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日本史についての雑文その246 千曲川水系
では、その「科の国」と「峡の国」がどのように周辺の国々や地方と内陸河川ルートで繋がっていたのか見てみます。
まず、信濃川を中越地方の下流部分を北信地方へ向けて遡ると北の頸城丘陵と南の三国山脈の間の峡谷を遡るようになり、栄村で北信地方に入り、信濃川はここから上流は千曲川と名を変えます。

そのまま千曲川を南西へ遡っていくと飯山市を通って北から長野盆地に入ります。長野盆地は科の国で最大の盆地で、その規模は奈良盆地や京都盆地に匹敵するものですが、その長野盆地北部の長野市豊野町で千曲川に北から注ぐ鳥居川を遡ると野尻湖のすぐ南に達します。野尻湖は北信地方の北端中央部にあり、東に頸城丘陵、西に妙高高原に挟まれた隙間にあります。この野尻湖のすぐ北側の北信地方と上越地方の境界線の位置を関川の最上流部が流れており、千曲川水系から野尻湖を経由して関川に乗り換えることが出来ます。
この関川を下っていくと上越地方の頸城丘陵と妙高高原の間の峡谷部を北へ下っていき、上越市に入り、高田や春日山など上越市の中心部を通って直江津港で日本海に注ぎます。この上越市は律令制施行後は越後国の国府が置かれた地で、戦国期には上杉謙信も本拠地とするなど、江戸時代以前は一貫して越後国の中心地でした。翡翠を求めて北陸へやってきた出雲系氏族もこの地まで進出してきていましたので、この地から関川を遡り野尻湖を経由して北信地方に入り、鳥居川を下って千曲川に出て長野盆地の中心部へ進出してきたのでしょう。ちなみにこの野尻湖は寒冷地にありながら冬場でも凍結しない湖であり、一年中、水上交通路として使用可能です。

この野尻湖の周囲では4万年前のナウマン象やオオツノシカの化石、そして石器や骨器が見つかっており、人間が住んでいて狩猟生活を送っていたようです。これは年代的に7万年前に始まったヴュルム氷期の真っ最中であることから現生人類であると思われ、しかも2万年前のヴュルム氷期最盛期に歩いて日本列島へ渡ってきた新モンゴロイドではなく、縄文時代に日本へ波状的にやって来た旧モンゴロイドでもなく、早い段階で日本列島に渡来してきていた旧モンゴロイドで、日本列島で独自に寒冷適応した原日本人といえる人達でしょう。
おそらくそれほど多くはなかったであろう4万年前の彼ら原日本人がこの野尻湖周辺に住んでいたのは獲物となる大型哺乳類が生息していたからでしょう。フォッサマグナ上に盆地や山地が適度に分散する「科の国」の地形は大型動物にとって住みよい地であったのでしょう。特に湖のほとりは水呑場であり、動物の多く集まる場であったので絶好の狩場であったことでしょう。
こういう感じでありましたから、2万年前に樺太陸橋を渡ってユーラシア大陸からやって来た新モンゴロイド狩猟民も、動物を追っていくうちにこの科の国の地へ多くやって来て暮らすようになったと思われます。こうした狩猟民の暮らしやすい条件の整った地というのは北海道や東北にも多くあり、そちらのほうも人口は多かったとは思いますが、基本的にこのヴュルム氷期最盛期に南下してきた動物達というのは暖かさを求めていたので本能的に南へ南へ向かうわけで、しかもこの科の国の地は日本アルプスに阻まれてそれ以上西南方向へは進めない行き止まりの地ですから、必然的に逃げ場を失った動物達が溜まる地ということになります。そういう動物たちを追ってこの地に至った新モンゴロイド狩猟民も多く存在したと思われます。
彼ら新モンゴロイド狩猟民たちは北からやって来た人達であり、科の国へも北から入ってきたのです。主要ルートとしては東北地方から福島を経て中越地方かあるいは北関東を通って科の国の北側へ入り、そこから南下していったのでしょう。
そうして2万年前から新モンゴロイド狩猟民たちが科の国の各地に集落を築いて狩猟生活を送っていたところに1万2千年前にヴュルム氷期が終わり、その気候変動によりナウマン象などの大型哺乳類が絶滅し、その代わりに科の国の山地を覆うようになった落葉広葉樹林帯の自然の恵みが生じ、新モンゴロイド狩猟民たちは森林の狩猟採集民へと生まれ変わったのです。

そしてそこへ今度は旧モンゴロイドの海洋民たちが河川を遡ってやって来るようになりました。彼らが内陸へやって来る最初の動機は、彼ら自身が内陸に住むためではなく、内陸に住む新モンゴロイドの集落と交易を行うことでしたから、上流部にそうした集落が多く存在する河川を遡ってくることになります。科の国はもともと新モンゴロイド集落が多い地でしたから、旧モンゴロイドも多くやって来ることになり、そうこうしているうちに彼らは共生するようになり、混血して縄文人となっていきました。こうして科の国にはあちこちに多くの縄文人の集落が作られるようになりました。
そうした旧モンゴロイド海洋民が科の国へ入ってきたルートとしては、日本海側からが多かったでしょう。太平洋側は海が荒れがちで河川も急流で遡るのが大変でしたし、太平洋側の南洋系海洋民は内陸水路には不慣れでもありましたから、日本海側からの内陸水路を遡って東南アジア系海洋民が多く科の国へ入ってきたでしょう。
そのルートとしては新潟湾から信濃川を遡るルートがまず考えられますが、上越地方の直江津からは関川を遡って野尻湖に至り、そこから鳥居川で長野盆地に出て千曲川に合流するというルートでも東南アジア系海洋民は入ってきたと推測できます。

長野盆地北部の長野市北端で鳥居川の合流を受けた千曲川を更に南西へ遡っていくと、長野盆地の南部で西から犀川の合流を受けます。この犀川と千曲川の上流部に挟まれた地が川中島で、武田信玄と上杉謙信が何度も戦った地です。そして川中島から見て犀川を越えた北側に現在は長野市の中心部があります。
この犀川を西へ西へ遡っていくと長野盆地の西へ出て、南西方向へ峡谷を遡って松本盆地北端の安曇野へ至り中信地方北部に入ることになりますが、長野盆地の西で犀川に西から注ぐ土尻川という川があり、これを西へ西へと最上流部まで遡ると北信地方北西部の山中の美麻という地の峠を徒歩で越えて谷地川という川に乗り換え、これを下ると飛騨山脈の東の白馬村で姫川の最上流部に注ぎます。
この姫川を北へ下っていくと飛騨山脈と妙高高原の峡谷を通り上越地方へ出て、糸魚川で日本海に注ぎます。姫川は翡翠の産地として有名ですが、また古来より上越地方と北信地方を結ぶ「塩の道」としても使われてきました。つまり、海洋民が内陸の狩猟採集民に海岸で作った塩を運んだ道がこの交通路の起源であり、東南アジア系海洋民が上越地方から科の国へ入ってきたルートであったのです。

姫川の河口部である糸魚川市にある天津神社の境内社の奴奈川神社の社伝によれば、この地に住む奴奈川姫命のもとをオオアナムチの別名である八千矛命が訪れ、その間に生まれた子がタケミナカタで、タケミナカタは姫川を遡って信濃国に入り、そこを開拓したといいます。また上越市の居多神社もオオアナムチを主祭神とし、ヌナカワヒメとタケミナカタを配祀しています。どうやら上越地方ではこの3神はセットになっているようです。
このタケミナカタが記紀に登場するのは国譲り神話の部分においてです。オオアナムチに国譲りを迫るタケミカズチと力比べをして負けて諏訪まで逃げてきて追い詰められて「この地を出ないから許してくれ」と生命乞いをして許されるという、なんとも情けない登場の仕方ですが、これは記紀における創作の気配が濃厚で、もともとはタケミカズチのほうに付随していた力比べの神話で「やられ役」をタケミナカタに移し変えてそこに記紀特有の適当な縁起説話をくっつけたものでしょう。本来のタケミナカタは諏訪大社の祭神であり、元来は科の国の土着信仰の神であるようです。
つまり、もともとはオオアナムチとヌナカワヒメの子ではない独立した神格の神なのですが、出雲から翡翠交易路開拓のために糸魚川へやって来たオオアナムチを祭祀する出雲系氏族が糸魚川で現地信仰である翡翠の女神ヌナカワヒメの祭祀も取り入れた後、糸魚川から姫川を遡って科の国にも進出し、科の国の開拓を行った際に現地信仰であるタケミナカタ祭祀にも加わり、これら3神を一緒に祭祀するようになったのでしょう。
あるいは、もしタケミナカタ自体が出雲あるいは上越起源の神であったとしても、諏訪大社の祭祀は極めて特殊で、これが出雲や上越に起源を持つとは思えず、太古から諏訪の地で行われていた祭祀であることは確実であることから、とにかく諏訪大社の祭神は科の国の土着の神であることは間違いなく、もしタケミナカタが外部起源の神であったとしても、それは諏訪までやって来た出雲系氏族がそれを持ち込み、土着の信仰に習合させたのだということになります。

翡翠を目的として出雲から糸魚川にやって来た出雲系海洋民が科の国まで進出した理由は、やはり科の国が単純に人口豊富であったからでしょう。彼ら海洋民は交易の民でしたから、大きな人口地帯というのは、つまり彼らにとっては魅力的な市場であり生産地であったのです。
つまり、科の国には縄文時代から多くの縄文人の集落があり、そこに紀元前250年以降に上越地方から出雲系海洋民が糸魚川や関川、あるいは信濃川を遡ってやって来て水田稲作を伝えたのであろうと思われるのですが、それ以前から科の国ではタケミナカタ信仰、あるいは何らかの土着信仰が存在していたと思われ、それは縄文人によって担われていたのでしょう。
その縄文人は東北方面から科の国へ入ってきた新モンゴロイドと日本海方面から科の国へ入ってきた旧モンゴロイドとによって形成されたものですから、この姫川ルートも縄文時代における旧モンゴロイドの東南アジア系海洋民の進出ルートでもあったのでしょう。
この姫川は糸魚川静岡構造線という大断層線の上を流れる河川で、飛騨山脈と妙高高原の間の狭い谷を流れるため、河岸は崩れやすくなっており、現在は白馬村が水源とされるのですが、元来の水源は青木湖で、白馬村と青木湖の間の流路は河岸の崩落によって堰き止められたといわれていますから、古代においては姫川を遡ると青木湖まで達したと思われます。
この糸魚川から青木湖までの姫川遡行ルートの間、西には飛騨山脈の山塊がびっしりと詰まっており、隣接する越中方面へ抜けるルートは全く存在しません。東には青木湖の手前で妙高高原の山塊が途切れた地点で先述の谷地川を介して、犀川の支流である土尻川と連絡して長野盆地方面へ行くことが出来ます。

姫川の水源である青木湖は糸静線の上に形成された断層湖で、水深は58m.とかなり深く、現在の長野県では最深の湖です。この湖は流入河川というものが無く、それでいて水位が減らないところから、断層上の湖であることや、極めて湖底が深いことなどから、おそらく湖底にかなりの量の湧水があると思われます。現在の姫川の水源である白馬村内の湿原も、青木湖の湧水と地底の水源が繋がっているといわれています。
つまり、この青木湖は古代においては北へは姫川を流出し、南に向けては農具川を流出していたのです。この農具川は糸静線に沿って南下して中綱湖、木崎湖を経て更に南へ流れていき、大町市南部で飛騨山脈から流れてきた高瀬川に合流するのであり、つまり古代においては姫川から高瀬川までは青木湖と農具川を経由することで船に乗ったまま行き来することが出来たということになります。
この高瀬川が糸静線の上を南へ向けて流れていき、松本盆地北部の安曇野で南から流れてきた犀川に合流して山中の峡谷部を北東へ向かい長野盆地へ入り千曲川に合流するのですから、糸魚川から長野盆地、そして千曲川を介して中越地方や東信地方、犀川を介して中信地方まで船に乗ったまま移動することが出来るということになります。こう考えれば古代においては姫川も信濃川水系の一部であったとも解釈でき、北信地方を流れる河川は全て信濃川水系であるとも言えます。

高瀬川が北から流入して犀川に合流する松本盆地は糸静線の上に南北に細長く形成された盆地で、盆地内を犀川が南から北へ向かって流れます。この松本盆地より南は中信地方という扱いになります。つまり、だいたい高瀬川合流点より上流の犀川流域は中信地方に含まれるということです。
この松本盆地中央部で犀川に南西から合流してくるのが梓川で、この梓川は西方の飛騨山脈の山塊内の渓谷を遡っていき、槍ヶ岳の東山腹の水源にまで達しますが、その途中で焼岳の南の安房峠を徒歩で越えると飛騨国に入り、平湯温泉で高原川の最上流部に乗り換えて、高原川を北へ下っていくと宮川と合流して神通川となり富山湾に注ぎます。
また安房峠の南東で梓川に注ぐ奈川の最上流部まで遡ると、乗鞍岳の南の野麦峠を徒歩で越えれば飛騨国に入り、飛騨川の最上流部に乗り換えることが出来て、飛騨川を下れば木曽川に合流して伊勢湾に注ぎます。また、野麦峠の東で奈川に注ぐ境川の最上流部は境峠を徒歩で越えて美濃国の木曽地方に入り、木曽川の最上流部に乗り換えることの出来る場所です。
これらの梓川上流部の安房峠、野麦峠、境峠は飛騨山脈を越えて東北日本と西南日本の間を行き来できる貴重な交通路ですが、きわめて標高の高い地点にあり、危険なルートであり、冬場は凍結して使用困難となるルートでもありましたので、そんなに多くは使用されなかったと思われます。
この梓川が合流する松本盆地中央部より南の犀川の最上流部は奈良井川といいまして、この奈良井川を遡っていくと松本市の中心部の西を南下して松本盆地の北へ抜けて木曽山脈の山中へ入り、美濃国の木曽地方の駒ケ岳の北山腹の水源にまで至りますが、山中の険しい渓谷を孤立して流れるため、上流部での他の河川との連絡はありません。
ただ、松本市中心部の東で奈良井川に合流する田川を遡ると糸静線に沿って南下し、松本盆地の南東の塩尻に至り、ここで船を下りて徒歩で塩尻峠を越えて南東へ行けば諏訪盆地に入り横河川に乗り換えることが出来ますが、古代においては諏訪湖は現在の2倍ほどの広さがあり、北西方向にも少し広かったので、すぐに諏訪湖に注ぐことになります。

さて、一方、北信地方の中心である長野盆地の南部で犀川の合流を受けた千曲川のほうは、そのまま下っていけば中越地方に入り信濃川となり新潟湾を経て日本海へ注ぐのですが、犀川合流地点から更に千曲川を遡っていけば、まずは南西に進み、次いで千曲市で南東に向きを転じて遡るようになり、上田盆地に差し掛かったところで東信地方に入ることになります。つまり東信地方というのは千曲川上流域ということになります。
上田盆地は北西方向に千曲川が貫流する東西にやや長い盆地で、中心都市は上田市で戦国時代は真田氏が根拠地とした地です。この上田盆地の東部、上田市中心地のやや上流部で千曲川に北東から注ぐ神川を遡ると菅平に至り、鳥居峠を徒歩で越えれば上野国北部に入り、嬬恋村で吾妻川の最上流部に乗り換え、吾妻川は利根川に合流して古代においては江戸湾に注いでいました。
神川の合流地点から千曲川を少し遡った上田盆地の東端で南から千曲川に注ぐ依田川を遡っていくと、霧ヶ峰の北西の和田峠で砥川に乗り換えることが出来て、砥川は諏訪湖の北岸に注ぎます。また、依田川に途中で注ぐ大門川を蓼科山の西の水源まで遡ると白樺湖のすぐ東に至り、白樺湖から流出する音無川を下っていくと八ヶ岳連峰の西の蓼科高原を通り上川に合流し南東から諏訪湖に注ぎます。上田盆地や佐久盆地のある東信地方と中信地方の諏訪湖の間は八ヶ岳連邦、霧ヶ峰、美ヶ原などの山塊によって塞がれているのですが、この和田峠や白樺湖のルートはその間を連絡する数少ないルートとなります。

そして上田盆地から更に東へ千曲川を遡っていくと、小諸で千曲川は南へ方向を転じて佐久盆地の中を南北に貫いて遡るようになります。佐久盆地は北を浅間山、東と南を関東山地、西を八ヶ岳連峰に囲まれた高原に位置する盆地で、千曲川の最上流部が南北に貫流します。中心都市は小諸市や佐久市となります。
佐久盆地の中央を南北に流れる千曲川には上記の東西南北の山地から数多くの支流が流れ込んできますが、北側の浅間山は険阻なので峠を越えることは困難です。しかし東側の関東山地はさほど険阻ではなく山々の密度もさほどではないので所々で佐久盆地から峠を越えて上野国に入ることが可能です。その中でも代表的なのが、佐久市で千曲川に注ぐ湯川を北東に遡って軽井沢の最上流部に至り、そこで碓氷峠を徒歩で越えて上野国南部に入り碓氷川に乗り換え下り、烏川、そして利根川に合流していって江戸湾に注ぐというルートです。
これ以外の千曲川から関東山地の峠を越えて上野国に入るルートも、最終的には全て伊勢崎市より上流で利根川に合流します。そして佐久穂で千曲川に注ぐ抜井川の最上流も十石峠で神流川の最上流部に乗り換え、この神流川を下っていくと上野国と武蔵国の境界線を流れ下り、伊勢崎の南で利根川に注ぎます。
一方、佐久盆地の南側の関東山地は非常に険阻なのですが、南東端と南西端にそれぞれ隙間があり、そこから峠越えをすることが可能です。このあたりは千曲川の水源部に極めて近い支流にあたりますが、まず北東端は信濃と甲斐と武蔵の三カ国の国境に位置する三国峠を越えて中津川の最上流部に乗り換えるルートです。中津川はほどなく荒川に合流し最後は江戸湾に注ぎます。また北東端は八ヶ岳の南東麓の信濃と甲斐の国境付近まで千曲川の最上流部で行って徒歩で国境を越えて甲斐国に入り、清里で須玉川の最上流部に乗り換え下り、塩川、そして釜無川に合流して甲府盆地へ向かうルートです。
そして佐久盆地の西側にある八ヶ岳連峰の東山腹からも多くの支流が千曲川に注いでいますが、八ヶ岳連峰は極めて険阻なので佐久盆地方面からこれを越えて反対側の諏訪盆地へ行くことは困難です。そして八ヶ岳連峰の西山腹からも東山腹と同じように、諏訪盆地へ向けて多くの河川が流れ降りていきますが、これらはみんな西へ流れて諏訪湖へ注ぎます。ただ八ヶ岳連峰西山腹から1本だけ、八ヶ岳連峰の南部の立場岳から流れる立場川だけが信濃と甲斐の境の富士見町で南の駒ケ岳から流れてきた釜無川に合流し、その合流点から北西に少し歩くと、北西に流れて諏訪湖に注ぐ宮川の最上流部に乗り換えることが出来るのです。つまり諏訪湖から宮川を遡って富士見町で釜無川に乗り換えて甲斐国へ入っていくことによって、中信地方から甲斐国への移動も出来るのです。
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