KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その245 科の国
さて、古代において新潟湾に注いでいた信濃川は現在日本最長とされている河川であり、古代においては新潟湾の分、短くなってはいましたがそれでも当時においても日本最長の河川であり、信濃川水系は数多くの支流を有し、非常に広範囲に亘っていました。
信濃川本流は中越地方の中央部を流れていましたが、川口で本流に注ぐ支流の魚野川の水源は越後国と上野国の国境の谷川岳であり、魚野川は三国山脈の山麓部を北東に流れて魚沼で北西に向きを変えて本流に合流します。また、十日町盆地南端の田沢で信濃川本流に合流する清津川は越後国と上野国の境界にある三国峠に水源を有し、三国峠を徒歩で越えれば利根川の最上流部に乗り換えることが出来ます。


中越地方から信濃川を遡っていくと信濃国に入りますが、信濃国はだいたい北信地方、東信地方、中信地方、南信地方に分かれます。
北信地方というのは、信濃国のうち、上田盆地の北端と松本盆地の北端を結んだラインより北側の地域を指し、東は三国山脈で上野国北部および中越地方と隔てられ、北は頸城丘陵と妙高高原で上越地方と隔てられ、西は飛騨山脈北部で越中国山岳部と隔てられ、南は散在する燕岳や四阿屋山、東太郎山、浅間山などを結んだラインで中信地方および東信地方と接する領域です。
東信地方というのは、信濃国のうち、上田盆地の北端と松本盆地の北端を結んだラインより南側で尚且つ、四阿屋山、王ヶ頭、霧ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳を結んだラインよりも東の地域を指し、東は関東山地で上野国南部および武蔵国と隔てられ、北は浅間山で上野国北部と隔てられ、四阿屋山や東太郎山を結んだラインで北信地方と接し、西は四阿屋山、王ヶ頭、霧ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳を結んだラインで中信地方と隔てられ、南は八ヶ岳や甲武信ヶ岳を結んだラインで甲斐国と隔てられる領域です。
中信地方というのは、信濃国のうち、上田盆地の北端と松本盆地の北端を結んだラインより南側で尚且つ、四阿屋山、王ヶ頭、霧ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳を結んだラインよりも西であり、尚且つ、野麦峠や鉢盛山、守屋山、入笠山を結んだラインよりも北の地域を指し、東は四阿屋山、王ヶ頭、霧ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳を結んだラインで東信地方と隔てられ、北は燕岳や四阿屋山を結んだラインで北信地方と接し、西は飛騨山脈南部で飛騨国と隔てられ、南は野麦峠と鉢盛山を結んだラインで美濃国と隔てられ、鉢盛山、守屋山、入笠山を結んだラインで南信地方に接する領域です。
南信地方というのは、信濃国のうち、鉢盛山、守屋山、入笠山を結んだラインよりも南側の地域を指し、東は赤石山脈で甲斐国および駿河国北部と隔てられ、北は鉢盛山、守屋山、入笠山を結んだラインで中信地方と接し、西は木曽山脈で美濃国と隔てられ、南は茶臼山と光岳を結ぶラインで遠江国および三河国に接する領域です。なお、ここでは木曽山脈以西の木曽地方は平安時代までの行政区分に則って美濃国の領域としました。
北信地方は長野盆地を中心としたエリアで、東信地方は上田盆地と佐久盆地を中心としたエリア、中信地方は松本盆地と諏訪盆地を中心としたエリア、南信地方は伊那盆地を中心としたエリアです。

信濃国では信濃川は千曲川と名前を変えますが、千曲川の水源は東信地方の東南端、信濃と甲斐と武蔵の国境にある甲武信ヶ岳に発し、そこから北に向かって流れた千曲川は、佐久盆地、上田盆地というふうに東信地方の中央部を北上して北信地方に入り、北信地方の東部を流れて長野盆地を北へ抜けてから東へ折れて越後国の中越地方へ流れていって信濃川になります。
この北信地方の長野盆地で千曲川に合流する犀川も信濃川水系を構成する支流です。犀川の上流部は3系統に分かれており、それは木曽山脈北部の駒ケ岳の北山腹に水源を発して美濃国の木曽地方北端部を北上して中信地方の松本盆地南部で梓川と合流する奈良井川の系統と、飛騨山脈の穂高岳に水源を発して中信地方の西部の山岳部を流れて松本盆地南部で奈良井川と合流して犀川を形成する梓川の系統、そして北信地方西部の飛騨山脈の山々に水源を発して南下して松本盆地北部の安曇野で犀川に合流する高瀬川の系統です。これら3系統が中信地方北端の安曇野で1本の犀川となり、北東方向へ流れていって北信地方に入り長野盆地の南部で千曲川に合流するのです。
こうして見てみると、信濃川水系というのは中越地方と東信地方の全域、北信地方と中信地方のほぼ全域を流れる水系であるということが分かります。信濃国における信濃川水系以外の水系としては、北信地方の北西部を流れて信濃川水系の高瀬川の系統と連絡して上越地方で日本海に注ぐ姫川と、中信地方の南東部にあって信濃川水系の奈良井川の系統と甲府盆地へ注ぐ釜無川との間の橋渡しをする諏訪盆地の諏訪湖とその附属河川の水系があります。また、南信地方は信濃川水系ではなく諏訪湖を水源として南下して伊那盆地を通って太平洋へ注ぐ天竜川水系の地域であります。
つまり、北信地方は信濃川水系の千曲川中流域と犀川中流域および高瀬川上流域、そして信濃川水系外としては姫川上中流域のエリアということになります。また東信地方は千曲川上流域のエリアということになります。そして中信地方は信濃川水系としては高瀬川以外の犀川上流域、そして信濃川水系外としては天竜川を除く諏訪湖水系のエリアとなり、南信地方は天竜川水系のエリアとなります。

こうして見てみると、信濃国を流れる河川の大部分は信濃川水系であることが分かります。信濃川水系の流れる国だから信濃国、というわけではなく、信濃国の領域を流れてから越後国へ向かう河川だから信濃川というのでしょう。この越後湾に注ぐ長大な河川の中上流部の広大な流域を一纏めにして、その地を「信濃」と名づけたので、その河川も「信濃川」と呼ぶようになったのでしょう。
「しな(科)」というのは「急な坂」という意味であるそうで、もともとは「急な坂の多い国」ということで「科(しな)の国」と言っていたのが「科野国」となり、後に字を改めて「信濃国」になったそうです。
「急な坂が多い」といっても、確かに急な坂の多い山国ではありますが、むしろ飛騨国や甲斐国のほうが山がぎっしり詰まっている感じで、信濃国は意外と盆地や高原が多く、広々とした印象があります。これは信濃国の領域が大地溝帯であるフォッサマグナ上にあり、本当に険しい日本アルプスや三国山脈、関東山地などは東西県境部にあるからです。
というよりも、昔の人はフォッサマグナなんて知りませんから、険しい山脈で東西を挟まれ、南北を日本海側の上越地方と太平洋側の東海地方の間に挟まれた、盆地や山々が点々とする南北に細長い内陸エリアに散在する各地域を一纏めにして大和王権側は「急な坂の多い国々」という意味で「科の国々」と呼んでいたのでしょう。
現地に先住している出雲系の住人たちはそもそもそのような一纏めの単位としての自意識すら無かったことでしょう。この「科の国々」のエリア内の各地域はそれぞれがそれぞれの周辺諸国との繋がりが大きく、「科の国々」というような一体感や求心力というものは乏しかったと思われるからです。
その地域が大和王権の連合内に入るようになってから、いつしか「信濃国」と総称されるようになり、その地域の大部分を流れてから1本にまとまり中越地方へ流れていく長大な河川を「信濃川」と呼ぶようになったのでしょう。

また、この信濃川水系をはじめとして、この信濃国を流れる河川は信濃国の各地方の周辺部において周辺の様々な国を流れる様々な河川とも連絡します。実際、信濃国は上記したように実に多くの国と境を接する国であり、まさに本州中央部において東西南北の交通の要衝となる国なのでした。
それは、そもそも信濃国そのものが本来は複数の性格の異なった地域の集合体であり、それらの地域はそれぞれの隣接する周辺国との繋がりが極めて強く、そしてそれでいて信濃国内部での隣接する地域同士の繋がりもそれなりに強く、そういった繋がりが連なっていって信濃国が形成されているのであり、また信濃国を東西南北の交通の要衝たらしめているのです。
例えば北信地方は上越地方との繋がりが最も深く、次いで中越地方との繋がりが深くなっており、東信地方は上野国との繋がりが最も深く、武蔵国、甲斐国北部との繋がりがそれに次ぎ、中信地方は甲斐国との繋がりが最も深く、飛騨国や美濃国との繋がりも深く、南信地方は遠江国との繋がりが最も深く、次いで駿河国、三河国、美濃国との繋がりが深くなっています。

また甲斐国は東は関東山地で武蔵国や相模国と隔てられ、北は関東山地と八ヶ岳で東信地方と隔てられ、西は八ヶ岳で中信地方と隔てられ、赤石山脈で南信地方や駿河国と隔てられ、南は富士山で駿河国と隔てられる領域で、信濃国と同じくフォッサマグナ上に位置する内陸国であり、本来は信濃国と一連の「科の国々」の一部の地域と捉えてもいい地域なのですが、地政学的に重要な位置にあるため、後に大和王権が信濃や関東に進出する際にこの地を根拠地としたために一国として特別視し独立した扱いとしたのです。
甲斐国は上記のように四方を山に囲まれており、その真ん中に割と広大な甲府盆地が広がっているという国で、「四方を山に囲まれた峡谷の国」という意味で大和王権側が「峡(かい)の国」と呼んでいたのが字を「甲斐国」に改めたものなのです。この場合も「科の国々」の場合と同じく、現地先住の氏族のほうは、内陸部の盆地の1つという自意識しか持っておらず、国という意識は無かったと思われます。この「峡の国」は、四方を山に囲まれていながら、山々の隙間が適当にあり、四方の国々と内陸水路でうまく連絡しているのが特徴となっています。「山の国」ではなく「峡の国」というのはそういう由縁でありましょうし、大和王権側がこの地を有用としたのもそうした理由からでしょう。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。