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日本史についての雑文その248 諏訪大社
信濃国一宮である諏訪大社は上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮という4つの神社から成り立っていますが、もともとは上社は上諏訪社、下社は下諏訪社といって別々の神社でした。上社前宮と上社本宮は現在は諏訪湖の南東部、諏訪市と茅野市の境界あたり、諏訪湖へ注ぐ宮川の流域にあります。また下社春宮と下社秋宮は諏訪湖のすぐ北にあり、春宮は諏訪湖に注ぐ砥川のほとりにあり、秋宮は春宮のすぐ南東にあります。
これらの4社は現在とりとめのない位置にあるように見えますが、古代においては諏訪湖は現在の2倍の面積を有し、北西と南東に広がっていましたから、これら4社は全て諏訪湖の湖畔に存在したと推測されます。

いや、厳密に言えばおそらく最初は上社前宮だけが諏訪湖から少し北西に離れた高台に1つあり、残り3社は諏訪湖のほとりに後から作られたのだと思われます。何故なら、この諏訪大社の祭祀の起源は上社前宮にあり、そこで行われる諏訪大社の根源的な祭祀には諏訪湖はほとんど関係ないからです。

前宮の代表的祭祀である例大祭は御頭祭といいまして、境内の十間廊で五穀豊穣が祈願されるのですが、その際の諏訪明神へのお供え物が鹿の生首なのです。鹿の頭を供えるので「御頭祭」というわけです。さすがに現在は生首はやめて剥製の首を供えているそうですが、これは完全に山の神に対する狩猟民の祭祀です。五穀豊穣というのも後代になって農耕導入後に付け加えられたもので、本来は山の神に豊猟を感謝し祈願する縄文時代以来の祭りだったのでしょう。
ちなみに日本書紀においてヤマトタケルが科の国に偵察的に入り込んで山々を巡っている時に、大山(八ヶ岳?)の頂上に辿りついて食事をした際に、その山の神がヤマトタケルを苦しめるために姿を現すのですが、その際、白い鹿の姿となって現れるのです。これも、科の国では山の神と鹿は深い関係にあるということなのでしょう。
諏訪大社は五穀豊穣、狩猟、風、水、農耕の神として古くから信仰されている神社であり、その主祭神が諏訪明神であり、その正体はタケミナカタとされていますが、これは重層的に様々な祭祀が習合したもので、その原初の形は縄文時代の森林の狩猟採集民の山岳信仰に行き着くのだと思われます。実際、諏訪大社の祭祀でタケミナカタに関連する祭祀はほとんどありません。
諏訪大社の神事といえば最も有名なものは寅と申の年、つまり12年に2度行われる式年造営御柱大祭です。諏訪大社の周囲の山中から切り出した16本の樅の巨木を4本ずつ4社の社殿まで運んできて4社のそれぞれの四方に立てて神木とする祭で、それを運搬する氏子が巨木に乗ったまま急な坂を下っていく「木落とし」で有名です。
これもどう考えても山や森に関連した山の神や樹木の神に関連した祭であり、湖は何の関係もありません。この祭の他の地域での類例の無さなどを考えても、縄文時代の自然信仰に遡る祭であり、もともとは上社前宮で行われていた神事を4社で行うようになったものなのでしょう。

上社の前宮の祭祀が山の神への信仰であったとしたなら、それはどの山への信仰であったのかですが、現在でも式年造営御柱大祭において上社用に切り出される樅の木は八ヶ岳山麓であり、前宮が八ヶ岳を真っ直ぐ見上げる地にあることからも、八ヶ岳に対する信仰であったのではないかと思われます。
八ヶ岳の標高は、隣の蓼科山と共に科の国で唯一、2500m.の森林限界を超えており、平地部分から山容を仰ぎ見ることが出来るという点など、霊峰として信仰の対象となる要件を備えており、白山信仰や立山信仰が存在して八ヶ岳信仰が存在していないのはやはり不自然というしかなく、それが諏訪大社の信仰へと形を変えたと考えれば不自然さも解消するのです。
ただ、この上社前宮の縄文信仰は単なる八ヶ岳への山岳信仰というよりは、八ヶ岳への山岳信仰も含めた様々な縄文的自然信仰をミックスしたものであったようです。それを象徴しているのが諏訪大社で信仰されている諏訪地方の土着神であるミシャグジ神です。竜蛇神、山神、風神、水神、祟り神など様々な神性の集合体であり、男性器で表されることが多く、男性器をかたどった陰陽石や立石、また塞神や岐神などの道祖神など、縄文時代の石棒や巨石への信仰にも関係があり、この石の棒に神が宿るという信仰が御柱信仰の原型ともいわれています。とにかく相当、原初的な自然信仰であったようです。
諏訪大社ではこのミシャグジ神をタケミナカタの子である御佐口神としていますが、実際、諏訪大社、特に上社で行われている祭祀のほとんどはタケミナカタではなく、このミシャグジ神への祭祀であるようです。つまり、もともと諏訪大社の上社の祭祀は縄文時代から続く諏訪地方の自然神であるミシャグジ神への祭祀であったのですが、それに後に干潟の水神であるタケミナカタが習合したのでしょう。

諏訪湖の南東岸に位置していた上社の本宮は背後にある守屋山を神体としているのですが、これはもともと存在していた前宮と別個に存在したのではなく、当初は前宮の広大な神域の一部として本宮の地もあったようで、前宮と同じくミシャグジ神への祭祀が行われていたのであろうと思われますが、この本宮に相当するエリアが諏訪湖と守屋山に挟まれた地勢であったために、次第に独自の自然崇拝の形態をとるようになっていったのでしょう。縄文の自然信仰は後の神道などとは違い、そのあたりは自由というか、流動的で融通無碍であったのでしょう。
その上社本宮のほうの自然信仰の形態は、まず守屋山への山岳信仰と、諏訪湖に面していることから水神的性格を強め、それに蛇神や性神としてのミシャグジの特性をミックスさせたもので、すなわち「御神渡」という諏訪湖の湖面の氷が盛り上がって裂けるという奇現象について、大蛇の姿をした男神のミシャグジが女の神のいる対岸へ渡っていくという説明をつけて神事を執り行ったのです。大蛇と男根とを重ね合わせたミシャグジ的な発想だといえるでしょう。
そして、その男神が渡っていく先の対岸にある女神のいる場所としては、下諏訪温泉の湧いていた地における祭祀がその女神にあてられ、それが後に下社の秋宮となったと思われます。

こうした縄文的な自然信仰が行われていた諏訪湖エリアに紀元前250年過ぎに出雲系氏族は上越地方から姫川や関川を遡って科の国へ進出してきて、長野盆地、上田盆地、松本盆地、佐久盆地などに水田稲作を伝えて開拓をしつつ、特に科の国の中でも多くの縄文人集落の集まっている諏訪地方へもやって来たのです。彼らの目的な交易であったのですが、水田稲作をはじめとした農耕技術を伝えて土地の開拓を手助けしたりもしました。それも結局は交易のためになるからでした。
そうした出雲系氏族は水路を使ってやって来たので、多くは犀川経由で諏訪湖の北西岸の干潟地帯、つまり下社方面に進出してきて、そして諏訪地方の現地の祭祀を取り入れていったと思われます。その祭祀とはミシャグジ信仰であったのですが、その蛇神であり水神であるというミシャグジの性格によく似た出雲系の神であるコトシロヌシを彼らは祭祀していました。実際、上越地方の関川河口部の直江津の居多神社の祭神として、この科の国へも進出してきた出雲系氏族はタケミナカタではなくコトシロヌシを祀っていたという説もあります。
そこで彼らはコトシロヌシをミシャグジに習合させて、科の国の諏訪湖北西岸の干潟地帯、つまり「水潟」エリア特有の出雲系水神、コトシロヌシの諏訪湖バージョンで、出雲系氏族用のミシャグジ神として「タケミナカタ」という神を新たに作ったのです。つまり、タケミナカタはもともとはコトシロヌシが原型であったのであり、だから居多神社ではタケミナカタとコトシロヌシが同じ神のように扱われているのです。
こうして出雲系氏族はタケミナカタという名でミシャグジ神を祭祀することにしたのです。何せミシャグジ神はあまりにも漠然とした存在で、「ミシャグジ」という呼び名自体、今はここで便宜的に使用しているだけのことで、諏訪地方では「ミシャグジ」という呼び名さえ固定されていたわけではなかったのです。そういう漠然とした諏訪地方の自然崇拝を出雲系氏族は「タケミナカタ」という名前で固定化して祭祀することにしたのです。
そして、もちろん自分たちの元来の水神であるコトシロヌシも一緒に祭祀しました。いや、そもそもミシャグジ信仰というのは根源的な自然信仰の姿であり、出雲地方におけるコトシロヌシやオオアナムチの原型も一種のミシャグジであったとも考えられるのですが、出雲系の神々の場合は、原型はミシャグジであったとしても、それはシナ大陸の蛇神信仰や農耕祭祀、祖霊祭祀などの影響を受けて体系化されたものであり、東北日本における縄文時代の混沌とした信仰の名残を色濃く残したミシャグジ信仰とは既に様相の異なったものとなっていました。
このように出雲系氏族はタケミナカタ(出雲型ミシャグジ神)とコトシロヌシを祀る神社を諏訪湖北西岸の湖のほとり、下諏訪温泉の北西、砥川の河口部に作ったのです。これが下社の春宮の起源となります。

この諏訪湖北西部のエリアは出雲系氏族の勢力が強くなっていき、このエリアにおける祭祀は農耕的な性格の強い祭祀となっていきます。そうした影響はもともとこのエリアに存在した下諏訪温泉にあった下社の秋宮のほうにも及んできて、もともとここもミシャグジ信仰の神社であり、ミシャグジはタケミナカタなのですから、そこでもタケミナカタとコトシロヌシが祭祀されるようになっていきました。
その一方、この下社秋宮は「御神渡」の祭の女神としての役割があったので、この2神に加えて女神も祀る必要があり、ヤサカトメという名のタケミナカタの妻神である女神を創作したのです。タケミナカタはそもそもミシャグジであり、ミシャグジたる男神が諏訪湖を横切って訪ねてくる女神ですから、それはつまりミシャグジの妻神でありタケミナカタの妻神であるということになるのです。そうしたミシャグジの妻神に具体的な名前を与えたという形になります。
こうして下社秋宮ではタケミナカタとヤサカトメの夫婦神とコトシロヌシを祀るようになり、出雲系氏族の本来の宮である下社春宮のほうでもヤサカトメも祀るようになり、この2つの宮は祭神を共通させて同じような祭祀を行うようになり、同一化が進みました。そこで共通して下諏訪社と名乗るようになり、神体も共有するようになり、毎年2月?7月は春宮に神体を安置し、8月から翌年1月までは秋宮のほうに神体を安置するようにしたのです。この時から「春宮」「秋宮」という呼称が使われるようになったのであり、それ以前は「下諏訪社」という共通の名称も無かったか、あるいはどちらか片方のものだったのでしょう。
そして2月には秋宮から春宮へ、8月には春宮から秋宮へと神体の移動を行うようになったのですが、古代においては春宮も秋宮も諏訪湖に面していたので、神体の移動は船を使って行ったのです。この名残が現在でも8月1日に行われる「御舟祭」という下社の例大祭で、神体を舟に載せて春宮から秋宮へ遷座する儀式です。

一方、諏訪湖の南東岸のほうの上社、つまり上諏訪社のほうの祭祀はもともとのミシャグジ信仰の中心地であるだけに、狩猟的な性格の強い祭祀であり続けましたが、出雲系氏族の働きで諏訪地方一帯にも農耕文化が広まるようになると、出雲族の下諏訪社の祭祀における「ミシャグジ=タケミナカタ」という概念も広く認知されるようになり、上諏訪社のほうでも祭神であるミシャグジをタケミナカタと呼ぶようになっていき、またその妻神であるヤサカトメも一緒に祀るようになりました。
こうして、上諏訪社のほうはタケミナカタとヤサカトメを主祭神とするようになり、前宮を中心に本宮が付随する形で従来の縄文型の祭祀が続けられましたが、室町時代ぐらいに本宮のほうに祭祀の中心が移ったようです。一方、下諏訪社のほうではタケミナカタとヤサカトメの夫婦神に加えて兄神としてコトシロヌシを祀り、春宮と秋宮とで一体化した農耕的な祭祀が行われましたが、諏訪地方の伝統的な縄文型祭祀も取り入れていました。
ただし、この上諏訪社のタケミナカタは単に旧来の狩猟型縄文型の自然神であるミシャグジにタケミナカタという名を冠しただけのものであり、下諏訪社における出雲化されたミシャグジとしてのタケミナカタとは、名前が単に同じというだけのことで、その本質は根本的に違った神性を持った存在でした。つまり、名前は同じでも全く違った別の神を祀っているわけですから、上諏訪社と下諏訪社は全く別々の神社であったのです。それが明治維新以降は4社で1つの諏訪大社という形になったというわけです。

このように紀元前250年以降の弥生時代の科の国においては諏訪地方や八ヶ岳連峰周辺を中心として、各地で縄文時代起源の自然信仰と出雲系の水神信仰とが習合した信仰が行われるようになっていき、後に4?6世紀に大和王権の勢力がこの地に進出してきて、この地を「科の国々」と呼んで大和王権の連合に加えるようになった後も、この地の祭祀に関しては何ら変わることはなく、新たにやって来た大和王権側の人間もこの地の祭祀をそのまま受け入れることになったのでした。
それは上諏訪社や下諏訪社を中心としたこの地の祭祀体系が非常に強固なものであったということもありますが、それよりも基本的に、この科の国が人口豊富な地であり、そこへやって来た大和王権側の人間は絶対的に少数派であり、現地の祭祀や文化に同化していくしかなかったのだということが言えると思います。
それは弥生時代に科の国に出雲系氏族がやって来た時にも同じことが言えたわけで、既存の縄文人の人口が圧倒的に多い糸静線より東の東北日本の場合は、どうしても既存の縄文型の自然信仰の要素が濃く残り、その分、出雲系信仰は希釈されて薄まる傾向があるのだといえます。
この科の国で見られたようなパターンの縄文起源の自然信仰と出雲系開拓神信仰との融合的な祭祀形態というのは、その細かな内容の相違はあっても基本的には糸静線より東の東北日本における共通のモチーフであり、そういうものがつまり、蝦夷の信仰形態となっていくのです。そしてそれに対する後発の南洋系海洋民や大和王権側の対応というのは、地域ごとに、時代ごとに、それぞれ違ったものになっていきます。
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