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日本史についての雑文その250 富士山
ただ、甲府盆地東部の一宮浅間神社についてもう少し厳密に言えば、確かにこの地でも富士山は見ることは出来ますから、この地でも富士山信仰は行われていたのでしょうけれど、甲斐国における富士山信仰の本来の中心地はここではなく、もっと富士山の近くであったはずなのです。実際、富士山の神への祭祀は古来、富士山の麓で行われていたのであり、甲府盆地では富士山を眺めるには良いのですが、富士山の神への祭祀を行うには遠すぎるのです。
ですから、一宮浅間神社は平安時代にこの地に遷座してきたもので、もともとは富士山麓に一宮があったとも言われ、それは一宮浅間神社から御坂山を隔てた南で河口湖の北岸にある浅間神社か、あるいは甲府盆地南部の釜無川と笛吹川の合流地点の東にある一宮浅間神社であると言われています。
まぁ、どちらにしても甲斐国一宮は浅間神社なのですが、富士山周辺には他にも多くの浅間神社があり、甲府盆地東部の一宮浅間神社の元宮がどれであるのかちょっと分からない状況です。いや、一宮浅間神社も含めて、河口湖北岸の浅間神社や甲府盆地南部の一宮浅間神社にしても、突き詰めていけばみんな、もっと根源的な富士山信仰に行き着くことになるのです。
富士山周辺には富士山の神を祭祀する浅間神社が各地にあり、上記三社以外の主なものとしては、山梨県側には富士吉田市上吉田にある北口本宮富士浅間神社、同じく下吉田にある小室浅間神社、富士山二合目にある小室浅間神社の山宮、同じく富士山二合目にある富士御室浅間神社、河口湖南岸にある富士御室浅間神社の里宮があり、静岡県側には富士宮市の駿河国一宮の富士山本宮浅間大社、静岡市の静岡浅間神社、富士市の富知六所浅間神社があり、そして富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があります。要するに、これらの総体としての富士山信仰が甲府盆地東部の一宮浅間神社の元宮ということなのです。

富士山は標高3776m.の日本列島の最高峰であり、単独峰として日本最大の山体を有し、また典型的なコニーデ型の非常に美しい山容を誇る活火山ですが、富士山がこのような姿になったのは地質学的にはごく最近のことで、極めて若い火山なのです。
富士山周辺一帯は数百万年前から火山活動を行っていましたが、約70万年前に始まった火山活動が標高2300m.ほどの小御岳火山を形成し、約10万年前から約1万5千年前にかけての火山活動によって標高3000m.ほどの古富士山が形成されました。日本列島で現生人類の先祖たちが最初に見た富士山はこの古富士山であったでしょう。
この古富士山の火山活動が1万1千年前ぐらいから溶岩流主体に変わり、大量に噴出す溶岩が約8000年前までに現在の富士山の山体を形成しました。この時期は縄文時代の早期にあたり、活発に噴火を繰り返して巨大な山容となっていく富士山の形成を縄文人たちは目撃していたことになります。ただ大量に溶岩を噴出する富士山は危険な山でしたので、遠くから眺めていたのでしょう。

江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎の名作に「富嶽三十六景」があり、実際は追加分も含めて46枚の絵が残されています。46箇所の富士山観覧ポイントのうち、その大部分は現在の静岡県、山梨県、神奈川県、東京都に含まれるのですが、遠隔地としては茨城県が1枚、千葉県が2枚、愛知県が2枚、そして長野県が1枚あります。
その長野県の1枚というのが諏訪湖の北西岸から諏訪湖越しに小さく見える富士山であり、縄文時代も諏訪湖からは宮川、釜無川、甲府盆地と続く糸静線という断層のラインの向こうによく富士山が見えたと思われます。いや、おそらく古富士山のままであったなら他の山に埋没して目立たなかったでありましょうが、縄文時代の早期において活発に噴煙を上げる古富士山は諏訪湖から嫌でも目についたことでしょうし、8000年前に形成した標高3776m.の巨大な富士山の山体も一際目立ったものだったでしょう。
北からやって来た新モンゴロイド狩猟民は現在の長野県地方に北から進入してきた者が多かったでありましょうし、そこに日本海側から旧モンゴロイド海洋民がやって来て混血して縄文人を形成し、諏訪湖周辺には数多くの縄文人集落がありました。その諏訪湖周辺の縄文人たちは富士山が形成されつつあるのを目撃していたということになります。
火山活動についての知識などあまり無かったであろう彼らは、それが危険なものだという認識も遠方から見る限りではあまり無く、そこへ行ってみたいという好奇心を持ったことでしょう。そこで、富士山の方向へ向かって宮川を遡り、釜無川に乗り換えて下って甲府盆地へ入り、そこから富士山に近づくには、そのまま釜無川から富士川の流れに乗って富士山の西の峡谷を下っていき富士山南西部の裾野が開ける現在の富士宮市や富士市のあたりに出るか、あるいは甲府盆地から南東の御坂山地を越えて富士五湖のある富士山北麓へ出るか、どちらかのルートになります。
こうして、今から8000年前以降、噴火活動が一旦収まり、新たに形成された標高3776m.の巨大な富士山の麓に、だいたい北麓と南西麓を中心に、多くの縄文人が居住するようになったと思われます。南西麓のほうの縄文人には太平洋からやって来た南洋系海洋民も合流したことでしょう。

その後は火山活動も平穏な時代が長く続き、富士山には植物も茂り動物も住み着き、縄文人たちは富士山からの恵みを受けて平和に暮らすようになったでしょう。その上、人の立ち入りを拒むような山頂地帯の峻厳さや、その神々しいまでの美しさや巨大さへの畏怖もあり、おそらくこの段階で富士山への何らかの信仰が生じていたと推測することは出来ます。それは白山や立山への山岳信仰と同様のものであったと思われます。
しかし、今から5000年前から3000年前にかけて富士山山頂火口からの噴火活動が活発化し、しかもこれが溶岩流、火砕流、火山灰や火山弾の噴出から山体崩壊まで、ありとあらゆる噴火現象を伴った強烈なもので、富士山麓の縄文人集落が壊滅的な被害を受けるようになると、火山活動の猛威への畏怖から火山の神である「浅間大神」への信仰が生じたのです。
「アサマ」というのは古語で「火山」を意味し、富士山は昔は「アサマ山」と呼ばれていました。というより、この5000年前の噴火活動期以降、その火山活動の強烈な印象ゆえに「アサマ山」と呼ばれるようになったのでしょう。アサマ山の火山の神ですから「アサマ大神」というわけです。
富士山が「富士山」と呼ばれるようになったのは何時のことなのかハッキリとは分かりませんが、「万葉集」の中には奈良時代初期の歌人である山部赤人の歌で富士山という言葉の出てくるものがあり、また「竹取物語」のラストには富士山命名譚が収録されており、「竹取物語」は成立は平安時代初期ですがその設定年代は奈良時代初期であり、おそらく奈良時代から富士山と呼ばれるようになったのでしょう。それ以降、浅間山といえば碓氷峠の北にある世界有数の噴火回数を誇る活火山のことを指すようになったのです。
つまり、飛鳥時代以前は富士山は「浅間山」であったのであり、富士山の神は火山神である「浅間大神」であり、富士山周辺の縄文人たちは5000年前から「浅間大神」の怒りを鎮めるための祭祀を行うようになりました。3000年前を最後に富士山頂からの溶岩噴出は休止し、その後は断続的に山腹の側火山からの噴火を繰り返すようになりましたが、そのように時々怒りを爆発させる「浅間大神」への畏怖の感情は逆にますます強くなり、機嫌を損ねないように手厚い祭祀が継続したと思われます。これが現在に続く浅間神社の祭祀の起こりです。

そうした「浅間大神」への縄文祭祀が行われていた富士山麓へ、紀元前250年以降には諏訪湖方面から甲府盆地経由でかつての縄文人と同じルートで、富士山北麓あるいは南西麓へやって来ました。この頃の富士山は山頂からの溶岩流出は止まっていたものの、おそらく山頂からは常に噴煙が上がっている状態であったと思われ、諏訪湖北西岸に進出してきた出雲系氏族には嫌でも目につき、興味をそそられたことでしょう。
そうして富士山麓にやって来た出雲系氏族ですが、富士山麓はとにかく溶岩がゴロゴロしている不毛の地が多く、浅間大神の怒りを鎮める祭祀空間となっており、出雲系氏族が開拓するような地ではなかったので、富士山麓にはそれほど多くは居つくわけではなく、居ついた者も縄文人と一緒に浅間大神への祭祀に加わるようになっただけだったと思われます。それで富士山麓には出雲系祭祀は存在しないのです。
出雲系氏族は、富士山北麓へ来た氏族はそのままそこに残って浅間大神を祭祀したか、あるいは山中湖から桂川を下り大月を経由して相模川で相模国へ向かうか、あるいは山中湖の篭坂峠を越えて酒匂川で小田原方面へ行くか、あるいは南下する河川の流れに乗って三島や沼津方面へ向かったか、あるいは甲府盆地へ戻って柳沢峠を越えて多摩川で武蔵国へ向かうなどを選んだと思われます。
また、富士山南西麓へ来た出雲系氏族はそのまま富士宮市あたりに残って浅間大神を祭祀したか、あるいは富士川を更に下り富士市あたりで居住したか、あるいは駿河湾に出て西へ向かい静岡平野の干潟地帯から安倍川流域へ遡っていき開拓していったか、あるいは駿河湾内を東へ向かって沼津から狩野川水系の流域へ進出していったと思われます。

駿河湾は相模トラフの位置にあり、トラフというのは海溝のことですから水深は非常に深く、駿河湾は日本一深い湾で、水深は2500m.に達します。水深が深いということは冷たい深層海洋水が湾内に流れ込んでくるということであり、また黒潮起源の暖かい海水が障害物に阻まれずに湾内に届くということでもあり、冷たい海水に生息する海洋種も、暖かい海水に生息する海洋種も共に湾内に生息するという、非常に多様な水棲生物がいるということであり、特に湾の西側は海底地形が複雑で富士川、安倍川、大井川など湾へ注ぐ河川も多く海水の栄養価が高く、好漁場を形成していましたので出雲系海洋民にとっては暮らし良いところであったでしょう。
そういうわけで出雲系海洋民は駿河湾西部の天然の良港であった焼津港を拠点として漁業を行うようになり、その北東にある安倍川河口部の干潟地帯を遡った安倍川流域を開拓して農村共同体を形成するようになりました。駿河湾西部では大井川流域はあまりに急流で暴れ川であり開発は難しい地であり、赤石山脈の南端から発する安倍川の流域あたりが丁度よい感じだったので、ここが駿河湾地域における出雲系氏族の拠点となっていきました。
この安倍川河口部の東には現在は静岡平野が広がって静岡市市街地や清水港などが存在しているのですが、この安倍川河口から清水港までの東西に広がるエリアは古代においては駿河湾に繋がる比較的浅い入り江で、現在は静岡平野にある有度山、谷津山、八幡山などの低い山々は古代においては入り江内に浮かぶ島であり、細長い賤機山は当時は北の陸地から入り江に向けて突き出た半島でした。この入り江に安倍川などの河川の運んできた土砂が堆積して干潟地帯を作り、それが後に静岡平野になっていったのです。
この静岡平野の南部、駿河湾にほど近く、安倍川のやや東に登呂遺跡があります。これは水田や井戸、竪穴式住居や高床式倉庫などの弥生時代末期の集落の遺跡で、だいたい2?3世紀の頃のものとされていますが、安倍川の運んできた土砂が堆積して出来た自然堤防の上に作られた集落であったようです。おそらくこれは出雲系氏族の集落であったのでしょうけれど、2?3世紀ぐらいになると地球が寒冷化して海水面が下降して、干潟地帯に対する海側からの影響力が低下して、静岡平野も河川の運んでくる土砂による陸地化が相当進んでいたということなのでしょう。そして、この3世紀ぐらいからこうした新たな陸地を開拓すべく、大和王権の勢力も駿河湾方面へ進出してくるようになるのです。
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