KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その247 八ヶ岳
しかし、ここまでの千曲川水系の流れをおおまかに見てみると、中越地方から千曲川を遡って科の国に入ってきた後、長野盆地南部で千曲川と犀川の2本に分かれ、千曲川は科の国の東側、犀川は科の国の西側をそれぞれ遡ってきて、千曲川は八ヶ岳連峰の東山腹まで至り、犀川は諏訪湖に至り、諏訪湖に注ぐ川は八ヶ岳連峰の西山腹まで至るというような感じになります。つまり、長野盆地で2本に分かれた千曲川と犀川が科の国の東西両翼をぐるっと回って遡ってきて、最上流部の八ヶ岳で再び1つになるというイメージなのです。
河川の上流部は下流部よりも当然標高が高い位置にあるわけで、科の国の中を流れるあらゆる河川の行き着く最上流部が八ヶ岳にあるということは、つまりこれは、四方をびっしり山塊で囲まれた科の国の中で、八ヶ岳連峰と諏訪湖のエリアが最も標高が高いということになります。
実際、八ヶ岳の最高点は2899m.であり、これはその北に位置する2530m.の蓼科山と共に、飛騨山脈や赤石山脈などの科の国の外周部の山を除いた科の国の内部の単独峰の中では飛びぬけて高い標高を誇り、千曲川を遡って中越地方から北信地方に入ってきて長野盆地の川中島あたりから南側の科の国の奥地のほうを眺めた場合、蓼科山とその背後の八ヶ岳とで構成される八ヶ岳連峰がひときわ高くそびえて見えることになります。それは上越地方から姫川を遡って北信地方に入ってきて青木湖や木崎湖に船を浮かべて南方の科の国の奥地を眺めた場合も同じことになります。

いや、太古の時代においてはそれどころではなく、八ヶ岳はもっと高くそびえていた可能性もあります。八ヶ岳には「富士山と背比べをして勝利し、富士山に蹴飛ばされて八つの峰になった」という神話が伝えられています。これはつまり、かつては八ヶ岳は1つの峰であり3776m.の富士山よりも高かったということになりますが、八ヶ岳は火山であり、会津の磐梯山が水蒸気爆発によって2000m.を超える1つの峰が3つに割れて低くなったような現象をもっと大規模にしたようなことが起きた可能性はあります。
実際、標高1500m.以上のエリアの広さで比べれば、富士山の場合は直径約10km.の円形の領域であるのに比べて、八ヶ岳の場合は長径約15km.で短径約10km.の楕円形の領域となり、八ヶ岳のほうが広いのです。八ヶ岳の場合は現在、この上に8つの峰が乗っかっているのですが、これが水蒸気爆発で分裂したものであり、もともとは富士山のような1つの峰の成層火山が乗っかっていたとするならば、その標高は富士山を超える可能性はあるでしょう。
とにかくこのエリアは特殊な地域で、諏訪湖は中央構造線と糸静線という日本を代表する2本の大断層線が交差する特異点であり、この諏訪湖周辺には他の地域では考えられないような複雑な圧力が地殻に加わっており、特に諏訪湖の東方の八ヶ岳連峰は、北東方向へ延びてきて諏訪湖を通った中央構造線が突然鋭角に「く」の字に曲がり、南へ向きを変えてその後南東方向へ進んでいく蝶番のような地点で、その蝶番に挟まれた内側にあたるのが八ヶ岳連峰の山塊なのです。つまり鋭角に曲がった中央構造線に両側から挟まれて圧力を受け押し上げられ、マグマ活動が誘発されて形成したのが八ヶ岳連峰であり、その凄まじいエネルギーを考えれば、富士山を超える高い山が形成されても不思議ではない位置にあるとはいえます。

もし八ヶ岳が富士山を超える標高3800m.以上の高峰であったとするならば、その姿は圧倒的な科の国の主峰として他を圧して君臨していたと思われます。ただ、歴史時代においては八ヶ岳の噴火の記録は無く、もし水蒸気爆発を伴った噴火があったとしたなら縄文時代以前ということになります。つまり、もし3800m.超級の八ヶ岳が存在していたとしても、それを目撃したのは縄文時代の科の国に住んでいた縄文人たちであったということになります。
科の国は野尻湖の4万年前の狩猟遺跡が示すように太古から人類が生息し、その獲物となる動物も豊富であり、また縄文時代以降は植生も豊かで、縄文時代の早期には既に多くの新モンゴロイド狩猟民たちが東北方面からやって来ていたと思われます。また、縄文時代以降は日本海方面から東南アジア系の旧モンゴロイド海洋民たちも、その多くの新モンゴロイド狩猟民たちとの交易のために科の国へやって来たと思われます。
彼ら縄文人の先祖たちの多くは、中越地方から信濃川を遡って長野盆地へ入ってきたか、あるいは上越地方から関川を遡って野尻湖へ出てきたか、あるいは姫川を遡って青木湖や木崎湖へ出てきたか、いずれにせよまず北信地方に入ってきたはずです。その北信地方から南の科の国を眺めた時、その眼に映ったのは、四方を山々の壁に囲まれた箱庭のような地形の中で、手前の北信地方を最も低地部分として、千曲川と犀川の2本の川が左右に分かれてどんどん奥のほうの上流部分へと上っていくという双六のような「急な坂の国」、まさに「科の国」であったのであり、その箱庭の中に点在する山々の中でもひときわ高い山が箱庭の最も奥の最も高い地点、千曲川と犀川という2本の川がぐるっと回って奥で1つになる双六の「上がり」にあたる地点にそびえているのが遠く見えたことでしょう。それが八ヶ岳であったのです。

その八ヶ岳が3800m.超級の高峰であったなら、そのコントラストはより明確であったことでしょう。しかしそれが、あくまで神話は神話であり、八ヶ岳は太古から変わりなく2899m.を最高峰とする八つの峰の連峰であったとしても、八ヶ岳が科の国の最高峰であることには変わりないのであり、北信地方から南を見た縄文人の祖先たちは科の国の最奥部の最高地にそびえる最高峰を見て、それを特別視し、神聖視した可能性は非常に高く、そうでなかったとしても、とにかくそこに行ってみようと思った可能性は非常に高いといえるでしょう。
実際、彼らが狩猟したり採集したりする動植物は山岳地帯に多く存在するのであり、八ヶ岳連峰ほどに巨大な山塊で、周辺に多彩な盆地を隣接させている地は、他にここを凌ぐほどの好条件を備えた地も無かったので、現実的な条件としても優越した地であったのです。
また、縄文人にとって不可欠の道具であった石器の材料となる黒曜石が八ヶ岳連峰周辺の山塊では採集できたので、このあたりに生活拠点を置くのは有利なことでありました。先述の上田盆地から諏訪湖へ抜ける和田峠などは縄文時代の黒曜石の産出地として有名な土地です。
こうして、八ヶ岳連峰の周囲には多くの縄文人の集落が形成され、科の国全域に広がった縄文人集落の中の中心地となりました。この中で特に縄文時代の遺跡が集中するのは蓼科山も含んだ八ヶ岳連峰の西南山麓の裾野でした。何故なら、こちらには科の国における最大の湖である諏訪湖が存在したからです。湖というのは動物にとっては水飲み場であり、多くの動物が集まりますから絶好の狩場でもあります。また、豊かな水のある地は人間にとっても当然暮らしやすい土地でもありましたし、植物もよく茂っていました。

諏訪湖は糸静線と中央構造線の交点の上に存在する湖で、この2つの断層線、特に糸静線の断層に沿って地面が陥没して出来た窪地に河川の水が流れ込んで溜まって形成された断層湖です。この陥没は凄まじい規模で、糸静線に沿って現在の諏訪湖の北西部と南東部の平地部分、つまり諏訪盆地西部一帯が陥没し、その南端は現在の諏訪市の南端部にまで達していました。そしてその陥没は300m.もの深さを持つ地割れであったのです。
つまり、そこに河川の水が溜まって形成された諏訪湖は、現在の諏訪湖の2倍ほどの広さを持ち、300m.もの水深を有する湖であったということになります。ちなみに日本最深の湖は秋田県の田沢湖で、その水深は423m.ですから、300m.の水深といっても、別にありえない話ではありません。
問題は、その諏訪湖が現在は2分の1ほどの大きさとなり、水深は平均4m.になってしまっていることです。何故そうなったのかというと、河川の運んできた土砂が泥となって湖底に堆積して300m.もの泥土層を作り、次第に北西部と南東部を干潟化していき、とうとう陸地化したからです。

諏訪湖に流入する河川は八ヶ岳連峰、蓼科山、霧ヶ峰、鉢伏山などの諏訪湖を囲む山塊から発しますが、その河川はどれも短いものばかりではありますが、非常に急流で高地から流れ落ちてくるため、運んでくる土砂の量が多めで、しかもその河川の本数が極めて多いため、諏訪湖に入って流れが淀んだ際に湖底に沈む土砂の量が半端なものではないのです。おそらく糸静線の大陥没によって諏訪湖が形成される以前はこれらの山塊から流れ落ちてきた急流はそのまま諏訪盆地で合流して天竜川となって南へ流れ出していたのでしょう。
河川というものは急流で流れている間は土砂も一緒に流れていくのですが、下流に行くにつれて流れが緩やかになるので土砂が川底に溜まっていくものなのです。ところが諏訪湖で流れがいったん堰き止められたために八ヶ岳連峰などの山塊から流水と共に運ばれてきた土砂が湖底に落ちていき溜まっていくことになったのです。
天竜川は急流で有名な河川で、その運搬する流水量は膨大なものです。その流水を放出しているのは天竜川の水源の諏訪湖であり、それだけの量の水を放出しているのに諏訪湖が枯れてしまわないのは、それと同じだけの膨大な量の水が諏訪湖に流入しているからです。つまり周囲の山塊から諏訪湖へ流入する水の量は極めて膨大なのであり、であるとするならば、同時に極めて膨大な土砂が諏訪湖に流入し、水は天竜川に出て行きますが、土砂の多くは湖底に落ちていくのです。

とにかく湖底に300m.の分厚さで土砂が溜まっているわけですから、長い年月をかけて溜まっていったのでしょう。もし短期間で300m.の土砂が堆積したのだとしたなら、残り4m.分もあっという間に埋まってしまうはずであり、そんな事態にはならずにここ何十年か諏訪湖の水深に大きな変化は無いということは、この湖底の土砂は膨大な時間をかけて堆積したはずであり、つまり諏訪湖は縄文人がその周囲に集落を築き始めた頃には既にこの地に存在し、現在の2倍ほどの面積を有して水深はまぁ現在よりは深かったでしょうけど、既に300m.からはだいぶ後退していたと思われます。
そして、この諏訪湖エリアに出雲系氏族が進出してきた紀元前250年頃には、諏訪湖の北西部と南東部は河川が運んできた土砂が湖底にだいぶ堆積してきて、干潟地帯となりつつあったと思われます。干潟というのは干潮時は陸地で満潮時は水の底となる地域で、海だけでなく湖だって月の影響を受けて干満はしますから、干潟はできます。湖は真水で出来た海ですから「水海」であり、水海にできる干潟ですから「水潟」、つまり「みなかた」となります。この「みなかた」の神が諏訪大社の主祭神である「タケミナカタ」なのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。