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日本史についての雑文その253 三河と遠江
そのように美濃国の開拓を進めつつ、次に大和王権と尾張氏の連合が目指したのは尾張国の東方に広がる土地でした。こちらも美濃国に劣らず、広大な平地と丘陵地帯を有した土地であり、また出雲系氏族など、土着の豊富な人口を抱えていた地域でした。
また、先述の葛飾北斎の富嶽三十六景の中には、「尾州不二見原」という画があり、尾張国からも東方の富士山は見えたのだということが分かります。いや、そもそも尾張氏や大和王権に縁の深い伊勢神宮近くの二見浦の夫婦岩の間からも富士山は見えていたのです。遥か東方に巨大な火山を有した土地があるということは認識されていましたし、富知六所浅間神社の社伝によれば、3世紀前半のミマキイリヒコ時代に既に四道将軍の1人で東海担当の建沼河別命が富士山の麓の富士市まで到達しているのです。東国への関心が高まる状況にあったといえるでしょう。

3世紀後半の頃になると、濃尾平野の干潟地帯も北のほうは陸地化するようになり、尾張氏が根拠地としていた真清田神社のある一宮市のあたりは海に直接接しないようになり、交易の面などで不便になりました。そこで尾張氏は根拠地を南下させて、干潟地帯の東南端にあたる熱田の地を根拠地とするようになっていきました。そして、それが尾張氏や大和王権の東方への志向を更に強くさせるようになったのでした。

この熱田の地にあるのが熱田神宮ですが、熱田神宮の祭神は熱田大神であり、ご神体は草薙剣であり、熱田大神は草薙剣の神霊であるとされています。4世紀初頭にヤマトタケルがオオタラシヒコ大王の命を受けて東国征討に出かける途中に伊勢神宮に立ち寄った際、叔母のヤマトヒメから伊勢神宮に保管してあった草薙剣を受け取り、それを帯同して東国を巡り、最後に尾張に戻ってきて尾張氏の娘のミヤスヒメと結婚し、その後、草薙剣をミヤスヒメに預けたまま伊吹山に出向き、そこで伊吹山の神の祟りを受けて病に倒れてしまうのですが、残されたミヤスヒメは草薙剣を熱田の地に祭祀するようになり、それが熱田神宮の始まりで、熱田神宮の宮司は代々、尾張氏が務めることとなったのです。
この熱田大神の正体については、天照大神であるとかヤマトタケルであるとか言われていますが、熱田神宮の相殿には天照大神もヤマトタケルも既に祀られているので、これらはいずれも熱田大神ではありません。この熱田の地にはもともと土着の神が祀られていたとも言われ、だとするならそれは出雲系の神であった可能性はあります。
そもそも草薙剣は出雲の神宝であり、出雲系氏族の王権の証である「蛇の剣」であり、それがイクメイリヒコ時代に出雲から大和王権へ、大和王権連合加入の証として献上されていたのです。それがイクメイリヒコの娘であるヤマトヒメの手に託されて伊勢神宮に置いてあったのです。伊勢神宮は大和王権の東方進出の拠点であり、草薙剣は東方に住む出雲系氏族に対して大和王権の正統性を示すシンボルのような意味合いを持っていたのです。

そこでヤマトタケルの東国征伐ということになるのですが、これに関する日本書紀の記述などを読むと、これは軍事行動というよりは外交使節か偵察のような感じで、東国の国々を巡って大和王権への参加を口説いて回ったというのが実態ではなかったかと思われます。その際に草薙剣が有用であったので、ヤマトヒメはヤマトタケルに草薙剣を託したのでありましょう。
これが首尾が上々で、東国の多くの国々が大和王権に友好的になったのでしょう。もちろん日本書紀にあるように服属したというわけではなく、東海、関東、東北に至るまでの諸勢力が畿内の大和王権に好意的となり、交易などを行っていくことになったということなのでしょう。大和王権にとってはこれだけでも十分、西国の諸勢力に対する際の後ろ盾にはなるのであったので満足のいく結果であったでしょう。実際に東国を開拓し進出していくのは、その後徐々に進めていく予定だったのでしょう。
そこで大和王権は東国進出の拠点を伊勢神宮から熱田神宮まで前進させて、熱田神宮に出雲族の神宝である草薙剣を祀ることにしたのです。ヤマトタケルにしても、別に剣を置き忘れたというわけではなく、熱田という地を指定したかどうかはともかく、尾張氏にこの地で草薙剣を祭祀して東国進出の拠点とするようにという意味で託したのでしょう。
なぜ熱田の地が選ばれたのかというと、尾張氏の本拠地であったからというのもあるでしょうけれど、出雲系氏族の王権の象徴である「蛇の剣」を祀る場所は、もともと出雲系の蛇身の神を祀っていた場所がふさわしいのであり、尾張氏の北の本拠地であった一宮の真清田神社とオオモノヌシを祀る大神神社が対になって一宮とされたのと同じように、この尾張氏の南の本拠地である熱田神宮においても出雲系の蛇神であったオオモノヌシ、あるいはオオアナムチなどが一緒に祀られた可能性は高いといえます。
それはもともとこの地で祀られていた出雲系の神なのか、あるいは畿内から分霊を持ってきたものなのか、詳細は不明ですが、とにかく熱田神宮における主祭神であり草薙剣(蛇の剣)の神霊である熱田大神というのは、おそらくオオアナムチやオオモノヌシのような出雲系の蛇神であったのではないかと思えるのです。

ヤマトタケルの東国への移動は海路で行われたようで、日本書紀の記述では尾張国のすぐ東の三河国や遠江国へヤマトタケルが立ち寄った記述はありません。ただ、熱田神宮から知多半島の付け根部分を南東へ20km.ほど進んだ地点、三河国西端にある知立市の知立神社の社伝によれば、東国征討の出発前にヤマトタケルがこの地で皇祖神へ東国平定を祈願し、後にそれを無事終えてこの地へ戻ってきた際にこの地に皇祖神を祀ったのが神社の始まりであるとされています。
そういうわけでこの知立神社の祭神はウガヤフキアエズ、ヒコホホデミ(山幸彦)、タマヨリヒメ、イワレヒコなどなのですが、相殿にこの地の開拓神である青海首命を祀っていることから、おそらく元来は青海首命を祀っていた神社でヤマトタケルが皇祖神への祈願を行ったのでしょう。
この地は岡崎平野の西部にあたりますが、岡崎平野は古代においては南半分は海、北半分には干潟が広がっていたと思われるので、この知立神社も水路を通って船で乗りつけられるような位置にあったのでしょう。おそらくヤマトタケル一行も東へ向かう前にここに立ち寄ったのでしょう。つまり、この岡崎平野の干潟地帯はヤマトタケルが来た時点では既に大和王権の勢力圏であったということになります。おそらく3世紀後半にはこの地は大和王権の勢力下には入っていたのでしょう。

岡崎平野の西端を流れる境川によって尾張国と三河国は隔てられており、岡崎平野の真ん中には矢作川が流れて知多湾に注ぎます。そして岡崎平野の東には木曽山脈南端の恵那山から更に南西方向に延長してきた丘陵地帯があり、そこを水源として岡崎平野の干潟地帯に注いでいたのが男川でした。そしてこの木曽山脈の延長である南西に細長い丘陵よりも南東には豊橋平野が広がり、そこには豊川が流れて三河湾に注いでおり、豊橋平野の東には諏訪湖から赤石山脈の西を走ってきた中央構造線の延長が走り、その東に接して細長い丘陵地帯を発達させていました。
尾張国から見て、国境の境川よりも東方に流れる矢作川、男川、豊川という三本の川の流れる地域、つまり岡崎平野と豊橋平野のある地域を「三つの河のある国」という意味で「三河国」と、尾張国の人達は呼んだのです。そしてその中でも現在は一般には岡崎平野エリアのほうを西三河、豊橋平野エリアのほうを東三河と呼びますが、古代においては当初は西三河地方のみを「三河国」とし、東三河地方を「穂の国」としていた時期もありました。「穂の国」というのは「稲穂の多い国」というような意味でしょうか。
これは、もともと豊橋平野方面に大和王権とは別の「穂の国」と呼ばれる勢力が存在し、その後、大和王権側が尾張国から岡崎平野方面へ進出して徐々に「三河国」の勢力を広げていき、最終的には「穂の国」の領域も併せて「三河国」としたのだということです。

そして、どうやらこの東三河の「穂の国」のほうが西三河のほうよりも栄えていたらしく、三河国の統一後はその中心地は「穂の国」の旧エリアである東三河地方に置かれるようになったのです。例えば、三河国一宮の砥鹿神社は豊橋平野北部で豊川の下流沿いにあるのです。もっとも古代においては現在地の北にある本宮山の山頂に存在したのであり、おそらく古代においては豊川の下流域も干潟化しており、この山頂からその干潟地帯を見下ろしていたのでしょう。
この砥鹿神社の祭神はオオアナムチであり、この「穂の国」では出雲系氏族がオオアナムチを開拓神として祭祀していたと思われます。豊川を遡って長篠で注ぐ支流の宇連川の最上流部は天竜川の支流の相川に乗り換えることが出来ますから、科の国から諏訪湖、天竜川を下ってこの豊橋平野の「穂の国」まで出雲系氏族がやって来て開拓していたのでしょう。
そして、そのような「穂の国」のオオアナムチ祭祀が大和王権の勢力下に入っても継続し、それどころか後には三河国の一宮の扱いを受けているわけです。ちなみに先述の皇祖神をズラリと祭神に揃えた知立神社は二宮に甘んじています。それだけ大和王権の三河国の統治が先住の土着氏族と協調的に行われたということを示しているといえます。

この「穂の国」のあった豊橋平野の東端を南西方向に中央構造線が走り、そのまま渥美半島を縦断し、伊勢湾の出口の伊良湖水道を突っ切って伊勢を通り、櫛田川に沿って西へ向かいます。この中央構造線の豊橋平野の東に細長い丘陵があり、そこより西が三河国で、そこより東が遠江国ということになります。
三河国からこの丘陵を越えた向こう側の土地を眺めた時、最初に目に入るのが浜名湖です。浜名湖は現在は遠州灘と繋がった汽水湖ですが、これは15世紀末に起きた大地震による地盤沈下によって湖面が下がり海水が入ってくるようになったからであって、古代においては浜名湖は海面よりも高い位置にあり、完全な淡水湖でした。
そういうわけで、三河国から国境を越えたこの地を見た大和王権の人々はここを「淡海の国」と呼んだのですが、「淡海国」ならば既に琵琶湖のある近江国で使われている名前ですので、それと区別するために「遠くにある淡海の国」ということで「遠淡海国(とおつおうみのくに)」と呼ぶようになり、それが「遠江国(とおとうみのくに)」となったのです。
この浜名湖を西端として、赤石山脈が南へ延長した丘陵と大井川によって東へ行く道をさえぎられるラインを東端とした、天竜川が真ん中を南北に流れる東西に広がった平野と丘陵地のエリアが「遠江国」の範囲ということになります。だいたい現在の都市としては浜松、磐田、袋井、掛川、菊川が含まれ、遠州灘に面した地域ということになります。

この地域には天竜川を中心とした内陸水路が浜名湖も含めて発達しており、科の国から天竜川を下ってやって来た多くの出雲系氏族が弥生時代からこの地を開拓して住み着いていたと思われます。遠江国の一宮は遠江国北東部の丘陵地帯を流れる一宮川のほとりにある小国神社ですが、この神社の祭神もオオアナムチで、一宮川は内陸水路を乗り換えていくと天竜川の支流の二俣川に連絡しますから、天竜川を下ってきた科の国由来の出雲系氏族がこの地の開拓神としてオオアナムチを祀ったのでしょう。
また、社伝によれば、最初に小国神社の祭祀が行われたのは現在地の北方にある本宮山の標高549m.の山頂であったとのことですが、ここは二俣川の水源にあたり、そのまま天竜川水系からアクセスできる地であり、科の国からやって来た出雲系氏族によるオオアナムチ祭祀の場としては適切であるといえるでしょう。とにかく天竜川の本流のほうは暴れ川であったので、本流の近辺はあまり開拓に適した土地ではなかったようで、支流やそれに連絡する河川、そして浜名湖の周囲などが主に開拓されたのではないかと思われます。
そして、その出雲系氏族によるオオアナムチ祭祀がそのまま遠江国の一宮となっているのも三河国の場合と同様であり、後に進出した大和王権勢力が先住の出雲系氏族の既存の共同体を温存し共生して、祭祀を共有することで大和王権の連合を拡大していったということが見て取れます。

このような三河国や遠江国への進出に関連のある記述がヤマトタケルの東国遠征記には見えないのであり、記紀のこの時代の年月日の記述をそのまま信用するのもどうかとも思いますが、ヤマトタケルが伊勢神宮に行って草薙剣を受け取ったのが10月7日で、その年の間には駿河国に達していますから、途中の三河や遠江で敵と戦うなどの手間が発生していたとしたらこの行程には無理があるでしょう。
おそらく、三河や遠江の平地や丘陵地の出雲系氏族は3世紀末までには大和王権に親和的な関係を構築していたのではないかと思われます。この三河と遠江を合わせて「三遠」といいますが、3世紀後半の奈良盆地における纏向遺跡の出土土器などには三遠地方の特有の型のものが非常に多く、これら地域と大和王権はこの時期から密接な関係があったのだと推測されるのです。
そういうわけですから、4世紀初頭のヤマトタケルの東国遠征の際には、この三河国や遠江国へは立ち寄らず、知立神社での皇祖神への祈願の後は船で伊良湖水道を通過して伊勢湾を出て、富士山を目印に遠州灘を東へ向かい駿河国へ向かったのではないかと思われます。この4世紀初めの時点で遠江国までは大和王権にとって友好的な地であったとするならば、どうやらヤマトタケルの任務というのは糸静線より東の東北日本の領域の諸勢力との交渉や視察であったのではないかと思えるのです。
実際、日本書紀にあるこの後のヤマトタケルの行程は駿河、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃という順番であり、いずれも糸静線より東の領域であり、最後に神坂峠を越えて美濃国に出てきたところで任務終了という感じなのです。つまり、この時点で美濃国は大和王権の勢力圏であったということなのでしょう。

信濃国に関しては、大和王権の勢力圏のほうからのアプローチとしては、遠江国の山側の丘陵地帯から更に北へ進むと木曽山脈と赤石山脈の険しい山岳地帯が始まり、その間を天竜川が流れることになりますが、遠江国から天竜川を遡っていって、その山岳地帯の入り口である茶臼山(木曽山脈南端)と光岳(赤石山脈南端)を結んだラインより北に遡っていくと、途端に峡谷部の急な坂を上っていくことになります。それで茶臼山と光岳より北の天竜川流域の地域を「急な坂の国」という意味で「科の国」と呼ぶようになったのでしょう。
この天竜川流域というのは南信地方のことで、信濃国の一部に過ぎないのですが、4世紀初めのヤマトタケルによる探検以前の段階では、大和王権側にとっては「科の国」というのは茶臼山より北の天竜川上流の山岳地帯全般を指す漠然とした概念でしかなく、上野国から碓氷峠を越えて軽井沢から科の国へ進入したヤマトタケルが科の国のあちこちを巡った後で諏訪湖に達し天竜川を下り、恵那山の北の神坂峠を越えて美濃国に到達したことによって初めて「科の国」の全域の全貌が明らかになったのです。
その全貌とは、天竜川を遡って諏訪湖に達した後も今度は八ヶ岳山系から千曲川や犀川などが流れ落ちる「急な坂」が続くという意味でやはり「科の国」が北へと続いて、北方で「越の国」と境を接しているということでした。

ちなみに「越の国」に関しても、ヤマトタケルの遠征以前はその全貌は大和王権側にとっては不明であったのですが、ヤマトタケルは上野国で部下の吉備武彦と二手に分かれ、自分は碓氷峠を越えて科の国へ行き、吉備武彦には越の国の視察に行かせています。吉備武彦はおそらく草津の北から中津川で中越地方に出て、そこから上越地方、そして富山平野に出てから神通川を遡り、高山盆地で飛騨川に乗り換えて美濃加茂に至り、ここで神坂峠を越えて木曽川を下ってきたヤマトタケルと落ち合ったのでしょう。これはつまり、飛騨川と木曽川の合流点である美濃加茂には大和王権の拠点があったということになります。
こうして4世紀初頭のヤマトタケル一行によって、「科の国」と「越の国」の全貌は判明することになったのですが、ここからやっと大和王権によるこの両地域へのアプローチが始まるのであって、実際に大和王権がこれら両地域に勢力を広げていくのは4世紀後半以降のこととなります。
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【2010/06/18 14:56】 | # [ 編集]



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