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日本史についての雑文その254 浅間大神
さて、日本書紀によれば、ヤマトタケルの一行が伊勢湾を出て遠州灘を東へ向かい、最初に現れたのが駿河国の西端にある焼津ということになります。焼津は駿河湾の西端にある港町で、南に大井川が流れて遠江国との間を隔て、北には日本坂の山塊が静岡市との間を隔てています。日本坂の山塊が糸静線の最南端であるとするなら、焼津は西南日本の最東端にあり、東北日本に最前線で接する地ということになります。
ヤマトタケルの任務が糸静線の向こうの東北日本へのアプローチであるのならば、この焼津の地はそのための最前線基地として重要であり、まず押さえておくべき地であったのでしょう。

そういうわけでヤマトタケルはこの焼津を訪れ、ここの土着氏族を味方に引き入れたのですが野原で狩りをしているところを裏切られ、焼き討ちに遭ったのですが、ヤマトタケルは草薙剣で周囲の草を切り払い、逆に火打ち石で火をつけ返して裏切った土着氏族たちを焼き殺したといいます。
それでそこを焼津というようになったのだそうですが、これは記紀によくある地名起源譚の一種で、もちろん実際にこんなことがあったわけではなく、伝説でしょう。この伝説に関係して創建された神社が現在は焼津市の中心部にある焼津神社で、もともとは焼津港の海岸近くにあったようです。この焼津神社の主祭神はヤマトタケルですが、神体が「火石」と「水石」であるとされています。社伝によれば、ヤマトタケルはこの火難から逃れるために「火石」と「水石」を投げたのだといいます。

しかしどうしてこのような火の難に関わる伝説が生じたのかというと、それはおそらく富士山信仰が関係しているようなのです。富士山の南西麓にある富士宮市にある駿河国一宮で全国の浅間神社の総本宮である富士山本宮浅間大社の社伝によれば、ヤマトタケルが焼津で賊を倒した時に富士山の神霊である浅間大神の加護があったので富士山南西麓の富士宮口登山道の入り口付近に山宮を設けて浅間大神に感謝の意を示したのだといいます。
この山宮が後に806年に坂上田村麻呂によって現在地に遷座して富士山本宮浅間大社となったのだというのですが、社屋がちゃんと建てられたのはこの時のことであり、806年以前の山宮というのは社殿は無く巨木や巨石を使って祭祀を行う縄文的な原初の祭祀形態を留めたものであったそうです。
さらにこの富士山本宮浅間大社の社伝によれば、ヤマトタケルが山宮を設ける以前は祭祀は特定の場所で行われていたわけではなく、その時々に富士山の山腹で場所を変えて祭祀していたそうで、その山腹での祭祀の起源は2世紀前半の7代大王のオオヤマトネコヒコフトニの時代に富士山が噴火して周辺の集落住民が四散してしまったので3世紀後半のイクメイリヒコ大王時代に浅間大神を鎮めるために祀った時点に遡るのだそうです。
しかし、この富士山本宮浅間大社の主祭神はコノハナサクヤヒメであり、さらにその父神であるオオヤマツミ、夫神であるニニギを配祀し、そして同時に、その主祭神の正体は浅間大神であるともされています。これはどういうことかというと、コノハナサクヤヒメは水の神で、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとされています。

また、富士山本宮浅間大社の富士山を挟んで正反対の位置にある、山梨県富士吉田市の吉田口登山道の入り口にある北口本宮富士浅間神社の社伝には更に詳しい説明があります。この北口本宮富士浅間神社もコノハナサクヤヒメ、オオヤマツミ、ニニギを祀り、ヤマトタケルが東国遠征の際に遥拝したのを起源としており、要するに富士宮市の富士山本宮浅間大社の起源と同じことを説明しており、つまりは富士宮市のほうの祭祀がこの富士吉田市のほうに伝播したのだということです。
この北口本宮富士浅間神社の社伝によれば、この神社のもう1つの起源として、イクメイリヒコ大王の時代に富士山の噴火を恐れる人々の心を静めるために勅命をもって火山鎮護の神であるコノハナサクヤヒメを祀ったともいいます。
つまり、富士山本宮浅間大社や北口本宮富士浅間神社の本来の祭神は富士山の神霊である浅間大神なのですが、その大神を鎮めるために火山鎮護神であるコノハナサクヤヒメを祀るようになったのが3世紀後半のイクメイリヒコ大王の時代のことであったということになります。問題は、なぜコノハナサクヤヒメが火山鎮護の神とされたのかということです。それは記紀の中にある日向神話においてコノハナサクヤヒメが火の難と大いに関係があるからです。

コノハナサクヤヒメといえば、日向神話においては天孫の短命の原因になった「バナナ・タイプ」の神話において登場した山の神オオヤマツミの娘ですが、それに続くコノハナサクヤヒメのエピソードが火中出産神話です。
ニニギと契りを交わしたコノハナサクヤヒメは一夜で妊娠しますがニニギは逆にコノハナサクヤヒメの貞節を疑います。そこでコノハナサクヤヒメは戸のない産屋を作ってその中に篭り、「腹の子が天孫の子でなければ死ぬでしょう。天孫の子であれば生きるでしょう」と言って内側から火を放って、火の中で出産しました。するとホスセリとホホデミとホアカリが無事に産まれて、コノハナサクヤヒメも無事だった、というお話です。
ちなみにこのホスセリが海幸彦で熊襲の祖とされていて、ホホデミは山幸彦ですから海人氏、つまり大王家の祖で、ホアカリは天火明命のことで尾張氏の祖とされています。これは実際にこれら南洋系海洋民の3つの氏族が同祖であるというよりも、これらの3氏族がこのコノハナサクヤヒメの火中出産神話の原型伝承を共通してその信仰体系の中に持っていたということなのでしょう。
この火中出産神話によってコノハナサクヤヒメは火の神とされるようになり、また火の難を避ける能力があるとされ、水の神とも見做されました。火の難を避けるということからの連想で、火山鎮護の神とされ、噴火を鎮める神ともされたのであり、おそらく3世紀後半のイクメイリヒコ時代にこのコノハナサクヤヒメ信仰を保持していた氏族、おそらく海人氏ないしは尾張氏の系統の南洋系海洋民であろうと思われる氏族が富士山麓において富士山の神霊である浅間大神の怒りを鎮めるために火山鎮護の神であるコノハナサクヤヒメを祀ったのでしょう。

そうして火の神でもあるコノハナサクヤヒメは浅間大神と同一視され、そうした「コノハナサクヤヒメ=浅間大神」を祀る氏族が4世紀初頭に駿河国にやってきたヤマトタケル一行が焼津で現地氏族を争った時にヤマトタケルを助勢したのではないでしょうか。そうしてそれへの感謝の印にヤマトタケルが富士山麓の富士宮登山道入り口付近に山宮を設けてそこで浅間大神へ祭祀を捧げ、その祭祀を共有したのではないでしょうか。それが「浅間大神の加護があり、その謝礼にヤマトタケルが山宮を設けた」という富士山本宮浅間大社の社伝の記述となったのではないでしょうか。
そういう史実があったところに「浅間大神(=コノハナサクヤヒメ)の加護があった」というイメージが増幅され、コノハナサクヤヒメの「火の難を避ける」という特性がヤマトタケルに投影されて、ヤマトタケルが焼津で火の難を避けるという伝説が形成されたのではないでしょうか。そして、その火の難を避ける際に使う道具として「火石」と「水石」があるというのも、「火の神」であり「水の神」でもあったコノハナサクヤヒメの神性そのものの反映であるのでしょう。

富士山麓の南部にある富士市の中心部の富知六所浅間神社の社伝によれば、このイクメイリヒコの先代のミマキイリヒコの時代には四道将軍の1人である建沼河別命が富士市にまで達してこの富知六所浅間神社を厚く崇敬していますから、イクメイリヒコ時代に富士山麓に海人氏や尾張氏の一族が居住していても不思議ではないでしょう。
この富知六所浅間神社は相当古い時代の創建と思われ、その主祭神はコノハナサクヤヒメではなく、オオヤマツミとされており、現在はコノハナサクヤヒメやその他4神も相殿に祀られ、合わせて6神が祀られているので「六所浅間神社」というのですが、この相殿が作られたのは後世のことであり、本来はオオヤマツミのみを祀っていたのですが、「浅間神社」という名が示す通り、このオオヤマツミというのも後世に習合されたもので、本来は浅間大神を祀っていたのでしょう。
その浅間大神を富士市において3世紀前半のミマキイリヒコの時代に大和王権の使者である建沼河別命が厚く祀っていたということになります。つまり、3世紀後半のイクメイリヒコ時代に富士山麓でコノハナサクヤヒメ祭祀が始まるのに先行して、それ以前からずっと富士山麓では富士山の神霊である浅間大神への祭祀が行われていたということになります。
実際、富士宮市の富士山本宮浅間大社や、富士吉田市の北口本宮富士浅間神社の社伝を見ても、イクメイリヒコ時代にコノハナサクヤヒメが祀られたのは「浅間大神を鎮めるため」であるのですから、コノハナサクヤヒメ祭祀に先行して浅間大神への祭祀が存在していなければいけないということになります。
そして、その原初の浅間大神への祭祀はヤマトタケルが設けた山宮のような巨木や巨石を使った縄文的な祭祀形態で行われており、しかも4世紀初頭のヤマトタケル以前はそれは富士山の山腹の各所でその時々に場所を変えて行っていたといいますから、3世紀後半のイクメイリヒコ時代以前の浅間大神祭祀も当然そのような形態で行われていたのでしょう。

山梨県の富士吉田市の上吉田にある北口本宮富士浅間神社の北東の下吉田に小室浅間神社があり、コノハナサクヤヒメを祀っています。この神社は江戸時代までは「下宮浅間神社」といいました。北口本宮富士浅間神社を「上宮浅間神社」、この神社を「下宮浅間神社」といったというわけです。ところが明治になってから、この神社が吉田口登山道の二合目にあった「小室浅間神社」を山宮としていたので、この里宮であった「下宮浅間神社」を「小室浅間神社」と改称したのだそうです。
この「下宮浅間神社」の創建は807年に坂上田村麻呂によるものだそうで、それ以降、北口本宮浅間神社を「上宮浅間神社」と呼び、この神社を「下宮浅間神社」と呼ぶようになったようです。しかし、この経緯を整理してみると、もともとはこの「下宮浅間神社」の祭祀は吉田口登山道の二合目にある山宮の「小室浅間神社」で行われていたものを、吉田口登山道入り口の下にある里にまで移転させたものと思われるのです。
何故そう思うのかというと、坂上田村麻呂が絡んでいるからです。富士宮市の富士山本宮浅間大社のほうにも坂上田村麻呂は絡んでおり、ヤマトタケルが富士宮口登山道の入り口に設けた山宮も、806年に坂上田村麻呂によって現在地の富士宮市中心部に移転させられているのです。年代も極めて近いことからも、「小室浅間神社→下宮浅間神社」の移転も同じ趣旨のものではないかと推測されるのです。
実は、800年と802年に富士山の大規模噴火の記録があり、この時は主に富士山の東側を中心として大きな被害が生じたようです。その対応にあたったのがおそらく征夷大将軍であった坂上田村麻呂であり、806年の富士山本宮浅間大社の移転と、807年の下宮浅間神社の移転は、それらの対策の一環で、おそらく山腹にあった祭祀場を麓に避難させて立派な社殿を建てたということなのでしょう。そうして富士宮市の市街地に移転して富士山から離れた本宮浅間大社は富士山を神体山とするようになり、その後、山頂に奥宮を建てるようになるのです。
つまり、800年の富士山大噴火以前は、富士吉田市の下吉田の「下宮浅間神社」の祭祀は、吉田口登山道の二合目の「小室浅間神社」で行われていたということになります。もともとは吉田口登山道の土地の守護神であったようです。もちろんその守護神とは浅間大神ということになります。

現在、富士山の北の麓にある河口湖の南岸にある富士御室浅間神社は、1974年にこの地に移転されたもので、それ以前は吉田口登山道の二合目にあった神社で、上記の「小室浅間神社」と同一のものと思われます。つまり、1974年まで吉田口登山道の二合目にあったこの神社こそが「下宮浅間神社」の山宮であり元宮であったということです。
この富士御室浅間神社はコノハナサクヤヒメを祀り、社伝によれば7世紀の創建ということになっていながら、それでいて「富士山周辺で最古の神社」ともされており、これはつまり、この地に社殿が建てられたのは7世紀のことであり、それ以前に巨石や巨木を使うような縄文的祭祀がこの地では古くから行われていたということなのでしょう。
「小室」や「御室」というのは、石柱を巡らせた中の神霊が常在する場所というような意味で、ストーンサークルを連想させる、まさに縄文的な祭祀のイメージであり、また、石柱というのが諏訪大社の祭祀の起源であるミシャグジ信仰にも通じるものがあるともいえるでしょう。もちろん富士山の山腹においての「御室」に常在した神霊とは、浅間大神の神霊に他ならないわけですが。
こうした富士山の吉田口登山道二合目における縄文以来の「御室」の祭祀というのは、4世紀初頭にヤマトタケルが富士宮口登山道入り口付近に設けたという「山宮」の祭祀と非常に酷似しているといっていいでしょう。むしろ、このような「御室」の祭祀こそが、ヤマトタケルによって祭祀場所を固定される以前の、富士山の山腹の各所でその時々に場所を変えて行われていたという祭祀そのものではないかとも思えるのです。
つまり、「御室」は吉田口登山道の二合目にだけあったのではなく、富士山山腹の各所に存在したのであり、ヤマトタケルが「山宮」を設けた場所も、そして海人氏ないしは尾張氏が火山鎮護のためにコノハナサクヤヒメを祀った場所もまた、もともとはそうした数多い「御室」の中の一箇所であったのではないかと思われるのです。
こういった「御室」こそが浅間神社の起源であり、それが様々な曲折を経て富士宮市の駿河国一宮の富士山本宮浅間大社という形に結実し、それがまた甲府盆地東部に分霊されて甲斐国一宮の一宮浅間神社ともなったのでした。
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