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日本史についての雑文その256 伊豆半島
680年に駿河国から分かれて「伊豆国」となった伊豆半島地方ですが、ここも弥生時代においては「駿河国」に含まれる地域でした。ただ、確かに伊豆地方は駿河国の他の地域とは地勢的に異質な地域ではありました。伊豆半島は半島中央部の天城山から発して北流して半島北端の沼津に注ぐ狩野川以外は長大な河川というものが無く、半島のほとんどの地域は山岳地で、山々は海岸線に迫り平野部というものがほとんど存在しない地形でした。
これはまるで島のような地形なのですが、それはまさにその通りなのであって、伊豆半島はもともとは南に連なる伊豆諸島を従えて太平洋に浮かんでいた大きな島だったのです。それがフィリピン海プレートに乗って伊豆諸島を従えて北上してきて、今から百万年ほど前に本州に衝突してくっつき、伊豆半島となったのです。その時の衝撃で神奈川県北部の丹沢山地は隆起し、またその影響によるマグマ活動によって箱根山や愛鷹山、そして富士山の噴火活動が起こったのです。こういう土地でしたから温泉も極めて多く、後にこの地が「伊豆」と呼ばれるようになったのも、「湯が出ずる土地」という意味から来たものだとも言われています。

本州と合体した後の伊豆半島はその後、縄文時代になってから日本有数の多雨地帯となり、半島のほぼ全域を占める山岳地にびっしりと森林を茂らせ、その豊かな山林の中で動植物を大いに繁殖させました。また、半島地形ならではの岩礁海岸の連続する海岸線は天然の良港を多数形成し、豊富な水産資源を誇る駿河湾や相模灘という好漁場へ向けて出航する漁港となりました。
このように豊かな自然の恵みに溢れた伊豆半島は、狩猟民や漁労民の楽園であり、縄文時代は多くの狩猟民や漁労民が暮らして栄えていたと思われます。しかし一方、半島のほぼ全域が急峻な山地で、平野はおろか、まともな盆地も無く、河川も不足しているので水田稲作には不向きであり、東南アジア系にせよ南洋系にせよ、弥生文化の浸透は遅れがちな地域ではありました。
そのため、律令制施行後は駿河国から分けられて伊豆国とされ、後進的な国として扱われ、律令国家体制下においては伊豆諸島が流刑地として使用されたために、その入り口である伊豆国も流刑地のような扱いを受けて、ひどい辺境国として扱われたりしました。平安時代末期に源頼朝が流刑されたのもこの伊豆国でした。
決して伊豆半島は貧弱な地域だったわけではなく、むしろ自然の恵みは豊かな地域なのです。ただ律令国家において基幹産業であった稲作への適応が難しい地域であったゆえに後進国の扱いに甘んじることとなったのです。ただ、確かに律令制施行以前も、駿河国の他の地域とは異なった地域特性を持っていたのは確かであり、それは弥生文化の要素が薄く、非常に縄文的色彩の強い世界であったといえるでしょう。縄文的色彩が強いということは、非農耕的で海や森の要素が濃いということです。

伊豆半島の最高峰は半島中央部にある天城山で、標高は1406m.です。この天城山を水源として伊豆半島の真ん中を北上して流れ下り、沼津で駿河湾に注ぐのが狩野川で、この狩野川に三島市の南端で注ぐのが大場川で、大場川を遡ると三島市の中心部を通り、箱根山にまで至ります。この大場川のほとりで三島市の中心部にあるのが伊豆国一宮の三嶋大社です。
三嶋大社の祭神は三嶋大明神であり、その正体は大山祇神であるともコトシロヌシであるとも言われています。また、伊予国の大三島の大山祇神社の分社であるとの説もあります。ただ、この三嶋大社の創建は極めて古く、現在地の三島市中心部に遷座してくる前の元宮は、狩野川を遡って韮山から更に南下し、修善寺の北にある大仁町の広瀬神社の地であると言われています。
更にその広瀬神社の前の元宮は、狩野川を天城山の水源まで遡り、天城峠を越えて河津川に乗り換えて下っていき、河津町で相模灘に注いでから海岸線を南下したところにある下田の白浜海岸の伊古奈比神社の地とされ、そして更にその前の一番最初の元宮は三宅島の富賀神社の地にあったとも言われています。このように伊豆諸島方面からどんどん北上して遷座されてきたというのです。

下田の白浜海岸の伊古奈比神社は1世紀後半のヤマトタラシヒコクニオシヒトの時代の創建とされていますが、おそらくは祭祀の起源はそれより古く、伝承によれば、三嶋大明神が南方から海を渡って伊豆国へ渡来してこの地の神である伊古奈比を妻としたとのことで、伊古奈比と三嶋大明神を祀っています。当初はこの白浜海岸に三嶋神社と伊古奈比神社が並んで建っていたそうですが、三嶋神社が大仁町に移ったので今は伊古奈比神社において三嶋大明神も祀っているのだといわれます。
この大仁町に移った三嶋神社が三島市に遷座して三嶋大社になったということなのですが、ところが伊古奈比神社の伝承によれば、この南方から渡来して伊古奈比を妻とした三嶋大明神という神は天竺の王子であって日本の神ではなく、三嶋大社の三嶋大明神とは別神であるともされているのです。この伝承に従うならば、この白浜海岸の三嶋神社は大仁町に移ったのではなく、単に伊古奈比神社に合祀されたのであり、大仁町や三島市の三嶋神社や三嶋大社は実は全く別系統の神社であり、白浜海岸から大仁町への遷座という説は単に神社名や祭神名が同じであることから来た勘違いだということになります。
南方から海を渡って伊豆半島南東部の下田の白浜海岸へやって来た三嶋大明神は、つまり伝承によれば三宅島からやって来たということになります。三宅島は下田からは80km.ほど南東の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島北部の小島であり、ここからは神津島、式根島、新島、鵜渡根島、利島を経由して北上して伊豆諸島の最北端の島である大島にまで辿り着くことが出来ます。この大島から次に目指すべき大きな陸地が標高1406m.の天城山のそびえる姿を見せる伊豆半島南東部であり、ここが大島から最も近い本州の地であるのです。
この伊豆半島東南部に下田があり白浜海岸があるのですから、三宅島から北上してきた三嶋大明神が白浜海岸にやって来たというのは、それが何らかの海洋民の移動であると考えれば、地理的にはリアリティのある話であるといえるでしょう。

そもそも伊豆半島南端の石廊崎は駿河湾の東端であるのですが、駿河湾の西端の御前崎と並んで東日本における最南端地点であり、南方からやって来る勢力の東日本における玄関口となるのは当然の場所で、しかも伊豆半島の場合は南方に伊豆諸島を従えているわけですから、伊豆諸島地域を流れる黒潮に乗ってくる海洋民が本州へやって来る地としては最適の条件を備えていました。
日本南方近海の太平洋上を東へ流れる黒潮本流に乗った場合、三宅島あたりに辿り着く可能性が高く、そこから伊豆諸島を北上して大島を経由して伊豆半島東南部に至るのです。この伊豆半島東南部の下田の白浜海岸にはそうしたルートでこの地へやって来た三嶋大明神を祀る三嶋神社があったわけですが、その北の河津川河口近くの下流沿いには来宮明神という神社があり、ここの祭神は杉鉾別命といって樹木神です。
また、そこから海岸線を北へ進んだ伊東市の八幡野の海岸に面した地には八幡宮来宮神社があり、ここは八幡宮と来宮神社という2つの神社の合祀形態ですから、祭神もホムタと伊波久良和気命の二神ですが、ホムタは八幡宮の祭神ですから来宮神社の祭神は伊波久良和気命ということになり、これは波の神であり海の神です。その北西の内陸部で、伊東市中心部のやや西の狩野川の上流沿いの伊豆市の八幡の来宮神社では五十猛命が祀られており、これは出雲系の樹木神です。
そして、伊東市から更に海岸線沿いに北上して伊豆半島の北東部の付け根にある熱海にも来宮神社があり、ここは元々は来宮明神、あるいは来宮大明神と呼ばれ、主祭神を五十猛命とし、本殿裏に二千年以上の樹齢の大楠が生えており、この楠に対する樹木信仰があったものと思われます。

これら一連の来宮(きのみや)神社の名の由来は、実際にこうして樹木信仰があることから「木の宮」であろうと言われています。また、信仰されている樹木神の五十猛命が紀伊国で主に信仰される樹木神であることから「きのみや」は「紀の宮」であり、これらの信仰は紀伊国由来のものであるとの説もあります。
そもそも「紀伊」の語源が「木」なので、結局は樹木信仰に由来するということであり、この「きのみや」の本質が樹木信仰であるというのはほぼ間違いないとは思います。ただ、この伊豆の地の地理的特徴が紀伊国のそれと非常に似通っており、山林と海が非常に近く海洋民の根拠地として最適であるという点、そして五十猛命が実際に紀伊国の樹木神であるという点からも、この伊豆半島の来宮神社の信仰が紀伊半島方面と何らかの関係があり、そしてそれらを繋ぐのは黒潮ルートという海上の道であり、各地の来宮神社が海岸近くに鎮座していることからも、その伝播には海洋民が介在するというのも確かであろうと思います。
すると、この「来宮神社」の字に「来る」という字があえて使われているという点を重視した、もう1つの「きのみや」の名前の由来説である「来の宮」説も説得力を持ってきます。これは「寄り来る神」、つまり漂着神に対する信仰が起源であるという説です。もちろん樹木信仰が祭祀の本質であることには違いないのですが、そういった樹木信仰を伝えた人達がこの地の開拓者であり、祭祀の創始者であり、そして彼らは黒潮に乗って漂着してきた人達であったのであり、彼らの出発点には紀伊半島も含まれていたという可能性もあるでしょう。
あるいは伊古奈比神社の伝承に、三嶋大明神が天竺の王子であるとの言い伝えがあるように、天竺はインドのことですから南方起源で日本列島外からやって来たのかもしれません。それが南洋からなのか、あるいは東南アジアから出雲や畿内、紀伊を経由して黒潮に乗ったのかもしれません。ここで「天竺」が出てくるのは仏教説話的要素が強いので特に深い意味は無く、要するに日本列島外の南方に起源を持つ神というような広い意味で解釈すればいいでしょう。
このような漂着神に対する信仰というのは一種のエビス信仰であり、海神信仰ということになります。そうした信仰を持つのは海辺に暮らす海洋民であり、海洋民というのは船の原材料として木材を必需品としますから、海の近くの山林に分け入って樹木の伐採を行いますから樹木信仰も併せ持つことが多く、このような海洋民にとって暮らしやすい伊豆半島のような地においてはエビス信仰と樹木信仰が同時に生じることは自然なことだといえるでしょう。
こうした来宮神社の信仰の多く分布する伊豆半島南東部にある下田の白浜海岸に存在したという三嶋大明神への信仰も、南方から上陸した神への信仰であるという点で一種のエビス信仰であり、「寄り来る神」への信仰であるといえます。紀伊半島方面から黒潮に乗ってきた漂着神は最初に三宅島に着くのであり、そこから北上して白浜海岸へやって来たというのであれば、「紀の宮」「来の宮」である「来宮大明神」こそが白浜海岸の三嶋神社の「三嶋大明神」の正体であったのではないでしょうか。

なぜ、この漂着神が「三嶋大明神」と名づけられたのかはよく分かりませんが、三宅島は元々は火山活動が非常に活発であったことから「御焼(みやけ)島」と呼ばれており、そこからやって来た神だから本来は「御焼嶋大明神」とでも呼ばれていたのかもしれません。それが短縮されて「御嶋大明神」となり、「三嶋大明神」となったのかもしれません。
この三宅島の西側の海岸線近く、まさに黒潮の流れを正面から受け止める地点、2000年の噴火以降は火山ガス高濃度地区内に富賀神社があり、ここが白浜海岸の三嶋神社の元宮ということになるのですが、ここの祭神はコトシロヌシと伊古奈比であり、これは夫婦神とされています。三嶋神社を合祀した伊古奈比神社の祭神が三嶋大明神と伊古奈比ですから、つまり富賀神社では「三嶋大明神=コトシロヌシ」としているのです。
しかし、これは実際に三宅島に出雲系の神であるコトシロヌシへの信仰が存在するというわけではなく、コトシロヌシはエビス神に習合した結果としてここで祭神となっているだけのことであり、元々はこの三宅島に土着的なエビス信仰があり、それが後にコトシロヌシと同一視されるようになり、しかも本来は下田の神である伊古奈比までが三宅島で一緒に祀られていることから、エビスである三嶋大明神がコトシロヌシと同一視されるようになったのは下田の地であり、ここでコトシロヌシと習合して伊古奈比とセットにされた三嶋大明神(エビス)信仰が三宅島に逆輸入されて、現在の富賀神社の祭神の形態になったのだと思われます。

エビス信仰がコトシロヌシ信仰に習合するパターンというのは出雲系海洋民の共同体においてよく見られるパターンであるので、下田には出雲系海洋民が進出していたと思われます。それは黒潮に乗ってきた「三嶋大明神」である漂着氏族そのものが出雲系であったという可能性もありますが、むしろそうではなく、そういった古いエビス信仰のある伊豆の地に、後に科の国や峡の国方面から駿河湾を経由して伊豆半島に進出してきた出雲系氏族がやって来て、古いエビス信仰に自分たちの海神であるコトシロヌシを習合させていったという可能性のほうが大きいでしょう。これは伊豆半島にある出雲系の樹木神である五十猛命信仰にも同じことが言えるかもしれません。
こういったエビス神である三嶋大明神への信仰が、三宅島の富賀神社や、下田の白浜海岸の三嶋神社の祭祀の本態であり、またそれと同系統のエビス信仰が伊豆半島東部や相模国西部の来宮神社の祭祀であったのですが、それならば伊豆半島北部の大仁町の広瀬神社の地にあったという三嶋神社についてはどうなのかというと、これはやや微妙ではありますが、来宮神社のあった伊豆市八幡にも近く、同じ狩野川で繋がっており、また伊東市や熱海市にも近く、ここもエビス神としての三嶋大明神を祀る神社の系統に属していたと解釈してもいいでしょう。

ただ、三島市の中心部にある現在の三嶋大社となると、これは下田の白浜海岸の三嶋神社とは本来は別系統の神社であったと考えるべきでしょう。この三島の地になると、エビス信仰や樹木神、海神などへの祭祀が行われる縄文的な海洋民文化の地である伊豆半島地方とは異質な世界となってきて、むしろ沼津や富士などの駿河国の世界との親和性が強くなってきます。
それは具体的には、富士山を遥拝する地というイメージです。この三島の地まで北上してくると、それだけ富士山というものの存在感は大きなものになってくるのです。三島から北西を見ると標高1504m.の愛鷹山があり、その向こうに標高3776m.の富士山がそびえているのであり、また三島の北東には標高1438m.の箱根山がそびえていました。しかもこれらは古代においては全て油断のならない噴火活動を繰り返していた活火山だったのです。このような位置にあった三島の地においては山岳信仰が生じるのが当然というものでしょう。
実際、三嶋大社とこの周辺の火山の活動とは密接な関連があり、周辺で火山活動がある度に三嶋大社の社格は上がり、三嶋大社の系列の式内社や摂社、末社の数が伊豆国内に増えていったのです。これはつまり、三嶋大社にはこれら周辺の火山を鎮護する機能が期待されていたのであり、そういう役割がこの神社の本来の姿なのだと考えるべきでしょう。
特に富士山信仰に関しては、浅間大神への信仰が生じたのは間違いないところですが、ちょうど富士山からの距離が三島とほぼ同じくらいである富士市の富知六所浅間神社の祭神が浅間大神から大山祇神に変化したように、この三島における浅間大神への祭祀も、大山祇神への祭祀に変わっていった可能性は高いといえます。つまり三嶋大社の主祭神は大山祇神なのです。

おそらく三嶋神社での浅間大神への祭祀が大山祇神への祭祀に切り替わっていったのは大和王権勢力が駿河国に進出してきた3?4世紀にかけてのことであろうと思われますが、この時期には既に畿内の摂津国の三島津では三島鴨神社において大山祇神への祭祀が行われ、また瀬戸内海の芸予諸島内の最大の島には三島鴨神社が勧請されて大山祇神社が創建され、それによって島の名前も大三島とされていました。
そこで、この沼津の東の地にある大山祇神への祭祀を行う神社にも三島鴨神社や伊予の大山祇神社の神霊を勧請してくることになり、この神社の名も「三島神社」とされるようになったのであり、それによって、この地の名前も「三島」と呼ばれるようになったのでしょう。そうして、いつしか「三島神社」は「三嶋神社」となり、「三嶋大社」となったのです。
こうして新たに「大山祇神を祀る三嶋大社」というものが伊豆半島の北端に生じて、それがもともと伊豆半島の下田や大仁町に存在した「エビス神を祀る三嶋(御島?)神社」と混同されるようになり、本来はエビス神である三嶋大明神が三嶋大社のほうの祭神であると誤解されるようになり、それが三嶋大社の本来の祭神である大山祇神と同一視されるようにもなったりしたのです。
また、下田や大仁町の三嶋神社では三嶋大明神が本来はエビス神であるために、エビス神と習合したコトシロヌシと同一視されることが多かったため、三嶋大明神を大山祇神と同一視して祭神とした三嶋大社のほうでも、そうした伊豆半島地方の習俗に引きずられて、三嶋大明神とコトシロヌシを同一視し、コトシロヌシも祭神として解釈するようにもなっていきました。
こうして、三嶋大社では三嶋大明神を主祭神とし、その正体として大山祇神とするという説と、コトシロヌシであるとする説の2つの説が並立するという状況となったのです。

しかしその実態は、三嶋大社に関しては大山祇神への信仰が基本であり、その大元は浅間大神などの駿河的な火山鎮護祭祀であったのです。
結局、駿河湾を囲む地域の弥生時代の祭祀形態というものは、おおむね、出雲系の開拓神を祭祀する「蘆原」的祭祀のエリア、火山神である浅間大神を祭祀する「駿河」的祭祀のエリア、黒潮起源のエビス神や樹木神を祭祀する縄文的な「伊豆」的祭祀のエリア、という3つのエリアに分けられていたようです。
それが3世紀以降の古墳時代になって大和王権の進出によって次第にこれら3地域の垣根が曖昧になり、それぞれが複雑に習合したり混同されたりして、この三嶋大社の例のように分かりにくくなる場合もあったというわけなのです。
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