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日本史についての雑文その241 三種の神器
その一方、紀元前100年以降、北九州地域とシナ帝国との交易が本格化していくにつれて翡翠を巡る状況が変化してきました。おそらく、その時点での姫川・出雲ラインの翡翠製勾玉の最大消費地は北九州エリアだったはずです。ところがこの時点で武帝の西域交易路開拓によってホータンの軟玉がシナ帝国の交易路に乗るようになり、北九州でも入手可能になったのです。この時、初めて倭人たちは自分たちが「タマ」と呼んでいた勾玉の原材料と同じものをシナ人が「ギョク」と呼び「玉」という字を充てていることを知ったのでしょう。
これは厳密に言えば「同じもの」ではありません。現代人ならば硬玉と軟玉は全く別物であり、ホータンの軟玉などよりも姫川の硬玉のほうが遥かに価値があることは分かることなのですが、古代人にはこの区別がつかないのです。だからこれらが「同じもの」であるように見えるのです。

「タマ」というのは元来は目に見えない精神的なエネルギーを表す普通名詞であったと思われ、タマシイと同義と考えればいいでしょう。そして、そうした精神的エネルギーを込めた護符のことも「タマ」と呼ぶようになったのです。これが勾玉の語源でしょう。
その「タマ(勾玉)」の原材料となる飛騨山脈の東の川で採れる硬い物質のことを当初は「ヌ」と呼んでいたようで、それでその川を「ヌの川」と呼んでいたのです。これが「ヌナカワ」の語源でしょう。ただ、この「ヌ」という物質を「タマ(勾玉)」の原材料に使うようになるにつれて、この物質のことも「タマ」と呼ぶようにもなってきました。
そういう時に北九州にシナ産の軟玉が入ってくるようになり、出雲や北九州の倭人たちは、どうも普段自分たちが「タマ」と呼んでいる物質と同じものをシナ人は「玉」と書き「ギョク」と呼んでいるということを知ったのです。
倭人たちはそこで、「タマ」と「ギョク」は同じ物質であることを認めて、「タマ」に「ギョク」の表意文字である「玉」を充てて、この「玉」を「タマ」と読み、更に「ギョク」とも読ませるということにしたのです。

つまり硬玉と軟玉は同じ物質であるとは認識したのです。ところが、結局、軟玉で勾玉が作られることはなかったのです。たとえ同じ物質であったとしても、やはり勾玉の材料は姫川産の硬玉に限るというわけです。つまり何かが決定的に違うわけです。
倭人たちは一度、「タマ=玉」として硬玉と軟玉の概念の統一をしたにも関わらず、再び「ヌのタマ(沼名玉、瓊の玉)」というように、姫川産の硬玉を特別視するようになったのです。「タマ」は「タマ」でも普通のタマではなく、日本産のものは「ヌのタマ」だということです。もともと日本では「ヌ」と呼んでいたわけで、それを再び強調することによって日本産の「タマ」はシナ産の「タマ」とは違う特徴があり、その特徴を備えた日本産の「ヌのタマ」こそが勾玉の原材料として相応しい特別の存在であるということを強調したかったのでしょう。
もちろん当時の人は硬玉と軟玉の組成の違いなど理解していませんから、その「ヌのタマ」の特徴は誰にでも分かるもっと単純なもので、それは「色の違い」でした。シナ産のホータンの軟玉は白っぽく、日本の姫川産の硬玉は白や緑のものもありますが、特に勾玉の原材料として重視されたのが青紫や青色のものでした。
姫川産の硬玉の場合、不純物としてチタンが含まれているものがあり、これは青みがかかった紫色となり、また糸魚川石という独自の新鉱物を含んだものは青色になります。
古代日本における翡翠、つまり「ヌのタマ」は、別名として「青玉」とも呼ばれたように青い色が特徴であったようで、邪馬台国の女王の台与が3世紀に魏に送った姫川産の硬玉製の勾玉は「青大勾珠」といって、これも青色の勾玉です。特にこの場合、倭国文化の紹介の意味合いもあるのであり、「倭国では大事な勾玉は青い翡翠で作る」という基本スタンスを示したともいえます。
どうして古代日本では勾玉は青いものが尊ばれたのかというと、それはもう好みの差と言うしかないのですが、個人的意見としては海や川の青(正確には水面に映った空の色だが)を連想させるものだからではないかと思います。やはり日本列島においては移動は水路を使うことが多く、護符に込める願いは水路の安全であり、その祈願の対象は水の神や海の神、川の神であり、それは青い水を連想させ、青く光る勾玉が縁起が良いものとして尊ばれたのではないでしょうか。

とにかくこうして日本列島では紀元前100年以降も青い翡翠が勾玉の材料として尊ばれ、それは上越地域の姫川流域でしか採取されなかったので、姫川河口部の糸魚川と出雲を結ぶ交易路は重要なものとなり、その交易路を通過点を中心として「越の国」という地域の枠組みも発展していきました。これでどうやら古代における出雲系海洋民が開拓した「越の国」の姿がおぼろげに見えてきます。
まず「越の国」の中心地帯は富山湾地域で、湾内では沿岸漁業が盛んに行われ、湾岸の富山平野では水田稲作を行う小国や共同体が多数存在しており、出雲系の主神であるオオアナムチへの祭祀が行われていました。
その中心地としての富山湾地域の北には日本海側の最大の良港である七尾湾エリアがあり、出雲系海洋民の海の根拠地となっていました。その七尾の北の能登半島北部エリアは漁業地域であり、また七尾から内陸水路で繋がる羽咋は加賀方面への玄関口でありました。
また、富山平野から直接に加賀方面へアクセスする経路として倶利伽羅峠を越える内陸水路があり、これを使えば西の金沢平野の干潟地帯に出て越前方面へ繋がることが可能となります。そして、これら海洋民の活動を支える船の原材料としての材木の供給源としては富山平野から庄川や神通川などを遡った越中国南部エリアや飛騨国北部エリアがあります。
そして、富山湾の東の飛騨山脈を越えた東には、翡翠の産地としての上越エリアがありますが、糸魚川からは姫川を遡って、直江津からは関川を遡って、それぞれ信濃国へアクセスするルートがあります。また、上越地域から更に海路を東にとって中越地域や佐渡島方面へ進出することも可能です。
だいたいこうしたエリアが出雲系氏族にとっての「越の国」の範囲であり、そのとりあえずの東端である直江津から糸魚川、魚津、高岡、七尾、福崎、羽咋、金沢を繋げて、敦賀を経由して出雲へ向かう定期航路を運営して、これによって出雲と越の連合による日本海地域における強大な経済圏が出現することになったのです。

こうした現状に対して不満を持つようになったのが3世紀に畿内から東海、南海エリア、および瀬戸内海エリアにおいて台頭してきた大和王権でした。
どうして不満なのかというと、大和王権はこの3世紀から4世紀半ばまでの時点では基本的に東向きな政権で、シナ大陸に向かう方向性を好ましく思っておらず、そういうベクトルを持った勢力が強くなることを好まなかったのですが、この出雲と越の連合は北九州勢力と結びつきが強く、北九州勢力はシナ大陸や朝鮮半島と結びつきが強かったので、これらの連合が強大になることは大和王権には好ましくなかったのです。
また、3世紀初頭に列島各地で首長霊祭祀の思想が確立し、そうした各地の土着の首長霊の霊力を大和王権の大王に継承させていくという、そうした宗教的祭祀を通じて国家連合体を作っていこうというのが大和王権の思想で、そのために各地の首長霊の霊力が込められた神器や神宝を集めるようになり、3世紀においては出雲にじわじわとそうした圧力を加えて、3世紀の間に草薙剣を巡ってトラブルを起こしていました。
出雲は大和王権に対しても協調的であったので草薙剣は大和王権に渡り、出雲も一応は大和王権の連合に加わりましたが、出雲の内部では大和王権に不満を持つ勢力も少なくなく、火種は抱えた状態でした。そうした空気の中で越や北九州と出雲の自律的な結びつきが強くなるのは大和王権にとって、あまり好ましいことではありませんでした。

そして、そうした土着の首長霊の霊力を統合していくにあたって、そうした日本列島土着の首長霊を継承する儀式に使う神器を作るための日本列島内の最先端の技術を大和王権の下で管理していく必要も生じました。首長霊継承儀式の正統性を担保するのは神器の神秘性であり、それは当時の最高の技術に裏打ちされたものでなければいけないのでした。
特に、王権の象徴とされた「鏡・剣・玉の三点セット」については、北九州勢力やそれに繋がる大陸勢力への対抗上、シナ産の技術を超えた国内最先端の技術をなんとしても大和王権の手中に収めたいというのが悲願となりました。
3世紀半ばから末期にかけてのイクメイリヒコ大王の時代には、鏡については木の国と伊勢国の水銀アマルガム製法で作られた「八咫鏡」を得ることに成功し、剣については出雲のたたら吹き製法で得られた最高品質の鋼を鍛えた「草薙剣」を手中にし、これで残るは玉、つまり勾玉のみとなり、勾玉の最高のものは越の国の姫川流域で採れる青色の翡翠を出雲で加工したものでしたから、その産地と移送ルートを押さえて、姫川産の翡翠を大和に運び大和で加工できるようにすることが求められるようになりました。

そういった思惑も絡めて、また総体的に九州勢力や日本海側勢力への対抗のために、伝統的に大和王権は東国との連携の志向が強かったのですが、特に3世紀末から4世紀初頭にかけてのオオタラシヒコ大王の時代にはヤマトタケルによって東国の勢力との連携が図られ、その上で越の国との接触や交渉も行われるようになりました。
そうこうしているうちに4世紀初頭にはシナ大陸で五胡の侵入によって晋王朝が崩壊しシナ帝国は消滅し、その混乱の余波で4世紀半ばには朝鮮半島で混乱が生じるようになり、それに絡んで北九州勢力や出雲勢力や越の国勢力などの日本海側勢力が朝鮮半島への出兵を行うに際して大和王権と同盟を結び、その同盟と朝鮮半島への出兵をきっかけに大和王権は西向き政策に転じると同時に、日本海側の小浜や敦賀に進出して拠点化するようになり、それらを拠点とした水軍で出雲と越の国の間の翡翠交易路を分断して、逆に敦賀から琵琶湖を経て大和方面へ翡翠を独占的に移送する新たな交易路を開拓する計画を進めていくようになりました。こうした動きが4世紀半ばからの大和王権のオキナガタラシヒメの摂政の時代あたりに始まったと思われます。
そのためには日本海側の大和王権の水軍根拠地を充実させねばいけないわけですが、まずなんといっても必要なのが船の材料である木材の供給地を日本海側の大和王権側の港に直結する河川流域に確保することでした。まずは若狭国や近江国北部の山林の森林資源が有効活用されましたが、それだけでは不足でした。

そこで新たに開拓されたのが越前国でした。越前国の内陸の山岳部は森林資源が豊富で、しかもそれら山岳部へは大和王権支配領域からの内陸水路によるアクセスが良好でした。例えば近江国北部からは高時川から栃ノ木峠で日野川の最上流部に乗り換えて越前国南西部へ入ることが出来ました。
また濃尾平野の干潟地帯の尾張氏は1世紀から大和王権の有力メンバーでしたが、尾張氏はその干潟地帯に注ぐ河川、例えば揖斐川、長良川、木曽川、根尾川などの流域に4世紀の間には既に進出していました。揖斐川の最上流部は美濃国の西北部に達しますが、そこで高倉峠で日野川へ、冠山峠で足羽川で乗り換えて越前国の南部へ入ることが出来ます。
根尾川も濃尾平野の干潟地帯に注ぐ川ですが、この川を最上流部まで遡ると美濃国北部まで達し、湯見峠で湯見川に乗り換えて越前国南部に入ることが出来、湯見川は真名川に注ぎ、真名川は越前国内陸部を北上して大野盆地で九頭竜川に合流します。
また、長良川は飛騨国南西部の油坂峠で九頭竜川の最上流部に乗り換えて越前国の南東部に入ることが出来ます。こうして近江、美濃、飛騨南部という大和王権支配領域から越前国の内陸の山岳部を流れる日野川、足羽川、九頭竜川へ乗り換えることが可能であり、これらの越前国の3本の主要河川は内陸の森林地帯を流れた後、福井平野の干潟地帯を経て東尋坊の南で日本海へ注ぐのです。
ならば、越前国の山岳地帯で伐採してきた木材を3本の河川で河口部まで運んできて、そこで船を組み立てて水軍の根拠地と出来るような港があれば有力な大和王権の水軍根拠地を作ることが出来るのです。それを目指して越前国の開拓が開始されたのです。
その手始めがオキナガタラシヒメの王子であるホムタの越前国の敦賀の気比神宮の首長霊の継承による越前王の就任であり、その帰結がホムタの子孫の代々の越前王による開拓事業の末の5代目のオオドによる、5世紀末の福井平野の海岸部の九頭竜川河口部における三国湊の開港でした。
これによって三国湊を根拠地とした大和王権の日本海側水軍はますます強力になり、敦賀から三国湊へと根拠地を北上させた大和王権は翡翠産地の姫川を目指してますます越の国へと進出していくようになったのです。

オキナガタラシヒメの時代からオオドの時代までの間、越前国ではこうした事態が進行していったわけですが、その間にいつしか越の国から出雲国への翡翠交易路は廃れて、越の国から大和への翡翠交易路に取って変わられるようになっていき、出雲と越の国は分断されて大和王権に対抗することは困難になっていき、次第に大和王権の連合内に収まっていくようになったと思われます。
こうして大和に運ばれた姫川産の青い翡翠で作られたのが三種の神器の最後の1つである「八尺瓊勾玉」であります。この世で最も壊れにくい物質で作られた最も強力な魔力を秘めた青く光る神秘的な勾玉を贅沢に多数用意して、それらを長い紐で大量に繋げたペンダントが「八尺瓊勾玉」であり、この世で最強の護符でありました。
こうして、「草薙剣」「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」と、三種の神器の3つが全て揃った頃、ほぼ時を同じくして大和王権と地方勢力との優劣関係は確定し、6世紀には出雲や越の国なども大和王権に従属していくようになるのです。
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