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日本史についての雑文その249 峡の国
さて、諏訪湖の南東岸にあった上諏訪社の前宮の目の前を流れて諏訪湖に南東から注いでいたのが宮川ですが、この宮川を南東方向へ遡ると富士見町の最上流部で八ヶ岳南山麓から流れてきた立場川に乗り換えることが出来ます。この立場川はすぐに赤石山脈北部の駒ケ岳から流れてきた釜無川と合流して峡谷を南東方向へ流れ、ここからまさに、後に大和王権が「峡(かい)の国」と呼ぶようになる地、つまり甲斐国に入り甲府盆地に入っていきます。
また、八ヶ岳東山麓から流れてきた大門川は峡の国の北端の清里で千曲川の支流からの乗り換えを受けて須玉川に合流し、韮崎で塩川に合流して甲府盆地に入り、釜無川と並行して糸静線上を南東方向へ流れ、甲斐市の西端で釜無川に合流して甲府盆地中央部へ進みます。これで中信地方、東信地方から甲斐国へ内陸水路が繋がったわけです。

この諏訪湖から続く宮川、釜無川のラインは、姫川、農具川、高瀬川、犀川、奈良井川、田川、諏訪湖と続いてきた、東北日本と西南日本を分ける大断層線である糸魚川静岡構造線の更なる続きの上に乗ったものでした。
また、科の国の最高峰である八ヶ岳の北東山麓からは北へ向かって千曲川が流れ下っていくという形になり、また諏訪湖北東部の鉢伏山なども八ヶ岳と共に諏訪湖を囲む一連の八ヶ岳山塊だと解釈すれば、そこからは田川の水源など、犀川の最上流部が何本も発して北へ向かって流れていくのであり、そして八ヶ岳の南東山麓からは大門川が塩川に注いで南東方向の甲府盆地へ向けて流れ下り、また八ヶ岳の南山麓から流れ下った立場川は南東方向の甲府盆地へ向けて流れる釜無川に合流していき、釜無川は塩川の合流も受けて甲府盆地から更に南へ流れていき、八ヶ岳の南西山麓から流れ下った宮川や上川などの数多くの河川は諏訪湖を経由して天竜川となって南へ流れ下り、伊那盆地を通って南下していくのです。
このように見てみると、八ヶ岳から南北へ、それぞれ日本海や太平洋へ至る主要河川が流れ下っているわけで、まさに八ヶ岳は中央分水嶺に位置するのだということになります。

後に大和王権によって「峡(かい)の国」と呼ばれる地の中心部である甲府盆地ですが、北は関東山地、西は赤石山脈、東は大菩薩連嶺、南東に御坂山地に囲まれた逆三角形の形をした広大な盆地です。南東の御坂山地の南には富士五湖のうち河口湖をはじめ、山中湖を除く4つの湖が連なり、その南に富士山がそびえています。
甲府盆地には、関東山地と赤石山脈の間の北西方向から釜無川が流れ込んできて、関東山地と大菩薩連嶺の間の北東方向から流れ込んでくる笛吹川が甲府盆地南部で釜無川と合流して富士川となり、御坂山地と赤石山脈の間の盆地南端部から流れ出て、富士山の西に沿って流れ下って駿河湾に注ぎます。また大菩薩連嶺と御坂山地の間の盆地西端の笹子峠を通って大月に出て相模国方面に連絡することも出来ます。
甲府盆地の広さは長野盆地と並んで中部地方最大級で、奈良盆地や京都盆地とも匹敵しますが、古代においてここが生産性豊かな土地であったかというと、そういうわけでもありません。山林が多かったので狩猟採集生活を送る縄文人はそれなりに多く居住していたようですが、この甲府盆地は水田稲作には不向きであったので出雲系氏族はあまり開発しなかったようです。

この甲府盆地は糸静線という大断層線の上に位置しており、断層線に沿った深い峡谷を通って甲府盆地に流れ入ってくる釜無川の上流部は河岸が崩れやすく大量の土砂を運んできます。また反対側から甲府盆地に流入してくる笛吹川も急峻な峡谷部から急流で下りてくるので多くの土砂をもたらし、この両川とも山地からいきなり盆地へと落ちてくることになります。これは富山平野に流れ込む河川と同じような感じであり、こういう場合、扇状地が形成されます。
扇状地の扇頂部や扇央部は川が伏流水となったり地下水が深いところに位置したりするので水田には不向きで果樹栽培や養蚕に向いた土地なのですが、甲府盆地でそれらが行われたのは江戸時代以降のことであり、戦国時代以前はあまり有効活用されていませんでした。むしろ扇状地の周辺部のほうが水田適地となりますが、甲府盆地の場合、扇状地周辺部にあたる釜無川と笛吹川の両川の川下部分が両川の合流地点となっており、ここで両川は氾濫して湿地帯を形成し、水田には不適な地となっていました。いや、古代においてはこの合流地点一帯である甲府盆地南部は湖であったともいわれており、そうなると水田を作ることは不可能となります。
こういう感じでしたから、戦国時代までの甲斐国は貧しく、釜無川と笛吹川の治水によって盆地南部を農耕適地として甲斐国を豊かにした戦国大名の武田信玄は地元では非常に尊敬されているのです。その信玄が本拠地とした甲府盆地北部中央の甲府市地域は信玄の父の信虎の代から甲斐の中心となった地で、古代における「峡の国」の中心地は甲府盆地東部の笛吹川の上流域でした。
この地は典型的な複合扇状地の扇央部で、水田稲作には不適な地で、弥生時代においても狩猟採集生活が中心的であった地でした。釜無川を通って科の国から進出してきた出雲系氏族がこのような地を中心地としたということは、これは農村共同体を形成するためというよりは、この甲府盆地を通り道と見なして、更に東へ進出するための拠点として捉えていたということです。

つまり、関東山地の甲武信ヶ岳に発する笛吹川に甲府盆地東部で合流する重川を遡ると甲府盆地の北東にある柳沢峠の南まで至り、柳沢峠を歩いて越えれば丹波川に乗り換えることが出来、丹波川は武蔵国に入った地点の奥多摩で多摩川に合流してそのまま武蔵国南部を流れて江戸湾に注ぐのです。
また、重川が笛吹川に注ぐ同じ地点で東から合流してくる日川を遡ると、甲府盆地の東の笹子峠を徒歩で越えて笹子川に乗り換え、笹子川を下っていくと大月で桂川に合流し、桂川は東へ進んで相模国に入ると相模川に名を変えて、相模川は相模国中央部を南下して相模湾に注ぎます。
また、この桂川を大月から逆に水源まで遡るとそこは富士山の北東山麓の山中湖なのですが、山中湖の南の篭坂峠を歩いて越えて駿河国に入れば富士山の東山麓の広大な富士平原に出て、ここには富士山の東山麓から何本もの河川が並行して東へと流れており、これらの南北に並んだ河川は互いに非常に近接しているので乗り換えが容易で、これらの河川は結局は南へ流れて狩野川に合流する流れと東へ流れる酒匂川という二通りの流れに集約されていきます。狩野川に注ぐ流れは富士山の東側を南下して沼津で伊豆半島方面から流れてきた狩野川に合流してから駿河湾東部に注ぎ、酒匂川は相模国に入ってから南下して小田原で相模湾西部に注ぎます。
このように、甲府盆地東部の笛吹川に重川と日川が合流する地点は「峡の国」から関東地方へ進出する際の最重要拠点であり、この地点のすぐ西の石和温泉の地に律令制下では甲斐国の国府が置かれていました。つまりこの地が古くから「峡の国」の中心地でもあったということであり、「科の国」から釜無川に乗って進出してきた出雲系氏族も甲府盆地南部で笛吹川を遡り、この石和の地を拠点として、更に東の武蔵国や相模国、また駿河国方面へも進出していったのでしょう。また、もちろん、笛吹川を遡らずにそのまま富士川を下って富士山の西側を南下して駿河湾西部方面へ進出していった出雲系氏族も多くいたことでしょう。

なんにしても、紀元前250年以降に信濃国方面から甲府盆地に進出してきた出雲系氏族にとっては、この地は通り道という扱いであったのであり、あまりじっくりとこの地で開拓を行い農村共同体を作ろうというような感じではなかったようです。そういうわけで、笛吹川と重川と日川の合流地点のすぐ東で日川に注ぐ京戸川を少し遡った地にある一宮浅間神社が甲斐国一宮となっているのでしょう。
この一宮浅間神社は富士山の神を祀る神社で、日本全国に400ヶ所存在する浅間神社の1つです。浅間神社の総本社は静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社であり、この甲府盆地の一宮浅間神社はその末社に過ぎません。ただ、甲斐国一宮となっているくらいですから、全国の浅間神社の中でも社格は高いほうなのでしょう。また、実際に富士山を遥拝できる場所にあることから、実際にこの地で古代から富士山への山岳信仰が行われていたのでしょう。そういう意味では一宮となるだけの由緒もあるのだといえます。
しかし、ここで注目すべきは、この一宮浅間神社が富士山への山岳信仰を起源とすることはいいとしても、その山岳信仰がそのまま剥き出しになったままであり、例えばその上にオオアナムチやコトシロヌシ、スサノヲなどのような出雲系の開拓神が習合したりしていないということです。つまり、この甲府盆地においては開拓神としての出雲神への信仰が生じるほどには出雲系氏族による本格的な開拓が行われなかったということなのです。
まぁそれだけ富士山への信仰のほうが強固なものであったという可能性もありますが、同じように富士山信仰が強いはずの駿河国においては出雲神への信仰が残っているのですから、やはり甲府盆地は出雲系氏族にとっては開拓地としてはあまり重要ではなく、関東地方や駿河国への通過点という性格が強かったのでしょう。ただ、それは極めて重要な通過拠点ではあったわけですが。

そのように甲府盆地を通過点として扱ったのは、4世紀後半以降に駿河国からこの地に進出してきた大和王権も同様であったと思われます。甲府盆地南部の釜無川と笛吹川の合流地点から少し笛吹川を遡った地点、河岸の南にある曽根丘陵には大和王権の影響を示す古墳群があります。この地はもし甲府盆地南部が湖であったとしたなら、その湖を南から見下ろす地でありました。ここから笛吹川を遡れば石和温泉の国府に至り、南の駿河国から富士川を遡ってからこの曽根丘陵の北の水路を通って大和王権の勢力は甲府盆地の東部へ進出してきたと思われます。この古墳群の築造年代がだいたい4世紀後半とみられることから、4世紀後半以降に大和王権勢力がこの地に本格的に進出したとみられます。
そして、その際の大和王権勢力も、甲府盆地東部にもともと存在した富士山への山岳信仰にほとんど手を加えることなく、そのまま一宮浅間神社の祭祀を尊重したのであり、そこに何らかの大和王権的な祭祀、例えばアマテラス信仰やイザナギ信仰、八幡神への信仰、あるいは住吉神や宗像神への信仰を持ち込もうとはしなかったのです。また、大和王権系の氏族の祖霊信仰なども持ち込まれなかったのです。
それはつまり、4世紀後半以降の大和王権勢力もまた、この地を信濃国や関東地方への進出を睨んだ拠点であり通過点として重要視していたということであり、この水田稲作に不適な土地に一大生産拠点を築こうという気はあまり無かったということを意味しているのだといえます。まさにこの地は大和王権から見て通り道としての「峡谷の国」、つまり「峡(かい)の国」であったのです。
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