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日本史についての雑文その240 翡翠交易
翡翠というのは深緑色の半透明なガラス状の光沢を帯びた宝石の一種で造山帯で産出されます。プレート同士の衝突などで地下で大きな圧力が生じる場所でマントル起源のカンラン岩と熱水とが反応して変質し生成される蛇紋岩の中に存在し、その蛇紋岩が激しい断層活動で地上に押し出されてくることがあり、蛇紋岩は風化や浸食を受けて崩れやすいので蛇紋岩が露出した地殻上を流れる川などは峡谷を形成しやすく、河岸の露出した蛇紋岩地層が崩落しその内容物が川底にばら撒かれ、その中に翡翠が含まれていることがあるのです。まぁ結構、希少価値の高い宝石であるといえるでしょう。
ただ蛇紋岩そのものが翡翠の原料というわけではなく、地殻やマントルを構成する何らかのケイ酸塩が地下の高圧下で様々な成分が溶け込んだ超熱水と反応して生成するケイ酸塩鉱物の一種として翡翠の結晶に変化して、それが地下の蛇紋岩に取り込まれ、その蛇紋岩が地上に露出すれば地上に翡翠が現れるのであって、地下においては必ずしも蛇紋岩と共にあるというわけでもないのですが、地上に現れる場合は蛇紋岩に取り込まれてからそれが崩壊して川底にぶちまけられた形になるということです。
地下においてどういう物質がどういう物質と反応して翡翠となるのかについては諸説ありますが、地下のことでもあり未だ謎が多く、また後述するように翡翠にも各種あり、それらの組成もそれぞれ違うので、別にここでそこまで深く踏み込む必要も無いので曖昧にしておきます。ただ確かなことは、翡翠はその生成過程において様々な不純物が含まれることが多く、それによって自然界において産出される翡翠は各種の色彩を帯びることになり、しかもその色彩の傾向は産地ごとに特徴的になるということです。

また、ケイ酸塩鉱物はその結晶構造によって数多くの種類に分かれますが、それらのうちにイノケイ酸塩鉱物といわれるグループがあり、これのうち単鎖状のものが輝石類、2本鎖状のものが角閃石類になります。この輝石類には20種類ほどあるのですが、その中で翡翠輝石といわれるものが英語ではジェイダイトといって通常は「硬玉(こうぎょく)」といわれているものです。そして、角閃石類にも多くの種類がありますが、そのうちの透緑閃石といわれているものが通常は「軟玉(なんぎょく)」といわれ、英語ではネフライトともいいます。
つまり、硬玉と軟玉とは根本的に全く違う構造の鉱物なのですが、しかしこの両者を合わせて「翡翠」と呼ぶのです。翡翠には硬玉系のものと軟玉系のものの2系統あるということになります。実際、硬玉と軟玉は見た目や硬さで区別することは非常に困難で、区別するには専門家の鑑定が必要であり、色で区別しようにも硬玉にせよ軟玉にせよ色の傾向は似ている上に、色彩自体がそれぞれ何色かあるので、色での区別も困難です。また産地の地質学的特徴も似ているので産地の地形で区別することも出来ませんでした。
現代においては化学的に硬玉と軟玉を鑑定することは可能であり、その結果、硬玉と軟玉のそれぞれの産地は明らかになっており、また稀少価値があり宝石に分類されるのは硬玉のみであるということも判明していますが、化学的鑑定法の無い古代においては硬玉と軟玉の区別はつかず、両方とも一括して「翡翠」であり貴重な宝石として扱われていたのでした。

軟玉の主な産地は東トルキスタンのホータンおよびニュージーランドですが、古代から産出が安定的に行われていたのはホータンのほうです。こちらの軟玉は紀元前2世紀に漢の武帝が西域諸国へ進出して交易を盛んに行うようになって以降、シナ帝国において工芸品や装飾品の材料として重宝されるようになり「玉(ぎょく)」と呼ばれるようになりました。ホータンの軟玉は不純物が少なく白色で、古代シナでは白い翡翠が好まれるようになりました。
一方、硬玉の主な産地は古いものではミャンマーのカチン高原、グアテマラのモタグア渓谷があり、現代においてはカリフォルニアやロシアもありますが古代においてはこれらは関係ありません。古代シナにはカチン高原の硬玉は輸入されておらず、シナに硬玉が初めて輸入されたのは18世紀の清の時代にミャンマーの硬玉がもたらされるようになってからのことでした。ミャンマーの硬玉はクロムの含まれた鮮やかな緑色のものと、鉄が含まれた赤紫色のものなどが特徴的で、清朝では鮮やかな緑のものが特に好まれました。

そして世界最古の硬玉の産出地が日本列島の新潟県糸魚川市の姫川流域ということになります。姫川は古代においては長野県大町市の青木湖を水源としており、そこから飛騨山脈の東をまっすぐ北上して下っていき、糸魚川市で日本海に注ぐ川で、東北日本と西南日本がぶつかり合う膨大な圧力によって生じる糸魚川静岡構造線という大断層線の上を流れる川であり、その河岸は断層運動によって地上に露出した蛇紋岩が崩落した深い渓谷を形成しています。まさに翡翠の産出地の典型的特徴を備えた地であるといっていいでしょう。
姫川の下流にある長者ヶ原遺跡からは翡翠から勾玉を作る縄文時代中期の工房跡なども発見されており、縄文時代からこの地で翡翠が産出され、この地において勾玉などに加工されていたことは間違いありません。
翡翠の主な用途は勾玉でしたから、奈良時代になって勾玉が作られなくなった後、この地での翡翠の採取も行われなくなり、長らくその記憶も失われ、いつしか古代日本における勾玉の材料である翡翠の産地は謎とされてきました。
シナでは翡翠が継続して重宝されていましたから、当初はシナから原料を輸入していたと思われていたようですが、近代になって日本製の勾玉は硬玉製であり、シナにおける硬玉は18世紀以降のもので、古代シナには軟玉しか存在しなかったことが判明し、ミャンマー産の硬玉が古代日本にもたらされたとしてもシナを経由しないでもたらされるのは不自然であるとして謎とされていました。そういうところで1938年に姫川流域で硬玉が再発見されて謎が解けたのです。
現在では化学的鑑定によって、古代の日本や朝鮮半島南部の遺跡で発見される翡翠製勾玉の原材料は全てこの姫川流域の硬玉であることが判明しています。
青森県の縄文時代の有名な遺跡である三内丸山遺跡においても糸魚川産の硬玉で作られた勾玉が発見されていますが、縄文時代においてこれだけ遠方への移送を行うには海路を使ったと考えるしかなく、縄文時代から糸魚川を中心としてかなり遠方までの翡翠交易海路というものが形成されていたと見ていいでしょう。
そもそも古代の日本列島において翡翠の産地はこの姫川流域だけなのですから、全国で見つかる勾玉の材料の翡翠は全てこの地から運ばれたことになるのであり、全国的な翡翠交易路が縄文時代から存在していたということになります。
出雲大社にもこの糸魚川産の翡翠で作られた勾玉が祀られており、古くから出雲と糸魚川の間で翡翠交易が行われていたことが分かります。ヌナカワヒメとオオアナムチの伝承に象徴されるような出雲系氏族の越の国への来訪や開拓などは、そうした縄文時代に遡る出雲地方と越地方の交流をベースにしたものだったのでしょう。

それにしても、なぜ出雲系氏族だけがわざわざ伝承に残るほどに大規模な越の国への進出までして翡翠の交易路の確保をより強く求めたのでしょうか。
それは出雲地方において勾玉の需要が高くなったからでしょう。もともと出雲地方の玉作ではその地で産出される青瑪瑙を原材料とした勾玉の製作が行われておりました。
勾玉というものはおそらく縄文時代に遡る古い信仰形態で、月の魔力を込めた護符のようなものであったと思われ、それはもともとは各自が自分たちで作って身につけるもので、その材料はもちろん翡翠や瑪瑙などが使えるならばそれに超したことはないわけですが、そうでない場合はそれなりの材料で間に合わせ、当初は石や動物の骨など、あり合わせのものでも作られていたと思われます。
そうした勾玉が、紀元前250年ぐらいから北九州、そして暫くして出雲などでも共同体の統合が進められて小国家のようなものが形成されるようになり、王権の象徴や、配下に配る下賜品として使われるようになってきたのです。そうなるとそれなりに立派なものを作りたくなり、そうした需要に応えるために青瑪瑙の産地である出雲の玉作においてシステマチックかつ集約的な工房を設置することにしたのでしょう。
ところがそうした形態で顧客をリサーチしてみたところ、予想よりも需要が多く、更に増える傾向にあるということが判明し、玉作で産する青瑪瑙だけでは供給が追いつきそうにもなく、他に勾玉の原材料の供給地を見つけて、そこと出雲の玉作工房を結ぶ交易路を開拓する必要が生じたのです。その供給地の候補が、縄文時代から翡翠の供給地として既に知られていた上越地域の姫川流域であったのです。
そういうわけで紀元前250年以降に出雲系氏族が糸魚川にそうした商談をしに来て、そのまま北陸地方に拠点を築いて、糸魚川と出雲を結ぶ翡翠交易路を構築していったのです。それが高岡や七尾、羽咋、金沢、敦賀などだったのです。

しかし、それにしても何故、勾玉の材料が姫川産の翡翠でなければならなかったのでしょうか。いや、実際は翡翠以外の材料で作られた勾玉もありますから「翡翠でなければいけない」ということはないのですが、基本的に翡翠が最も望ましいとされていたことは確実です。それはどうしてなのでしょう。
おそらく、一番のポイントは堅牢さだと思います。翡翠のモース硬度は、硬玉は6.5?7で、軟玉は6?6.5であり、宝石の中ではそれほど高いほうではありません。例えばモース硬度が最高値なのはダイヤモンドで、その値は10になります。しかしダイヤモンドは特定の角度からの衝撃を受けると簡単に割れます。金属の場合と同じことで、「硬い=丈夫」ではないのです。
ところが硬玉も軟玉もイノケイ酸塩鉱物であり、これは内部で針状や繊維状の結晶が細かく複雑に絡み合った鉱物であり、ダイヤモンドと違って衝撃に弱い方向というものが存在しません。全ての鉱物の中で最高の靭性を有しているのです。つまり、この世で最も割れにくい鉱物なのです。それは言い換えると、非常に加工が難しいということにもなります。

翡翠も最初はおそらく勾玉ではなく、普通の石と同じように石器の材料として使われ、狩猟用の鏃や槍に使われたりしたはずです。そこで、とにかく丈夫であることと、とにかく加工に手間がかかるということを縄文人は学習したはずです。そして稀にしか見つからないことも知りました。そうなると、日々の暮らしで使う消耗品に翡翠を使用することは次第に避けられるようになり、重要な護符である勾玉の原料として使われるようになっていったのでしょう。
勾玉というのは護符、つまりお守りですから、それが割れるというのは非常に不吉なことです。ましてやそれが王権の象徴であるとなれば、なおさら堅牢さは求められたでしょう。この世で最も割れにくい物質があるのならば、それを使って勾玉を作るのが当然のことであったでしょう。翡翠はこの世で最も壊れにくい物質ですから、つまり翡翠で作った護符はこの世で最も強力な護符であるということになります。
そういうわけで出雲の玉作では勾玉の最高の材料として翡翠が求められることになり、それが姫川流域に求めるしかない以上、そこと出雲を結ぶ本格的な交易路が求められたのです。そうして翡翠を入手して玉作で勾玉製作をしていったのですが、とにかく非常に加工が難しい物質ですから、その作業は高度な作業となり、それによって祭祀用具製作者集団としての玉作氏の基礎が作られていくことになり、紀元前100年以降、全国的に共同体の統合が加速化していくにつれて勾玉やその他の祭具の需要も膨れ上がり、出雲の玉作氏やその関連の出雲系技術者集団の名は高まり、忌部氏として各地に展開していくことになるのです。

この出雲の玉作の地では紀元前250年以降は当然「ヌナカワ」の名は勾玉の原材料の産地として有名であったでしょう。それはいつしか玉作氏や忌部氏、出雲系技術者集団の間では、例えば元来は外来語で道具の名前に過ぎなかった「タタラ」がそうなったのと同様に、基本的語彙に含まれるようになっていったのではないかと思われます。それは例えば人名に使われるまでに一般的語彙になっていったのではないでしょうか。
畿内に進出していた出雲系技術者氏族の娘で紀元前74年にイワレヒコの妻となった女性の名が「タタラ姫」といったのですが、その息子で紀元前60年に生まれた人物の名が「カンヌナカワミミ」といいます。「カン」や「ミミ」は尊称のようなものなので本名は「ヌナカワ」でいいでしょう。古代においては結婚は婿入り婚であり、極論すれば男は子種だけ提供する存在で、子供の養育などは妻とその実家が行います。ちなみにこの婚姻制度の名残が平安時代の摂関制度です。
つまり、ヌナカワは父であるイワレヒコではなく母であるタタラ姫やその実家である出雲系技術者氏族に養育されたことになり、命名も実家の当主であるタタラの父にでもしてもらったのでしょう。それで「ヌナカワ」という勾玉の材料の産地の名前がつけられたのでしょう。おそらく、それは非常に誇らしく縁起のいい名前であったのでしょう。
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