KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その252 尾張と美濃
古代日本の有力豪族であった尾張氏の起源は黒潮に乗って南洋からやって来て紀伊半島南端の潮岬に辿り着いた南洋系海洋民であったと思われます。尾張氏の一族には大坂の住吉大社の宮司を務めた津守氏などもいたようで、紀伊半島の南西岸へ進んでいった支族もいたようですが、だいたいは最初は紀伊半島南東岸の熊野灘や志摩方面に居住し、それから伊勢平野の干潟地帯に進出していったものと思われます。こういう地域に居住していた海洋民ですから、海の太陽神である猿田彦を信仰していたと思われます。
その尾張氏の先祖が伊勢平野の干潟地帯から繋がった濃尾平野の干潟地帯へ進出してきたのは、縄文時代に遡るくらいのかなり昔のことなのかもしれませんが、それはあくまで海洋民として干潟地帯での活動を行っていただけだといえましょう。東海地方に水田稲作が広まっていくのは紀元前250年以降のことですから、尾張氏が干潟地帯から内陸部へ向けて進出し開拓を行っていくようになるのはそれ以降のことでしょう。そしてその進出はやや遅れ、尾張氏が内陸部へ進出した時には既に尾張国にも近江国や「越の国」起源の出雲系支族が進出してきていた可能性が高いといえます。

古代においては濃尾平野の南部は海であり、養老山地を西端とし、養老山地北端ぐらいから岐阜城の南あたりを結んだラインを北端として、そして一宮を経て知多半島の付け根ぐらいまでを結んだラインを東端とした範囲まで伊勢湾が内陸まで入り込んでおり、そこに北から揖斐川、長良川、木曽川が流れ込んでおり、東から庄内川や瀬戸川が流れ込み、それらが運んでくる土砂が堆積して干潟地帯を形成していました。
その干潟地帯の北東部の内陸部への入り口にあったのが尾張国一宮の真清田神社です。ここは尾張氏の祖神である天火明命を祀る神社で、尾張氏はここを拠点として尾張国の開拓を進めたといわれます。この真清田神社は木曽川の干潟地帯への河口より南にあり、尾張氏が開拓したのは主に木曽川よりも南側の地域で、東の内陸部へ向かって開拓を進めていったようです。この地域が後に「尾張国」と言われるようになるのですが、その語源は「尾張氏の国」という意味のようです。
ところでこの真清田神社のやや南の稲沢市に尾張大国魂神社があり、主祭神は尾張大国霊神で、これは尾張を開拓した人達が土地の霊力を神と崇めたものとされていますが、開拓の神ということで大国主命とする説もあります。そうであるとすると、尾張氏も元来あった土着の神、あるいは出雲系の神も祭祀していたということになり、この尾張の地にもともとあった土着勢力と協調して開拓を進めていったのでしょう。

また、尾張国二宮は真清田神社から東へ進んでいった犬山市の大縣神社で、ここには尾張国開拓の祖神とされる大縣大神を祀っていますが、ここは元来は古い土着信仰に基づく神社で、古代の性神信仰が残っていて、女性器を象った石などがあります。これに対応するのがこの神社のやや南西にある小牧市の田縣神社で、こちらには男性器を象った石が祀られています。こういう信仰は諏訪大社などに見られたミシャグジ信仰の名残で、尾張国北東部のこのあたりには縄文時代以来の土着の勢力があったということでしょう。
ただ、この田縣神社の祭神は御歳神で、これは出雲系の神です。またこの田縣神社と対になる大縣神社の祭神である大縣大神はスクナビコナとする説もあり、またここが女性器を祀ることから子孫繁栄と豊穣を祈る神社が本来の姿とするなら大地母神信仰ということになり、境内社の姫之宮に祀られる玉姫命が本来の主祭神であるのかもしれないが、これは倉稲魂神であるという説もあり、この神はウカノミタマと同一神で、出雲系の穀物神なのです。
このように土着のミシャグジ信仰に出雲系の信仰が加わっているという形態は、科の国の下諏訪社などで見られたパターンであり、この犬山市の大縣神社が木曽川にほど近いことから、あるいは諏訪湖から天竜川で下ってきた出雲系氏族が神坂峠を越えて木曽川に乗り換えて下ってきていたという可能性もあるかもしれません。
こうして濃尾平野の干潟地帯の木曽川流域以南の東側、庄内川や瀬戸川の流域に尾張氏は進出していき勢力圏としていきました。この尾張氏の勢力圏が後に尾張国と呼ばれるようになるわけです。

そして1世紀になると、前世紀から奈良盆地の南部に勢力を有するようになっていた海人氏が尾張氏と提携するようになってきます。海人氏の長であったイワレヒコの4代後のミマツヒコカエシネの妃は尾張氏の一族の娘であり、ミマツヒコカエシネは西暦17年あたりに即位していますから、1世紀前半には海人氏は尾張氏と縁戚関係を持つようになったと思われます。
この尾張氏の娘の産んだ子が海人氏の次の代を継いでヤマトタラシヒコクニオシヒトとなっていますから、尾張氏との縁は海人氏にとって重要なものであったと推察されます。しかし、この後は尾張氏が海人氏の本家、つまり大王家の外戚となることは無く、その点では畿内にあって外戚家となった皇族一族や葛城氏などとは違っています。
おそらくこの1世紀の婚姻は海人氏と尾張氏の同盟関係締結の証としてのものだったのでしょう。海人氏としては奈良盆地や西国の諸勢力に対して睨みを効かせるために人口豊富な伊勢や尾張の尾張氏勢力と同盟しておくのが得策であったのでしょう。武器の優劣にそれほど大差の生じない古代においては軍事力とはすなわち動員力であり、人口豊富な土地を押さえておくことがそのまま軍事的な抑止力になるのでした。
実際、古代においては東国の兵というのが畿内勢力同士の軍事決戦の動向を左右するということがよくありました。それゆえに鈴鹿関、不破関、愛発関などのような古代三関が設けられて、畿内で反乱が起きるとこの三関は閉じられ、東国と西国の行き来は遮断されたのでした。
尾張氏はこの東国に位置した勢力であり、しかも海人氏も海の太陽神である猿田彦を信仰するようになっており、尾張氏とは祭祀の面でも共感できる部分が多かったので、同盟しやすかったのだといえます。尾張氏は物部氏との関係が深かったといわれており、物部氏は大和における軍事担当勢力であったので、やはりこれは軍事同盟の性格が強かったのだといえます。ただ尾張氏にとっての同盟のメリットは、おそらく奈良盆地や西国との交易の利であったのでしょう。
つまり海人氏は海人氏で奈良盆地や西国で足固めをし、尾張氏は尾張氏で伊勢や尾張で勢力を拡張することに専念するのが基本で、尾張氏が海人氏と一体化して奈良盆地に進出していこうというような関係ではなかったので、縁戚関係は一代限りであったのでしょう。ただ、後の4世紀のことですが、越前王であったオオドの大王就任前の妃は尾張氏出身であり、そういうことから考えても、尾張氏は海人氏などの大和王権勢力のうちで東国に進出してきた一族などとは利害関係が生じるので縁戚関係などは継続的に持っていたようです。

そのような尾張氏と東国へ出てきた大和系氏族との関係の深さを物語るのが一宮市にある大神神社で、これは奈良盆地の三輪山にある大神神社からオオモノヌシの神霊を分霊して持ってきたもので、この神社は尾張国へ移住してきた大和人たちが祀っていたものらしいが、尾張氏の祖神を祀る真清田神社とごく近い位置にあり、真清田神社とこの大神神社を相殿として合わせて一宮として扱われていたともいわれ、ほとんど一体化した祭祀が行われていたようです。
三輪山の大神神社が大和で祀られるようになったのは3世紀初めのミマキイリヒコ大王の時代のことで、大和王権が成立した頃のことです。大和王権が成立して以降、尾張氏もその連合に加わるようになり、大和王権の勢力は積極的に尾張氏の勢力圏に出向いてきて、東海地方での勢力拡張に乗り出すことになります。畿内で大きな勢力圏を持つようになった大和王権は、その勢力を維持するための軍事動員力を更に確保するために、東海地方での勢力拡張が必要となったのです。
ミマキイリヒコの時代には四道将軍というものが北陸、東海、山陽、丹波の各方面へ派遣されたという記述が日本書紀にありますが、これはよく読むと軍隊を派遣したわけではなく、外交使節団を派遣したような感じで、「平定した」などと書かれてはいますが、実際にその後もこれらの地域は完全に服属などしていませんから、この時は単に偵察のようなものであったのだと思います。ただ、ミマキイリヒコ時代に四方へ向けての勢力拡張の意思というものは生じていたのだと思われます。

実際に大和王権時代の初期に東海地方で勢力拡大の重点地域であったのは濃尾平野干潟地帯の北側、つまり木曽川のラインよりも北のエリアでした。ここは揖斐川、根尾川、長良川、木曽川などが北方の山岳地帯から流れ込んで南の干潟地帯に注ぐ途中の流域にあたる地域で、広々とした丘陵地帯が東西に広がっており、ここを開拓すれば非常に多くの人口を養える東国の一大兵站基地となる有望な土地でした。
ここはそういった広々とした野原の国という意味で「野の国」といわれ、それが後に「御野(みの)の国」となり、漢字が変わり「美濃国」となったのです。この美濃国にはもともと近江方面や越中方面から内陸水路で進出してきていた出雲系氏族が居住していましたが、大和王権の勢力は尾張氏の助力も得て、現地の出雲系氏族と協調しながら美濃国の開拓を行っていったのでしょう。
濃尾平野南部の干潟地帯から美濃国への入り口にあたるのが現在の岐阜城がある金華山ですが、このやや南西に伊奈波神社があります。この神社はかつては金華山の上の岐阜城公園内の丸山にあり、長良川のほとりの高台にあったのですが、戦国時代に斉藤道三がこの地に稲葉山城を築く際に金華山の南西に移転させたのだそうです。
伊奈波神社の祭神はイニシキイリヒコといいまして、ミマキイリヒコの次の代の大王のイクメイリヒコ大王の第一王子です。イニシキイリヒコはイクメイリヒコの時代、すなわち3世紀後半にこの地を開拓したそうで、その後、讒言によって討たれてしまったといいます。それで次のオオタラシヒコ大王の時代にこの地にイニシキイリヒコを祀ったのだそうです。
これは無念の思いを残した霊を慰め祟り神とならないようにする一種の御霊信仰であろうと思いますが、とにかく3世紀後半のイクメイリヒコ時代には大和王権の勢力による美濃国の開拓が進められていたということです。

この美濃国を流れて南の干潟地帯に注ぐ主要河川は西から順に揖斐川、根尾川、長良川、木曽川であり、大和王権と尾張氏による開拓はこれらの河川を遡って進められていったことでしょう。
揖斐川と根尾川は美濃国の西部を流れ、伊奈波神社の脇を流れて干潟地帯に注ぐ長良川を遡ると美濃国中央部を通ってその北の飛騨国の西部まで入っていき、蛭ヶ野高原の水源にまで達し、そこで富山湾に注ぐ庄川の最上流部に乗り換えることが出来ます。
また、真清田神社の北から木曽川を遡ると、ほどなく美濃加茂で木曽川に注ぐ支流の飛騨川があり、その飛騨川を遡ると美濃国東部を北上して飛騨国東部に入り、高山盆地南部で宮川の最上流部に乗り換えることが出来、宮川は神通川と名を変えて富山湾に注ぎます。また、飛騨川の最上流部は飛騨国東端の飛騨山脈にまで達し、野麦峠を越えて梓川の上流部に連絡して信濃国へ入っていくことも出来ますが、これは厳しいルートでありました。
一方、木曽川の本流のほうを美濃加茂から遡ると、美濃国東南部を東へ進んでいくことになり、恵那を通って中津川に至りますが、ここで注ぐ支流を使って神坂峠で天竜川の支流と連絡することが出来ますが、なかなか難コースであったようです。木曽川は更に中津川を通ってから木曽地方に遡っていき、飛騨山脈と木曽山脈の間の峡谷を北上して、木曽山脈北端の経ヶ岳の西の水源に至ります。この水源部から境峠を越えて梓川の上流部に連絡して信濃国へ通じるルートもありますが、こちらも厳しいルートであったでしょう。
これらの河川を遡っての美濃国の開拓は、もちろん一気には進まなかったでありましょうが、だいたい4世紀の中頃までには、これらの河川の流域である美濃国全域および飛騨国南部には大和王権および尾張氏の勢力は及んだといわれています。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。