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日本史についての雑文その251 天竜川
出雲系氏族はこうして諏訪湖から宮川、釜無川、富士川を通って駿河湾へ進出してきたわけですが、それとは別に諏訪湖から天竜川を下って南下してくるルートもありました。
天竜川は諏訪湖から唯一流出する河川で、西の木曽山脈と東の赤石山脈の間の狭い渓谷を急流で流れ下り南下していって浜松市と磐田市の間で遠州灘に注ぐ河川ですが、流域が急峻な地形であるために暴れ川として有名であり、大雨などが降るとすぐに氾濫しました。

諏訪湖より南の天竜川流域の信濃国を南信地方といいますが、この南信地方は赤石山脈の西にあたりますから、糸静線よりも西ということで、地質学上は西南日本に含まれます。ただ西にはやはり急峻な木曽山脈が走っていますから、西にある美濃国との連絡はなかなか困難で、恵那山あたりまではとにかく天竜川を下っていくしかない状態が続きます。
諏訪湖のすぐ南の天竜川上流域には、天竜川に沿って伊那、駒ヶ根、飯田まで南北に細長く続く伊那盆地が広がっていますが、ここは冬場でもそれほど積雪が多くなく、夏場などは結構暑くなるくらいで温暖な気候であり、ここにも出雲系氏族は開拓を行い共同体を形成したと思われます。
ただ、この飯田から下流は天竜峡となっており、川幅が狭く曲がりくねっているので大雨時には氾濫を起こしやすく、溢れ出た川水によって伊那盆地が洪水になることもしばしばであったので、なかなか苦労も多かったようです。

この天竜峡は河川交通の難所でしたが、この天竜峡に入る前の伊那盆地南端で天竜川に西から注ぐ阿知川を遡っていくと、木曽山脈の南端の恵那山の北の神坂峠を歩いて越えて美濃国の木曽地方に入ることが出来て、湯舟沢川の上流部に乗り換えることが出来ます。湯舟沢川は中津川市で木曽川に合流し、美濃国、尾張国を流れて伊勢湾に注ぎます。
こちらのほうが河川交通としては楽ですが、しかし神坂峠は、日本書紀においてヤマトタケルも通ったと記されているように古くから通行されていた峠ではありますが、その記述部分でヤマトタケルでさえ越えるのに苦労しているのであって、こちらは陸路の難所でありましたので、このルートもそんなに楽に使われたわけではなく、むしろ普通に天竜峡を下る人のほうが多かったでしょう。
天竜峡を通って天竜川を更に南下していくと、南信地方の南端部で西から和知野川が合流してきます。これの上流部である売木川を遡っていくと茶臼山の北で水源に達し、そこで売木峠を歩いて越えれば矢作川の最上流部に乗り換え、西三河地方を流れて知多湾に注ぎます。
また、天竜川を更に下って南信地方を出て遠江国と三河国の国境を形成した後、遠江国に入った地点、浜松市の北部で西から注ぐ相川を南西へ遡っていくと、東三河地方との境界にある鳶ノ巣山の北で宇連川の最上流部に乗り換えて、そのまま東三河地方を南西へ下っていき長篠で北から下ってきた豊川に合流し、最後は三河湾に注ぎます。
また、長篠で宇連川に南から注ぐ黄柳川を遡っていくと最上流部の黄柳野まで至り、陣座峠を徒歩で越えて遠江国に入り、陣座川に乗り換えて、そのまま下っていくと都田川に合流してすぐに浜名湖に注ぎます。あるいは宇連川の最上流部の支流である大島川は鳶ノ巣山の南西で都田川の最上流部に乗り換えて、都田川は遠江国西部を流れて浜名湖に注ぎます。浜名湖は現在は南端部は遠州灘に直接繋がっていますが、古代においては南端から河川を出し、その河川が天竜川河口の少し西で遠州灘に注いでいました。

天竜川は相川の合流を受けた後は南下を続けて二俣で北東から二俣川の合流を受けますが、その二俣川を上流の百古里川まで遡ると万瀬で敷地川に乗り換え、敷地川は途中で一宮川が注ぎ、そこからまた南下していくと海岸近くで太田川に合流してそのまま天竜川河口のやや東で遠州灘に注ぎます。
太田川は遠江国の東部を南北に流れますが、その最上流部は遠江国の東端に至り、市尾で家山川に乗り換え、家山川は家山で大井川に合流します。大井川は遠江国と駿河国の境界を形成して駿河湾の西端に注ぐ川で、赤石山脈の稜線のすぐ東に沿って流れ、水源は甲府盆地の西の赤石山脈の山中、白根山の南にまで遡ります。
また、赤石山脈の南端に発する気田川は南西に流れて二俣のやや北で天竜川に注ぎますが、気田川の上流部の支流の熊切川は赤石山脈の南で大井川に注ぐ境川に乗り換えることが出来ます。
そして天竜川は二俣より南は平野部に出てそのまま浜松市と磐田市の境界線を形成しながら遠江国の中央部を真っ直ぐ南下して遠州灘に注ぎます。天竜川は膨大な土砂を河口まで運びますが、遠州灘で太平洋の荒波を受けるため干潟は形成せず、代わりに周辺の岸に砂丘を形成することになりました。

なお、フォッサマグナ西端の大断層線である糸魚川静岡構造線の南端部がどうなっているのか諸説ありますが、上越地方の姫川河口の西にある山塊である親不知の東を糸静線の北端として、そこから姫川のライン、青木湖、木崎湖、農具川、高瀬川、犀川、奈良井川、田川のライン、諏訪湖、宮川、釜無川のラインと南下してきた糸静線はそのまま釜無川の延長である富士川のラインで駿河湾に至って終わるとも言われています。
しかし、富士川河口部が南端であれば、それは「糸魚川富士構造線」であり、「糸魚川静岡構造線」ではないということになります。「糸魚川静岡構造線」の字義の通りであれば静岡市内を流れる安倍川のラインが糸静線の南端ということになります。また、遠江国と駿河国を分ける境界という意味で、文化的意味での糸静線ということでは大井川のラインを糸静線の南端とする説もあります。
ただ、ここでは糸静線というものを地質学的な意味合いではなく、また単なる国境のラインでもなく、人間はおろか動植物の行き来さえ困難とする山塊の連続線によって東北日本と西南日本を遮断して、それぞれの地域で暮らす人々の民族文化を異質なものとするラインとして考えますので、その南端部に関しては、その北端部がそうであったように、河川ではなく山塊というものを基準にして考えたいと思います。
もちろん、それは内陸部における日本アルプスのように絶対的障壁ではなく、沿岸部においては象徴的なものにしかならないのでありましょうけれど、それでも糸静線の効力をいくらかは発揮するものであり、また糸静線の本来持つ意味を再確認する意味でも、そのように考えたほうがいいでしょう。
つまり、糸静線は単なる河川や湖を形勢する断層線を結んだラインなのではなく、東北日本と西南日本を隔てる山塊の連続線の東に沿って存在する河川や湖の断層線の連続なのです。そのように考えるならば、親不知という日本海に突き出した岩塊から始まり飛騨山脈の南端まで続き、そして木曽山脈の北端部を経由して、赤石山脈の北端から南端の大無間山まで繋がってきた東西遮断山塊は、そのまま南南東に延長して駿河湾の西端部に至り、静岡市と焼津市の境界の日本坂、そして大崩海岸という駿河湾に突き出した岩塊に終わると考えるのが一番自然というものでしょう。
そう考えるならば、その日本坂や大崩海岸を含んだ山塊のすぐ東を流れる河川は安倍川であり、やはり糸静線の南端部に至るラインは安倍川のラインによって形成されるということになります。
おそらく、糸静線の南部は、甲府盆地から南へ出た富士川のラインが身延山の東で富士川から離れて南西にラインを変えて、富士川に南西から注ぐ大城川のラインに沿って進み、安倍峠を越えて安倍川の最上流部に乗り換え、その後は安倍川のラインに沿って南下していくのであり、そして最後は大崩海岸の東端に終わるということになるのです。
つまり、焼津市までは西南日本であり、静岡市からが東北日本であるのです。この境界線と遠江国と駿河国の境界線が一致していないのは、そもそも両国の境界線である大井川が暴れ川で、下流域は常に流域を変えており確定しなかったわけですから、これは仕方ないのだといえましょう。

このようにして、駿河湾の西端に東北日本と西南日本を分かつ糸静線という大断層線が引かれていたのであり、その東の東北日本エリアには前述のように、諏訪湖方面から甲府盆地経由で富士川で下ってきた「科の国」由来の出雲系氏族が静岡平野の干潟地帯を根拠地として居住し、その奥には富士山周辺の浅間大神への祭祀エリアが控えていました。
また糸静線の西の西南日本エリアにはまず駿河湾西端の港である焼津があり、その西には御前崎を挟んで遠州灘エリアが続いていましたが、その真ん中を流れる天竜川と、それに繋がる上記のような諸々の河川による内陸水路を使って、紀元前250年以降、諏訪湖方面から「科の国」由来の出雲系氏族が少しずつ、南信地方、遠州灘地方、東三河地方、西三河地方、そして一部は尾張地方までも進出してくるようになりました。
また、富山平野方面からは「越の国」由来の出雲系氏族が庄川から長良川に乗り換え、あるいは神通川、宮川から飛騨川に乗り換え木曽川に連結して、美濃や尾張方面へ進出してきていました。あるいは、近江国からは関が原経由で揖斐川流域に出雲系氏族が展開するようになっていました。
そういった状況の東海地方において、3世紀ぐらいから次第に畿内の大和王権がその勢力を本格的に東へ向けて進出させてくるようになるのですが、それでは東海地方の大和王権勢力の進出状況を尾張国から順に見ていくことにします。
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