸静線の東側でありながら西側の富山湾地域や能登半島地域と同じ度合いで開発されることになったのだといえます。この地にやって来て開発を行った出雲系氏族にとっては、そもそもの目的がこの上越地域の翡翠であったわけですから、この地域の開発とその西側、つまり出雲への交易ルート中継点の開発とは必然的に不可分なのであり、同時進行で開発が進んだことになるのです。
そういうわけでおそらく紀元前250年以降、越前、加賀、能登、越中、上越エリアは同じような度合いで「出雲化」されていくことになり、中越地域や下越地域よりも開発が進んだ地域となっていったのです。そこに後に大和王権の勢力が及んできた際に、この「出雲化」された地域がとりあえず「越(辺境地の名称ではなく大和王権の支配地域の地方名として)」と名づけられ支配地域になったのでしょう。
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