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日本史についての雑文その242 越後国
さて、ここで話を紀元前250年以前の古代日本における日本海側地域の状況の整理に戻しますが、ここで越後国の各地域について見てみます。
現在の新潟県は上越地方、中越地方、下越地方、佐渡地方に分類されることが多く、富山県境から柏崎の南の米山までが上越地方、米山から大河津分水路や五十嵐川までが中越地方、大河津分水路や五十嵐川から山形県境までが下越地方、佐渡島が佐渡地方となっています。
ただ、古代においては下越地方の南半分の主要部である新潟市部分はほとんど海面下であったので、ここは中越地方に附属する形になり、中越地方は米山から阿賀野川までの領域、下越地方は阿賀野川から山形県境までということになります。

越後国のうち、ここまで説明してきた上越地方は糸魚川市や上越市を含んだ地域で、越中国や信濃国と関係が深い地域です。上越地方は信濃国の北にあたり、糸魚川や上越から信濃国へ入っていける内陸水路のルートがあり、越前や越中方面から信濃国へ行く場合、わざわざ遥か東方の新潟市から信濃川に入って信濃国へ遡っていくよりも、この上越地方からの内陸水路で信濃国へ入っていくほうが一般的でした。
そういうわけで、この上越地方は古代から政治の中心地であった西国と関係が深かったために、長らく越後国の中心地となり、越後国の国府も上越市に置かれていました。また戦国時代には上越市にある春日山に上杉謙信が本拠地を置いて、たびたびここから信濃国へ出撃して武田信玄と戦っていたわけですから、それだけここから信濃国へのアクセスが良いということが分かります。

一方、中越地方は長岡市や新潟市が中心となりますが、古代においては新潟市の大部分は信濃川や阿賀野川が注ぐ大きな入り江でありましたので、実質的には長岡市が中心となります。中越地方はむしろ上野国や会津地方と関係の深い地域で、関東地方の北の延長のようなものだといえます。
それゆえ、この中越地方が発展するのは関東地方に政治の中心地が移った江戸時代以降のことであり、大規模治水事業で新潟市の干潟地帯が広大な越後平野に変身して一大穀倉地帯になりました。また、東北地方が目覚しく発展し、蝦夷地の開発も進められた江戸時代にはこの地域は北国の物産を上方へ送る日本海航路の中継地点として重要になり、新設の越後平野の海岸に作られた新潟港が日本海側における最重要港湾となりました。
そして下越地方は新発田市や村上市を中心とした地域で、山岳部が多く、北方の出羽国の庄内地方と関係の深い地域で、出羽国の南の延長のようなものだといえます。
このように、それぞれ特色の異なる3地域ではありますが、日本海沿岸航路で密接に繋がっており、また、それぞれ隣接し合った地域は深く関係し合っていました。ただ、上越地方と下越地方などはどうしても関係は薄くなりがちで、上越地方にとっては下越地方との繋がりよりも越中国や信濃国との繋がりのほうが濃くなりがちでありました。

ただ、政治の中心地が西国であるとか東国であるなどというのは大和王権成立以降、特に7世紀に中央集権の統一国家が成立してからのことであり、縄文時代や弥生時代などは各地のエリアごとにそれぞれがほぼ完結した経済圏を形成しており、むしろ人口比でいえばこの時代は西日本よりも関東や東北のほうが遥かに多かったので、その分は経済規模が大きく、交易を生業とする海洋民にとっては魅力ある地域でありました。
ですから、紀元前250年ぐらいから翡翠を求めて上越地方まで進出してきていた東南アジア系海洋民の出雲系氏族の場合も、更に日本海を東北方向へ進んだ地に膨大な人口地帯があり、多くの産物を手に入れて、その多くの産物を消費してくれる見込みがあると知れば、更にその地へ向けて進出していくのは自然の理であったことでしょう。
この場合の進出というのはあくまで交易のための進出であり、支配が目的であるわけではありません。そもそも、この弥生時代において出雲系氏族が東国に進出していった時代は、まだ東国に政治的な共同体があまり形成されていない時代ですから、あまり支配とか被支配などの政治的トラブルは発生しなかったのです。
むしろ、このように弥生時代に出雲系氏族が交易のために進出して開発を行った結果、東国でも政治的な共同体が形成されるようになったのであり、そして一旦そういった政治的共同体が出来上がってしまえば、次にそこに異文化の存在がやって来た時にはどうしても政治的トラブルが発生してしまうものなのです。

そういうわけで、4世紀以降に大和王権の勢力が北陸方面に及んだ際には、それは当初は決して侵略的なものではなく、これもかつての出雲族と同じく翡翠などの物産を求めた交易目的のものであったはずなのですが、それでもかつての出雲族の時とは違い、かなりの政治的トラブルが発生したのです。
それでも上越地方まではなんとか進出して大和王権の勢力範囲とした理由は、どうしても翡翠を確保したかったからです。また、上越地方は東日本側から見れば最も西の端にある辺境地域なのであり、まだ人口が少なかったので、その政治的トラブルの度合いもまだ小規模なものに止まったからでした。
大和王権側にしてみれば、何やかやとトラブルが絶えない面倒くさい地域ですから、とりあえず翡翠の産地である上越地方との交易体制さえ確立できれば当初の目的は達成ということで、幸いその上越地方は現地の人口が少なくそれほど多くのトラブルが発生しなかったのでまだ許容範囲内であり、大和王権の勢力範囲である「越」の東端として確保しましたが、それより東の更に人口が多く更に多くのトラブルが予想される地域に関しては「蝦夷の領域」として放置することにしたのです。
こうした大和王権側の政治的判断の背景には、4世紀半ば以降の朝鮮半島進出を重視する政策があります。東国で蝦夷とトラブルを起こすよりも、今は朝鮮半島への進出のほうに集中するべき時であるということです。
ただ、これはあくまで為政者による政治的判断に過ぎないのであって、大和王権の勢力範囲に入った上越地方で活動していた海洋民などの商人たちにとっては、東に行けば膨大な人口を抱えた市場があると聞けば、そこに行って商売をしたくなるのは当然のことであり、政府の意向とは別に、勝手に更に東へ進出してトラブルを起こす者は頻出したでしょう。
彼らがいくら自分勝手に行動して自業自得のトラブルを起こそうが、それが自己責任で解決すべきであったとしても、また彼らの出自がもともとは南洋系で大和出身であったとか、あるいは上越地方の現地人であったとしても、とにかく上越地方が大和王権の支配地域となった以上はその地域に住む者はみんな大和王権の民なのであり、彼らの起こすトラブルの解決を積極的に図るかどうかはさておき、とにかく大和王権としてもそうしたトラブルの存在自体は把握しないわけにはいかなくなるのです。

それで659年の遣唐使と唐皇帝との問答にあるような「近くに従順な熟蝦夷、遠くに反抗的な麁蝦夷、更に遠くに都加留」というような把握がなされていたのだと思います。「近くの従順な熟蝦夷」というのは大和王権支配地域である上越地方以西に住む蝦夷であり、「遠くの反抗的な麁蝦夷」というのは大和王権支配下の民といろいろとトラブルを起こしていた中越地方以東に住む蝦夷であったのです。このトラブルはおそらく大和王権支配地の商人たちの責任で起きたものが大部分であったので「反抗的」というのはちょっと事実に反するとは思うのですが、まぁ遣唐使がそんな細かい事情まで唐の皇帝に説明する必要もないのでしょう。
そして「更に遠くの都加留」に関しては、それが善良であるか邪悪であるか、大人しいのか荒々しいのか、従順なのか反抗的なのか、そういうことについてはノーコメントとなっていますが、これは要するに、大和王権支配下の冒険商人たちもこの時代はまだ津軽地方までは達しておらず、津軽地方にも蝦夷がたくさんいるらしいとは聞いてはいるのですが、実際にまだ接触していないということなのでしょう。
ただ、中下越地方や庄内地方などで津軽の噂はよく聞いたという程度のことであったのでしょう。しかしこれは言い換えると、津軽の蝦夷勢力はそんな遠くまで噂になるほど大規模なものであったということで、弥生時代においては津軽こそが蝦夷の本拠地であったのかもしれません。

ただ、実際はこの遣唐使の発言の10年前ぐらいから大和王権は東国の開発を重視し始めており、北陸方面の現場では中越地方や下越地方にも大和王権の拠点を設置し始めており、まさにこの遣唐使の発言している659年のリアルタイムの時期には阿倍比羅夫の武装交易船団が初めて津軽にまで至り、交易を行っていました。
まさに東北方面の状況が大きく転換しようとしているその時期に、ちょうど遣唐使が唐の都でその地域の状況について言及しているわけなのですが、そうした細かな最新情報までリアルタイムに遣唐使に知らされるはずもなく、特にこうした時代の大転換期には外交官などというお役人の典型みたいな人種は、新しい時代の変化を受け入れることが苦手で、最後まで旧来の価値観や認識にしがみつくものだということは現在の世の中を見てもまた同じことで、そういう傾向は不変なのでしょう。
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