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日本史についての雑文その257 関東地方
さて、ここまで中部地方以西の古代の姿について考察してきましたが、これで残りは関東、東北、そして北海道ということになります。まずは関東地方ですが、古代における関東地方は現在とはかなり様相が違っていますので、まずはその全体像を把握しておく必要があります。
現在の関東地方は北西部に山岳地帯があって南東部に日本最大の平野である関東平野があります。この関東平野というのは典型的な沖積平野で、つまり河川の運んできた土砂が堆積して形成された平野ですから、その土砂が堆積する前はその場所には河川が流れていたわけで、平野全体が河川であったということは言い換えれば平野の大部分が水の底であったわけで、もともとは関東平野の大部分は浅い海で、そこに北西の山岳地帯から河川が注いでいたということになります。


具体的には、現在の東京湾は古代においてはもっと内陸部に拡大して広大な江戸湾を形成しており、現在の霞ヶ浦や印旛沼を含んだ古鬼怒湾とも繋がって鹿島灘にまで達していました。つまり房総半島は古代においては本州から切り離された島であったのです。
古代においては、だいたい横浜市の本牧より北の臨海部、川崎市の臨海部、東京23区の皇居や上野より西部の武蔵野台地の谷底平野の部、東京23区の皇居や上野より東部全域、埼玉県の所沢、大宮、川口、越谷を結んだラインよりも南東部、千葉県の船橋、柏、白井、八街、成田、香取を結ぶラインより北西部、茨城県の水戸と筑波を結んだラインよりも南東部は、全て江戸湾と鹿島灘に一つに繋がった海であったのです。
つまり、古代の関東地方は鹿島灘に面した茨城県中部の磯崎から水戸、筑波、越谷、川口、大宮、所沢、上野、川崎、横浜の本牧を結ぶ海岸線で切り取られ、犬吠埼から香取、成田、八街、白井、柏、船橋を結ぶ海岸線を持つ「房総島」と、間に「南関東海峡」を挟んで向かい合うということになるのです。
そして本州側から南関東海峡に向かって、主要河川としては北から順に那珂川、鬼怒川、太日川、利根川、荒川、入間川、多摩川、鶴見川などが注いで、それらの河川の運んでくる土砂が比較的遠浅の南関東海峡に堆積していって、海峡を干潟化していき、特に鬼怒川、太日川、利根川、荒川という土砂運搬量の多い河川の集中して注ぐ下総国北西部あたりは最も南関東海峡が狭い場所でもあったので早期に低湿地帯として陸地化して、南関東海峡は鹿島灘に開口する古鬼怒湾と、相模灘に開口する江戸湾とに分かれることになりました。そして古鬼怒湾には那珂川と鬼怒川が注ぎ、江戸湾には太日川、利根川、荒川、入間川、多摩川、鶴見川が注ぎました。また、古鬼怒湾と江戸湾の間も細かな水路で連絡し合っていました。
江戸湾はもともと狭い浦賀水道で相模灘と繋がっていましたから極めて閉鎖性の高い海域で、太日川、利根川、荒川、入間川、多摩川、鶴見川の運んでくる土砂によって干潟化しやすい環境にありましたが、古鬼怒湾のほうも湾の鹿島灘に面した外側部の磯崎から鹿嶋にかけて那珂川や鬼怒川によって鹿島灘に放出された砂礫が太平洋の波で押し戻されて堆積して砂浜を形成するようになり、これによって古鬼怒湾の湾内は潟湖化するようになっていきました。この潟湖が次第に土砂で埋め立てられて低湿地帯となっていき、潟湖の名残として現在残っているのが霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼などなのです。
このように古代の関東地方は現在とは全く違う状況にあったので、そこを流れる河川の状況も現在とは相当違います。上記の江戸湾、古鬼怒湾の両湾に注ぐ主要河川についても、いくらか現在とは様相が違っていました。そういう相違点もふまえて関東地方の内陸水路についても見ていきます。

縄文時代の日本列島の住民のうち、最も多くを占めたのは森林の狩猟民でありました。特に糸静線よりも東の東北日本においては西からやって来る海洋民は西南日本に比べれば少な目で、ヴュルム氷期からもともと居住している新モンゴロイド狩猟民の人口は西南日本に比べて多かったので、東北日本における狩猟民と海洋民の比率は、狩猟民のほうが多くなり、縄文時代における東北日本内の動向は狩猟民の動向に大きく影響されることになります。
どうして東北日本に狩猟民が多かったのかというと、もともとシベリアからやって来た新モンゴロイド狩猟民は北の樺太陸橋を通って日本列島へ入ってきた者のほうが多く、彼らが日本アルプスに阻まれて東北日本に溜まったというのも大きな要因です。
しかし、そうした彼らが縄文時代の東北日本において順調に人口を増やし続けることが出来た最大の理由は、東北日本の山岳地帯の植生が落葉広葉樹林帯であったからです。落葉広葉樹林の森林の生態系が豊かな自然の恵みをもたらしたため、その森林の狩猟採集民となった彼らは豊かな食生活を満喫することが出来たのです。
ということは、東北日本においては彼らは落葉広葉樹林帯の近辺に集落を構えて居住していたということになりますが、この落葉広葉樹林帯というものが何処にでも存在するというものではないのです。落葉広葉樹林帯は日本列島の本州においては標高1000m.以上の山岳地帯に生育するのです。

この標高1000m.以上の山岳地帯というのが、東北日本の本州部においては主要なところとしては、陸奥国東北部の北上山地、陸奥国と出羽国の境界を縦貫する奥羽山脈、出羽国南部地方、陸奥国南西部の会津地方、越後国の越後山脈と三国山脈と妙高高原、信濃国のほぼ全域、甲斐国のほぼ全域、上野国の北部と西部、下野国の北西部、武蔵国の西部というところになります。
このように見てみると、あらためて信濃国や甲斐国がいかに森林の狩猟民にとって恵まれた土地であり、このあたりの地方に多くの縄文人が居住していたのも当然だということが分かります。また、東北地方も縄文時代は多くの人口を誇ったであろうと想像することが出来ます。
彼ら森林の狩猟採集民たちはこの標高1000m.以上の落葉広葉樹林帯を尾根伝いに移動してきたと考えられ、北から動物を追って、またより豊かな土地を求めて、どんどん南へ移動してきたと思われ、その移動経路としては奥羽山脈を北から南へ縦断し、出羽南部を経て越後へ入り、そこから信濃や甲斐へ行くか、あるいは会津地方を経て下野や上野に進出し、碓氷峠を越えて信濃に入るか、あるいは武蔵西部を経て甲斐に入るという移動経路となったでしょう。

つまり、縄文時代の関東地方においては、下野国の北西部、上野国の北部と西部、武蔵国の西部の山岳地帯にはかなりの数の森林の狩猟採集民が住んでいたと考えられるのです。そして、縄文時代の日本列島の住民のもう一方の構成要素である海洋民は基本的に交易を生業としますから、人口が多い地域に出没します。つまりもともと多くの人口を抱える下野、上野、武蔵の地域の周辺の海域や内陸河川に出没し、その海や水路と山岳地帯の間の台地や丘陵、盆地で農耕生活を始めるようになります。大規模な農耕集落を形成するためには海洋民だけではなく、もともと住んでいた森林の民も山を降りてきて農耕に転業する必要がありますから、農耕ももともと人口が多い地域で発達します。
このようにして、下野、上野、武蔵の山岳地帯とその南の南関東海峡の北岸地域には縄文時代から弥生時代にかけて多くの人々が居住するようになり、一方、標高1000m.以上の落葉広葉樹林帯が少なく、もともと核となる森林の狩猟採集民が少なかった常陸国と相模国の地方と房総島地方は人口過疎地帯となっていたと思われます。特に房総島は本州から切り離されていた上に最高峰が愛宕山の408m.と全国で最も低く、そもそも山岳地というものがほとんど存在しないため、縄文時代以来の基礎人口が特に少なく、弥生時代もあまり多くの人は住んでいなかったと思われます。
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