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日本史についての雑文その244 新潟と佐渡
ここで紀元前250年の段階、出雲系海洋民が水田稲作技術などを携えて「越の国」方面へやって来た時点に戻りますが、とりあえずは翡翠を求めて飛騨山脈を日本海航路で越えて東北日本の領域に入り、上越地方まで至った出雲系海洋民たちは、更なる大きな人口を擁する地域がその先に存在すると知り、迷わず日本海沿岸を進んで東の中越地方以東の地を、そしてまた上越地方から内陸水路を通って南の信濃国へ進んでいったと思われます。
また、上越地方の翡翠などの事情などとは無関係に、出雲や北九州、あるいは直接、東南アジア方面や南シナ方面から対馬海流に乗って上越地方以東の日本海沿岸やその内陸部に到着した海洋民も存在したでありましょうし、そうした海洋民の移住の歴史は縄文時代にまで遡るものも多々あったと思われます。
そのような出雲系氏族と東北日本の現地氏族とが融合して作られていった各地の共同体が後に成長して、4世紀以降に大和王権と対峙する「蝦夷」と呼ばれる勢力に育っていくのです。

まず上越地方の東部の直江津港から日本海沿岸を東へ進むと、まず海岸線近くにそびえる単独峰としてはかなり標高の高い部類に属するであろう標高993m.の米山の沖合を通過します。この米山が上越地方と中越地方の境界にあたります。
そして米山の沖合を北へ抜けると柏崎港に着きますが、このあたりは山岳部が海岸線に近く、しかもその山岳部が分厚く、内陸部には信濃川が流れているのですが、河川が分厚い山岳部に阻まれており、海岸線から信濃川までアクセスする目ぼしい内陸水路が無いので、このあたりの海岸線は岩礁海岸が多く、海路の寄港地としての意味のある地点が続きます。
そうした海岸線のポイントの1つとして、柏崎から25km.ほど北へ進んだ地点に出雲崎という地があります。ここにも出雲系氏族がやって来たのでしょう。ここは日本海航路の寄港地でもあったでしょうし、内陸部は柏崎に注ぐ別山川という川の流域でもありました。別山川は柏崎において日本海に注ぐ川ですが、海岸線のやや内陸を海岸線に平行して流れ、その最上流部は寺泊近辺にまで達し、信濃川に徒歩で乗り換えることも可能です。
出雲崎から更に海岸線を北上すると長岡市の寺泊港に着きます。ここは越後国の内陸部の物流の大動脈である信濃川が最も海岸線の近くを流れる地点であり、寺泊港から歩いて7km.ほどで信濃川の流れに辿り着きます。現在は信濃川から寺泊港の北の海岸まで大河津分水路が開通しており、越後平野の洪水防止と寺泊港と信濃川の間の水運に役立っていますが、古代においてはこのような運河は存在していませんでした。ただ、それだけこの地点が海と信濃川が近く、重要な物流路であったということの表れだといえるでしょう。
寺泊港のすぐ北の海岸線に野積という地があり、この地の海岸線のすぐ東に標高634m.の弥彦山が屹立しています。そして海岸線の野積から見てこの弥彦山の裏手、つまり東側の山麓に越後国一宮の弥彦神社があります。弥彦神社の祭神はイワレヒコの東征に功績のあった天香山命とされていますが、本来は弥彦山全体を神域として越後国開拓の祖神とされる伊夜彦神を祀る神社であり、そこに後になって進出してきた大和王権が天香山命を合祀したものなのでしょう。
この伊夜彦神は野積の浜に上陸して越後国に入っていったそうで、野積の浜から弥彦山の南を回りこんで東側の山麓部へ移動すると、そこに弥彦神社があるのですが、古代においては弥彦山の東は大きな入り江になっており、弥彦神社はその入り江の海岸線のすぐ近くにあったということになります。

日本海の海岸線に沿って弥彦山の北には多宝山、そして角田山がありますが、古代においてはこの角田山より北は入り江の入り口として日本海に向けて大きく広がっており、海岸線は角田山を先端として、多宝山、弥彦山の東側に沿って回りこんでおり、そのまま入り江の海岸線は南下して現在の信濃川と大河津分水路の分岐点付近まで達し、そこで信濃川の河口を受けて、海岸線はそこから東へ向かい三条付近で五十嵐川の河口を受け、そこから現在の信濃川の流れに沿って海岸線は北東へ進み、新津の南で東へ膨らんで阿賀野川の河口を受け、そこから入り江の海岸線は北へ向かい現在の阿賀野川の河口のやや東で日本海に達して現在の海岸線に繋がって東へ向かいます。
このように北西方向へ向かって大きく開口した新潟湾が現在の越後平野部分に存在していたのですが、日本海の波によって運ばれた砂礫がこの新潟湾の出口付近に堆積し、角田山から北東方向に弓上に細長く伸びる砂浜を形成し、それが新潟湾の開口部を狭くして湾の内部を潟湖とし、その広大な「新潟湖」内には次第に信濃川や阿賀野川の運んでくる土砂が堆積してそれらの河口部から順に干潟が形成されていきました。つまり、「新潟」という地はその名の通り、もともとは潟湖や干潟であったのです。
古代においては弥彦神社の地から新潟湾(新潟湖)に船を浮かべると、そこから湾内の海岸線に沿って南へ進むと、現在の信濃川本流と大河津分水路の分岐点の近くにあたる地点に信濃川の河口が開いており、そこから信濃川を遡れば中越地方の中心地帯へ向かうことになります。すなわち、長岡、川口を経て十日町盆地に至り、また川口にて信濃川に注ぐ魚野川を遡ればコシヒカリで有名な魚沼に至ります。
こういう感じですから、弥彦神社の地から伊夜彦神が越後国の開拓をスタートさせたというのは十分リアリティのある話です。いや神様が開拓したわけではなく、伊夜彦神という神を祖霊として祭祀する氏族が寺泊港の北の野積浜から越後国へ上陸し、弥彦山の南を歩いて回りこんで東山麓に出て、そこから新潟湾内から内陸水路で信濃川を遡って中越地方を開拓していったのでしょう。

そしてこの寺泊や野積のあたりというのは佐渡島の対岸に位置しており、佐渡島の南東岸から船を出して本州方面へ向かった場合、まず目につくのが弥彦山ということになります。つまり、この伊夜彦神を祖霊とする氏族は佐渡島から弥彦山を目標にして越後国に上陸してきたという可能性があるのです。
この弥彦山や寺泊、野積と佐渡海峡を挟んで向かい合う佐渡島の南端部に羽茂港があります。この羽茂港にて佐渡海峡に注ぐ河川に羽茂川があり、この羽茂川の中流沿いに佐渡国一宮の渡津神社がありますが、この神社は15世紀の洪水後に現在地に遷座したもので、元来は羽茂港の海岸線近くの羽茂川河口付近に存在したものであるといいます。
つまり本州方面へ向けて立っていた神社であり、渡津神社というその名の通り、「海を渡る港の神社」、つまり航海安全の神であり、しかもその立地から考えてその渡る海とは佐渡海峡に他ならず、佐渡島から寺泊・野積方面へ向けた航路の安全の神様であったのでしょう。
この渡津神社の祭神が五十猛命なのですが、この神の別名は大屋毘古神といい、これは弥彦神社の祭神の伊夜彦神の別名である大屋彦命と同一神となり、つまり伊夜彦神は佐渡島から越後国へやって来た神であり、その正体は五十猛命ということになります。そしてこの五十猛命はスサノヲの子であり、出雲系の樹木の神なのです。つまり、佐渡島から野積の浜に上陸して弥彦山から新潟湾に出て信濃川を遡って中越地方を開拓した氏族は出雲系氏族だったのです。
佐渡島の出雲系氏族が祀ったのがどうして樹木神である五十猛命であったのかというと、佐渡島は山岳地帯が大部分で、しかも極めて植生の豊かな島で森林資源が豊富であったからでしょう。佐渡島へやって来た出雲系氏族は当然、海洋民であったわけで、海洋民にとって森林資源は船の材料として不可欠だったので樹木神である五十猛命への祭祀が重視されたのでしょう。

佐渡島の中心部は北西の大佐渡山地と南東の小佐渡山地に挟まれた国仲平野で、本来はここに佐渡国一宮が存在して然るべきなのですが、それが島の南端の羽茂港に存在しているということは、古代における佐渡島の最も重要な地点が本州と連絡する港の部分であったということで、古代においてはまだ金山が発見されていませんから、わざわざ本州から佐渡島へ渡ってくるということはあまり考えられず、佐渡島というのは何処か別の場所から佐渡島へ渡ってきた人が、佐渡島を経由して越後国へ渡るということに存在意義のあった島であったのだといえます。
実は佐渡島と能登半島とは意外と近く、能登半島の最東端の長手崎から佐渡島の最西端の沢崎鼻までは約70km.しか離れていません。しかも対馬海流の本流は能登半島沖から佐渡島沖を通っており、対馬海流に乗れば能登半島から佐渡島はすぐ着きます。能登半島は日本海に大きく突き出した半島ですから、出雲方面から対馬海流に乗って来ると能登半島に辿り着く可能性が高く、また佐渡島に直接到着することも多いでしょう。

先述した上越地方や富山湾、七尾湾や金沢平野などに展開してオオアナムチやヌナカワヒメの祭祀を広めた出雲系氏族もまた、能登半島に立ち寄ってから上越地方の姫川河口部の糸魚川へやって来たのだと思われますが、同じく能登半島を経由しているといっても、この佐渡島や中越地方へ展開した氏族は、上越以西に展開した出雲系氏族とはまた異質な感じがします。
上越以西に展開した出雲族が第一目的が翡翠であったのに比べて、佐渡や中越以東へ展開した出雲族は翡翠には興味は示しておらず、オオアナムチやヌナカワヒメの祭祀も重視していないようであり、どうやら同じ出雲系の海洋民であるといっても、全く別系統のルートで、開拓重視でやって来たようなのです。
よくよく見てみると、上越地方というのは直江津以北の海岸付近の一部を除いては大部分がかなり険しい山岳地であり、ここは翡翠の産地であるということと、信濃と日本海を結ぶ河川の日本海への出口であるということにおいて意義がある土地であり、この上越地方だけで自己完結して存在できるような地ではないといえます。上越地方はあくまで富山湾地方か信濃地方に附属する存在であり、そうであるからこそ、後に5?6世紀に大和王権が富山湾地方を支配下とした時に、この上越地方まで容易く支配下とすることが出来たのであります。
一方、中越地方はその北部は新潟湾でありましたが、南部の内陸部は平地や盆地が広がり、その平地や盆地を信濃川やその支流が内陸水路を張り巡らしており、生産力の高い土地であり、それゆえ人口も多くなり国力が強くなりました。そしてその中越地方の内陸水路は上越地方にはほとんど繋がっておらず、大動脈の信濃川も中越地方からほぼ直接に信濃国へ遡っていき、上越地方にはほとんど流れません。
つまり、上越地方と中越地方は異世界なのであり、しかも上越地方よりも中越地方のほうが国力が遥かに上だといえます。そのような地勢的な相違を更に増幅した起源は、弥生時代にそれぞれの地に移住してきた出雲系氏族が別系統であったことにあるとも言えます。
こうして5?6世紀に北陸地方に進出してきた大和王権は、国力が弱く文化的に富山湾以西との繋がりが深かった上越地方までを勢力範囲とし、上越以西とは文化的にやや異質で国力も強かった中越地方は異民族の支配する地として進出は当面は断念することとしたのです。上越地方と中越地方の間で大和王権の支配地である「越」と蝦夷の支配地である「越の国」の境界線が引かれたのはこういうわけなのです。

こうして、出雲方面から能登半島、佐渡島を経由して寺泊や野積などに辿り着いた出雲系海洋民は、弥彦神社の社伝にあるように弥彦山の南の陸路で新潟湾の南部に直接進出した氏族もいたでしょうし、またそのまま海岸線を北上して新潟湾の開口部から湾内に入っていき、阿賀野川や信濃川をはじめとする新潟湾に注ぐ様々な河川を遡っていった氏族もいたことでしょう。
その新潟湾の北にある下越地方に向かっても、出雲系氏族たちは内陸水路や海路で進出していったとは思われますが、この下越地方は山岳部が多く、内陸水路も単調で他の地方との繋がりもほとんど無く、中越地方の附属地という印象が強く、特に下越地方の北部は険しい山岳地帯で出羽国との間を隔てられ、出羽国との緩衝地帯という性格が強い地となっています。その海岸線まで張り出した山岳地帯を東に見ながら日本海を沿岸伝いに北上して出羽国沿岸部に入っていくと、山岳地帯の途切れたところに庄内平野に辿り着くのです。
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