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日本史についての雑文その243 ひのもと
ここで注目すべきことは、そうした7世紀の大和王権の東国開発政策ではなく、4世紀半ば以降に大和王権が北陸方面に進出した際に、朝鮮半島重視政策があったとはいえ、中越地方以東への進出を一旦は政策的には断念せざるを得なかったほど、中越地方以東の蝦夷の抵抗が激しかったことです。
それはつまり、中越地方以東の蝦夷、つまり弥生時代から出雲系氏族と現地氏族が共同で形成してきた共同体の数が膨大で、その規模が大きかったからでしょう。

弥生時代における水田稲作の普及と大陸からの渡来人の移住などで西南日本の人口がかなり増えていたとはいえ、それでもこの時期はまだ日本アルプスよりも東の東北日本は日本アルプスより西の西南日本よりも遥かに人口は多かったのであり、ただ単に人口が多かっただけではなく、そこに弥生時代において出雲系氏族が進出して水田稲作を伝えて共同体を形成し、それらが統合して一定の地域勢力を作っていたのでしょう。
その人口比を考えると、古代においては実は東北日本こそが日本列島の主体なのであり、西南日本というのは少数派地域であったといえるでしょう。つまり7世紀半ばまでの大和王権というのは実は日本列島全体においては少数派勢力であったのであり、蝦夷といわれた東北日本の出雲系勢力のほうが実は多数派勢力だったのです。この多数派勢力である東北日本を支配下に組み込んでいくことによって、大和王権は真の意味で「日本」になっていくことになるのです。
言うなれば、7世紀半ばまでの大和王権はあくまで「日本」ではなく、西南日本と朝鮮半島南部を主体として上越や信濃、甲斐、駿河を加えた「倭国」に過ぎなかったのであり、7世紀後半に朝鮮半島南部を放棄して中央集権体制を整えつつ東北日本を組み込んでいこうという政治的意思を持った時から「日本」へと変貌したのだといえます。

朝鮮半島の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」の670年の記事で「倭国が国号を日本と改めた」という記録があり、この時期にそうした意識が実際に国号の変化となって現れているのが分かります。
「日本」は「ひのもと」と読み、日の出るところに近いのでこういう国号にしたそうです。しかし従来の大和王権から見れば「日の出るところ」である東方には蝦夷(出雲系)の支配する異国が存在したわけであり、大和王権の支配地は「ひのもと」とはいえません。逆に大和王権では岩手県内の北上川流域の蝦夷の国々を「日高見国」というように太陽に最も近い国と呼びならわしていました。
実際、これらの北上川流域の蝦夷共同体よりも東は北上山地が太平洋に直接接しており大規模な共同体というものは無く、その先は太平洋の海原が広がっているのであり、経度で見てもこれらの共同体は当時の日本では最も東に位置する大規模共同体であったのであり、この北上川流域の蝦夷共同体こそが真の意味で「ひのもと」と呼ぶにふさわしい国であったでしょう。
この大和王権から見た「日高見国(ひのもと)」はあくまで蝦夷という異民族が支配する異国であり、大和王権の支配する「倭国」とは別の国です。「倭国」の東に日の出るところに近い「ひのもと」という別の出雲系の国があったということになります。

ところが670年の時点では、大和王権は「倭国」という名を捨てて「日本(ひのもと)」と名乗ることにしたのです。それはつまり、この岩手県内の北上川流域の蝦夷の支配する「ひのもと」までも版図に組み込む意思を有していたからなのです。もちろんこの時点で実効支配はしていませんが、今までのように異国として見るのではなく、大和王権の支配地域という前提で最初から見ているのであり、そこに居て抵抗する者は「異国人」ではなく、あくまで「反逆者」という扱いなのです。それだけでも根本的な意識の変化がそこには生じていることになります。
これは一種の中華思想であり、こうした思想は倭国が朝鮮半島南部を支配下に置いていた時代にシナ文明の影響を受けて培われたものですが、それが7世紀半ばに朝鮮半島から撤退した際に、それに替わる新たなる国家目標として、また切実な要請として「いざ大陸から攻め込まれた場合」の防衛のための後背地および兵員の供給地として、広大で人口豊富な東北日本を支配下に加えることが据えられ、北上川流域地方の「ひのもと」は新生大和朝廷にとっての「約束の地」となり、そこを目指した国家プロジェクトが始動した時、「倭国」は「日本(ひのもと)」に生まれ変わったのです。
そして実際に大和朝廷は東北日本の各地を着々と実効支配していき、とうとう724年には仙台の北方に多賀城を築き、北上川流域の日高見国、つまり奥六郡と直接対峙していくことになり、ついには801年に坂上田村麻呂によって奥六郡は平定されることとなったのです。ここにおいて日本は名実ともに「日本(ひのもと)」となったのだといえます。
ただ、その後、中央集権体制が崩壊したことによって奥六郡の実効支配は暗礁に乗り上げ、再び蝦夷の末裔である俘囚による半独立国家の状態が続き、前九年の役や後三年の役を経て、そして源頼朝による奥州出兵により、最終的には1189年に日本列島中心部の政治勢力による奥六郡の実効支配は実現し、この時点で実質的に「日本」という国が完成したのだともいえます。
そして、当初の予定よりもだいぶ遅れ、当初の計画していた体制とはだいぶ違った体制にはなり、また当初予定していた仮想敵とは違った敵の侵入に対してではあったのですが、この完成した「日本」というシステムは、1274年のモンゴル帝国の襲来という大陸からの脅威になんとか間に合ったのです。

それにしても、人口豊富な先進地帯であったはずの北陸および東北日本の蝦夷勢力が、どうして大和王権に対して守勢に回り、ついにはその支配下に組み込まれることになったのでしょうか。
大和王権の戦略が優れていたというのもあるでしょうが、やはり地球的規模の気候変動が大きな影響を与えているのではないかと思われます。
出雲系氏族によって北陸以東に水田稲作が伝えられたのは紀元前250年ぐらいで、ちょうどその頃から太陽黒点が増加し始めて、つまり太陽活動が活発になり、地球気温が上昇し始めたのです。その地球気温は紀元0年あたりにローマ最大期を迎え、そのピークは2世紀半ばぐらいまで続きました。この時期に蝦夷地帯の農村共同体も大きく発展し、各地に小国家が形成されていったと思われます。
ところが2世紀末から3世紀初めぐらいから太陽黒点は再び減少局面に入り、地球気温も低下し始めました。中世極小期へと至る小氷期の開始でした。これによって北陸地方や東北地方は寒冷化し水田稲作は打撃を受け、地域によっては稲作が不可能になる地域も出てきました。また降雪量が増えて峠の交通が不可能になったり、凍結して通行できなくなる河川や湖沼なども増えて交易網にも打撃を受けました。こうして、大きく展開しようとしていた蝦夷地域の国家共同体の発展は大きく阻害され、産業構造の建て直しを迫られることとなりました。
この気候変動は蝦夷地域だけでなく日本列島全域に混乱をもたらしました。寒冷化が進むと海水面が下降しますから新たな農耕適地が増え、それを争奪するトラブルが起きます。これが後に「倭国大乱」などとシナ史書に記録されたりもするのですが、そういった争いを調停するより大きな権力が求められます。また地勢が変わるのでそれに対応した土木事業も必要となり、そういった事業の主体となる権力も求められます。こうした混乱の中で、国家や共同体の統合を図るために首長霊祭祀という新たなイデオロギーが生じて、それを最も上手く駆使して発展したのが畿内を中心とした大和王権でした。
一方、やはり寒冷化の影響を最も強く受けたのは北陸や東北の蝦夷地域と、次いで山陰地域の出雲や丹波でした。逆に大和王権の主体となる南洋系海洋民の勢力も内陸水路の利用スキルも相当上がってきて、どんどん内陸に進出してきます。
こうして3世紀に入ると、発展する大和王権の連合に対して出雲や丹波、越の国などは守勢に立たされるようになり、じわじわと地球気温が低下していく中で、なんとか現状の領域を維持するのが精一杯という状況になっていきます。
そして6世紀に入ると地球気温は急激に低下し始め、中世極小期のピークへ向かっていきます。そうした中、6世紀には出雲と丹波が大和王権に完全に従属するようになります。そして7世紀半ばに中世極小期のピークに達した時点で、弱りきった蝦夷地域に対して大和王権は攻勢に出ることになったのです。長い寒冷時代ですっかり国力が低下した蝦夷地域は次々と攻め込まれて9世紀初頭には奥六郡まで制圧されてしまいました。
ちょうどこの頃から再び地球気温は中世最大期に向けて上昇し始め、それに合わせて蝦夷地域も復興していき、安倍氏や清原氏など蝦夷の末裔たちが再び半独立王国を作るようになり、中世最大期のピークに達した12世紀末ぐらいには奥州藤原氏による繁栄の最盛期を迎えることになりますが、その勢力を警戒した源頼朝によって滅ぼされてしまうことになるのでした。

ちなみに、ここで「大和王権が進出していった」とか「大和王権の支配下に入った」などというような言い回しを多用しましたが、7世紀半ばの中央集権の律令制採用以前に大和王権が進出していった越や出雲や丹波、そして後述の東海や信濃や甲斐などに関しては、その「進出」というものの実態は、畿内以西で見られたようなパターンと同じで、先住の土着氏族の共同体や文化を温存して、支配者である大和王権側がその文化に同化していき、お互いに祭祀を共有して重層型の共同体の連合を作っていくというのが実態だったと思われます。
そのような緩やかな連合への参加であったからこそ、大和王権の連合に加わった後の今日においても先住の出雲系氏族の祭祀であるオオアナムチ祭祀がそのまま残り、律令制下での各国における祭祀の最高権威である一宮にまでなっているのです。大和王権の進出地においては先住氏族の祭祀の否定というものが全く起きなかったという証拠でしょう。祭祀が否定されていないということは、土着の共同体が温存されたということです。
それが何故に記紀などにおいてはやたらと勇ましい征服物語のように記されているのかというと、これは記紀の書かれた時代状況や、そもそも記紀編纂そのものの動機から考えて、記紀はシナ特有の王化思想を天皇や大和王権を中心に据えた形で焼き直した思想に染まった書物であり、そうした思想のもとでは大和王権が野蛮人たちを教化していったという記述のほうが望ましいものとされたということなのでしょう。

つまり記紀が編纂された7世紀末から8世紀初頭にかけてはそうした思想が大和朝廷ではスタンダードであった時代なのであり、こうした王化思想というのは、おそらく朝鮮半島を通じて大和王権がシナ文明に触れ始めた5世紀初めぐらいから徐々に浸透し始めたのでしょうが、やはりそれが本格的に導入されたのは7世紀になって隋唐帝国で律令制が確立して、その脅威と魅力に大和王権が晒されるようになり、実際にそれが導入されて暫く経った7世紀末ぐらいのことでしょう。
ならばそうした時代に実際に大和朝廷が進出した地域の場合、つまり東北地方の場合は、朝廷側の為政者や現地担当者の中には王化思想に染まって本気で「野蛮人を教化してやろう」などと思い込んで、一生懸命に土着文化を否定して律令制の価値観を押し付けようとする者もあったのではないでしょうか。そういう場合は当然、現地住民とトラブルが起きるわけで、抵抗も激しくなります。7世紀後半から9世紀初頭にかけての蝦夷との関係史において、征服と抵抗の歴史となってしまっている部分があるのは、それだけ蝦夷勢力が強大であったということもあるのでしょうけれども、こういった思想的な背景もあるのではないでしょうか。
こういった展開になってしまったので、東北地方の場合は、一部では大和朝廷の支配下に入った際に先住氏族の祭祀、つまり出雲系を中心とした蝦夷の祭祀が朝廷の出先機関によって否定され弾圧されるような事態も生じた可能性はあります。それで東北地方の一部では大和王権系の神への祭祀や、あるいは根源的な自然神信仰が一時期前面に出るような事態もあったようです。

祭祀的にはそうした傷跡をやや残した大和朝廷による東北支配だったのですが、そのような行き過ぎたやり方は一時的なもので、そのようなやり方では結局は上手くいかなくなるのは当然で、9世紀の後半にもなるとすぐに本来の先住氏族の共同体を温存するような形に回帰していったと思われます。ちなみに、その後、ほどなく中央集権制が崩壊して地方分立の時代になっていったのです。それと相前後して、出雲系の祭祀が薄められていた地域においては神仏習合の形をとって出雲系の神への祭祀が復活するようなこともあったようです。
思うに、こうした地方ごとにバラバラにそれぞれが自立しつつ、それらが有機的に連合しているような状態が本来の日本列島における国の形なのではないでしょうか。どうやら対外的な危機感が高まった時にだけ日本列島の政体は中央集権的なものを志向するようですが、それは本来の姿ではなく、極度の危機を回避すれば本来のバラバラな状態に戻ろうとする傾向があるといえます。
弥生時代における各地の小国家や、大和王権という国家連合体を経て、7世紀に隋唐帝国の脅威を受けて中央集律令国家体制を敷いたもののすぐに骨抜きとなり、10世紀初めには唐の衰亡を受けて中央集権体制が崩壊し、再び地方分立状態となり、そのまま鎌倉幕府成立後も基本的に幕府政権は東国限定政権であったし、地方の御家人による連合政権であったのですが、13世紀後半にモンゴルの脅威が高まる中で幕府は全国政権となり、しかも北条得宗家専制体制が敷かれるようになりますが、モンゴルの危機が去った後それは崩壊し、南北朝の混乱期を経て各地の守護大名の連合政権である室町幕府が成立し、それが戦国時代の群雄割拠を経て、16世紀後半から日本近海に現れた大航海時代のヨーロッパ勢力への対抗上、織豊政権という全国支配体制が生まれて初期江戸幕府という中央集権体制が生じましたが、鎖国により対外危機が去ると文治政策による地方分権の幕藩体制が確立し、それが19世紀後半に襲来した近代西洋文明という対外的危機によって崩壊して、現在に至る近代的中央集権体制となっているのですが、近代西洋文明というものの限界が見え始めた昨今において、果たして現在の体制が何時まで有効であるのでしょうか。
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この記事に対するコメント

 吉野裕氏のスサノオ=鉄神論というのがありますが、金屋子神(金屋子神社、総本社島根県安来市広瀬町)も製鉄神です。また、この安来はスサノオが命名した地名だとも言われます。これらに関連性があるのでしょうか?

【2008/10/12 05:31】 URL | ねこパンダ #- [ 編集]



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