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日本史についての雑文その255 駿河国
静岡市の市街地の北部、賤機山の南麓に静岡浅間神社があります。これは富士宮市の富士山本宮浅間大社から10世紀初めに勧請して創建したものですが、この神社は正確には神戸神社、大歳御祖神社、浅間神社という3つの独立した神社の総称であり、このうちコノハナサクヤヒメを祀る浅間神社は最も新しく付け加えられた神社で、最も古い神戸神社の創建は3世紀前半のミマキイリヒコ大王の時代といわれますが、実際の祭祀はもっと古くまで遡るでしょう。
この神戸神社の祭神はオオアナムチで、駿河国の開拓の祖神とされています。おそらくは、紀元前250年以降の弥生時代、静岡平野がまだ海や干潟地帯であり、賤機山が干潟地帯に突き出した半島であった時代に、甲府盆地方面から富士川を下って駿河湾に出て、この静岡平野の干潟地帯にやって来た出雲系氏族が、この賤機山の半島に南端に上陸して、そのすぐ西で干潟地帯に注ぐ安倍川を遡って内陸部の開拓を開始したのでしょう。
そうした静岡の地の開拓の出発点に出雲族の開拓の守護神であるオオアナムチを祀ったのが、神戸神社の起源となったのだと思われます。後に3世紀前半に、土砂が堆積して陸地化したこの地へやって来た大和王権勢力も現地のこの土着祭祀を尊重し、その祭祀に加わっていき、現地氏族と共にオオアナムチを祀り、立派な社殿を建てたりしたのでしょう。
こうした構図は、同じ地にあった大歳御祖神社についても同じであり、この神社は4世紀末?5世紀初めのホムタ大王時代の創建とされていますが、もともとはこの地の安倍川のほとりに開かれていた安倍の市の守護神を祀っていたもので、起源はもっと古いものなのです。
その祭神は大歳御祖命であり、この神の別名は神大市比売命といい、スサノヲの妻神で、大年神や倉稲魂神の母神とされ、これらはみな出雲系の穀物神であることから、大歳御祖命も出雲系の神と思われ、この安倍の市というのも出雲系氏族によって開かれていた交易場であったと思われます。そこに後に進出してきた大和王権勢力がその祭祀に参加して大歳御祖命を祀る社殿を建てたのでしょう。

駿河湾を囲むエリアにおける出雲系氏族の主な居住地域は、この安倍川河口のある静岡平野地域、そして富士宮市や富士市のある富士川地域、そして狩野川の河口のある沼津地域の、だいたい3つの地域に分かれていましたが、そのうち、この静岡平野地域は干潟地帯の外側が安倍川の運んできた砂礫が一旦駿河湾に出てから波で戻ってきて堆積して三保の松原のように砂丘化してくるにしたがって、内部では潟湖が形成され、それがまた土砂で埋まって浅くなっていきました。
これは、2世紀後半から地球が寒冷化し始めて海水が全地球的に収縮して海水面が下降し、潮汐作用によって干潟の土砂を海に運んでいく機能が低下したために干潟内に土砂が堆積し易くなってこうなったわけですが、こういう傾向が3?4世紀になると強くなり、干潟であった場所は多くが湿地帯となり、葦が生い茂る葦原(蘆原)となっていきました。
つまり、3?4世紀の静岡平野は一面の葦原であったのです。そういう時期にこの地へ進出してきた大和王権の勢力の人々はこの静岡平野の地域を「蘆原国」と呼ぶようになりました。
そして、この賤機山の南側の神戸神社や大歳御祖神社のある一帯は、弥生時代から静岡平野地域における政治経済の中心地であったのであり、この一帯の西側部分には賤機山古墳もあり、これは6世紀の頃のものですが、この地域を代表する有力豪族の墓であろうとされており、この地が弥生時代から古墳時代にかけて一貫してこの静岡平野地域、つまり「蘆原国」の政治経済の中心地でもあったことを示しています。
そして、この賤機山の南側の一帯は蘆原国の祭祀の中心地でもあったのであろうと思われ、この蘆原国の祭祀の中心的存在はやはり神戸神社や大歳御祖神社であり、おそらくはオオアナムチを祭祀する神戸神社が蘆原国の一宮的な地位にあったのでしょう。

一方、富士宮市や富士市のある富士川地域のほうは、富士川河口の東に沼津まで延々と続く海岸線に沿って、富士山の地下水が湧く湿地帯が東西に広がり、ここを中心に水田稲作地帯が広がり栄えました。それゆえ、弥生時代において富士川地域と沼津地域は一体となって発展し、むしろ政治経済の中心地はこうした穀倉地帯とそして良港を備えた沼津となりました。ただ、祭祀については、富士山の存在感は圧倒的であり、富士山の神霊である浅間大神への祭祀も圧倒的な存在感であったため、3世紀以降にその本社的存在となっていった富士宮市の富士山本宮浅間大社が中心的存在となっていきました。
この地に3世紀にやって来た大和王権の勢力の人達は、富士川の急流であるという第一印象から、この富士川地域と沼津地域を総称して、この地を「駿き河の国」という意味で「駿河国」と呼ぶようになりました。
つまり、当初の「駿河国」というのは富士川地域と沼津地域、そしてそれに付随する伊豆半島地域の範囲であり、その政治経済の中心地は沼津で、祭祀の中心は富士宮市にある一宮の富士山本宮浅間大社であったということになり、現在の静岡市のある静岡平野地域は「蘆原国」という別の国であったということになります。

静岡浅間神社の社伝から類推すると、この「蘆原国」や「駿河国」の地に大和王権勢力がやって来るようになったのは3世紀前半のミマキイリヒコ大王の時代からで、4世紀初頭のヤマトタケルの遠征をはさんで、その進出は4世紀末のホムタ大王の時代まで続き、4世紀の間に「蘆原国」や「駿河国」の全域に大和王権の勢力は及んだのであろうと思われます。
ただ、その大和王権の統治は元来の土着の出雲系勢力と協調的、共生的な緩やかな連合的なものであったであろうことは、神戸神社や大歳御祖神社の出雲系祭祀が何ら変わりなく盛んに継続されていることからも明白なことといえましょう。
遠江国から大井川へ進出してきた大和王権勢力の人々は、まず大井川をその赤石山脈北部の最上流部まで遡り、その流域の開拓を行い、そして焼津から駿河湾に出て、大崩海岸の北の静岡平野の葦の生い茂る湿地帯の出雲系氏族の共同体と接触し、交渉を持つようになっていき、そこを流れる安倍川やその他の河川の流域も開発していったことでしょう。彼ら大和王権の人々は、これら赤石山脈より南にある河川流域の地域一帯を「蘆原国」と呼ぶようになっていったのです。
そして大和王権勢力は静岡平野から船を出して大きな入り江の海岸線沿いを回っていってみると、更に東のほうには富士川が入り江に注いでおり、これが富士山の西麓を巡って流れ下ってくる急流であったため、この「駿い河」の流れ込む大きな入り江を、大和王権の人々は「駿河湾」と呼ぶようになり、富士山より南にある駿河湾を囲む平野部一帯および伊豆半島、そして伊豆諸島をも含んだ領域を「駿河国」と呼ぶようになったのです。
駿河国の東端は、駿河湾に注ぐ最も東の川である狩野川に北から注ぐ支流の流れる富士山東麓のすぐ東にある箱根山の山塊、つまり箱根峠および足柄峠ということになりました。箱根峠や足柄峠は難所として知られ、「箱根の坂」「足柄の坂」と呼ばれ、これらより東を「坂東」と呼ぶようになりました。特に箱根峠は東海道最大の難所として後世までその名を轟かせることとなります。
また、この箱根峠や足柄峠よりも東の地は、「箱根の坂」や「足柄の坂」から東へ見下ろす地という意味で「坂見の国」と呼ばれるようになり、これが転訛して「相模国」となったといわれます。ただ、この「坂見の国」以東の坂東の国々は、まだこの4世紀頃は辺境地の扱いであり、まだ大和王権は本格的には進出しておらず、蝦夷の住む領域でした。つまりは、大和王権の連合国家であった「大和(倭)国」ではなく「日本(ひのもと)国」であったということになります。

そして、この「駿河国」を流れる急流の富士川は内陸部の人口豊富な別世界へと通じていく内陸水路でもあり、大和王権勢力の人々はこの富士川を遡って内陸の山岳部へ進出していくようにもなりました。そういうわけで富士川の中流域や上流域は駿河国とはまた別国扱いとなり、富士川を北へ北へと遡るとすぐに峡谷を通っていくことになるので、この富士川流域の北のエリアを「峡谷の国」、つまり「峡(かい)の国」と呼ぶようになっていったのです。
この富士川は遡っていくと甲府盆地に達し、そこで釜無川と笛吹川という2本の川に分かれて遡っていくことになります。この2本ともに、甲府盆地から更に遡っていくと再び峡谷を流れて水源に至ります。そこで大和王権の人達はそこまで進出し、だいたいそこまでの範囲を囲む周囲の山塊の内側のエリアまでを「峡の国」としたのです。この「峡の国」を通り道として、諏訪湖方面あるいは清里経由で佐久方面へと進んで、更に北の「科の国」へ入っていったり、また東の「武蔵国」や「相模国」へ行くことが出来たのです。そして、この「峡の国」が後に「甲斐国」となったのです。
笛吹川の流れる甲府盆地東部にある曽根丘陵の古墳群などは4世紀後半のものであり、大和王権の勢力は4世紀後半には甲府盆地へも及んでいたものと思われます。おそらく、甲斐国の諸勢力が大和王権の連合に加わるようになったのは、蘆原国や駿河国の場合とほぼ同時期で、4世紀末までの間のことであったであろうと思われます。

このようにして、4世紀頃にほぼ同時期に大和王権の連合に加わった「蘆原国」「駿河国」「甲斐国」でしたが、7世紀半ばになって大和王権が律令制を導入して令制国を整理した際に「蘆原国」と「駿河国」が合併して「駿河国」としてまとめられることとなりました。この時には「駿河国」の国府は沼津に置かれ、一宮は富士宮市の富士山本宮浅間大社とされました。つまり、旧「駿河国」の国府と一宮がそのまま移行した形となったのです。
ところが680年に「駿河国」から伊豆半島部分を「伊豆国」として分立させることとなり、そうなると沼津はあまりにも国府としては駿河国の東に偏した位置にあることになり、そこで旧「蘆原国」の国府であった静岡平野の安倍川下流域の地を新たに駿河国の国府とすることにしたのです。
この頃には静岡平野は陸地化がほぼ完了して豊かな土地となっており、駿河国の国府として申し分の無い地となっていました。こうして神戸神社や大歳御祖神社のある旧「蘆原国」の国府であった地の一帯は、この後「駿府」と呼ばれるようになり、駿河国の政治経済、そして祭祀の中心地となっていき、戦国時代には今川氏、武田氏、徳川氏などの駿河支配の本拠地とされ、現在でも静岡県の県庁所在地となっているのです。
そのように駿河国の政治経済の中心地であり祭祀の中心地となったこの地に、駿河国一宮である富士山本宮浅間大社の神霊を10世紀になってお迎えしたというのが、静岡浅間神社の創建の意義であったのです。それ以降、この静岡浅間神社は「新宮」と呼ばれ崇敬を集めるようになり、それに対応して富士宮のほうの元宮は「本宮」と呼ばれるようになり、それでもともとは単に「浅間大社」といっていたものが「富士山本宮浅間大社」といわれるようになったのです。
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この記事に対するコメント

すごいのみつけましたよ♪
http://jeeee.net/url/13750.html

【2007/06/20 01:01】 URL | なつき #- [ 編集]



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