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日本史についての雑文その258 利根川と鬼怒川
新モンゴロイド狩猟民と旧モンゴロイド海洋民とで構成されていた関東地方北西部の縄文人共同体に水田稲作を伝えたのは、おそらく紀元前250年以降に日本海航路で東日本に進出してきた出雲系海洋民であったと思われます。
彼らは越前、能登半島、佐渡島などに辿り着き、上越地方や中越地方、そして信濃や甲斐にも進出してきましたが、そこから更に内陸水路を使って関東地方の北西部へ進出してきたのです。


まず中越地方からは、越後田沢で信濃川に注ぐ清津川を最上流部まで遡ると、越後と上野の国境の三国山脈中の三国峠を徒歩で越えて上野国の北端に入り、赤谷川の最上流部に乗り換えることが出来ます。赤谷川を下っていくと上野国北端の三国山脈中の水源から下ってきた利根川と水上で合流します。この利根川が上野国北部の中央を流れます。
また、信濃川と共に新潟湾に注ぐ阿賀野川を東へ遡っていくと阿賀川となって陸奥国の会津地方を通っていくのですが、ここの喜多方で南から只見川の合流を受けます。その只見川を遡っていくと陸奥と越後の国境部を越後山脈内の峡谷を進み、最後は陸奥と上野の国境の尾瀬沼に辿り着き、ここで上野国の北東部を流れる片品川の最上流部に連絡します。片品川は上野国の北東部の山岳地帯を流れ下り、水上のやや南の沼田で利根川に合流します。
また、中越地方の西端の津南で信濃川に注ぐ中津川を遡っていくと、三国山脈の白砂山の南にまで達して、そこで白砂川の最上流部に乗り換え、白砂川は上野国の北西部を南下して長野原で吾妻川に合流します。
その吾妻川は東信地方の上田盆地で千曲川に注ぐ渋沢川を遡って菅平の東の鳥居峠を徒歩で越えた地点に水源があり、そこから上野国北西部の山岳地帯を東へ流れ下って、嬬恋を通り、長野原で北から白砂川の合流を受け、榛名山の北を通って、沼田の南で西の榛名山と東の赤城山に挟まれた渋川で利根川に合流します。
つまり、上野国の北部の山岳地帯には、その東部には片品川が流れ、中央部には利根川や赤谷川が流れ、西部には白砂川や吾妻川が流れるのですが、これらの河川はその最上流部で越後国や信濃国からの内陸水路の連絡を受けており、これらの内陸水路を通って出雲系氏族が進出してきて上野国北部の山岳地帯に居住する森林の縄文人たちと接触したと推測されます。
そして、この上野国北部の山岳地帯の南限は赤城山と榛名山であり、ちょうどその地点にある渋川において上野国北部を流れていた利根川の支流は一本化され、利根川の本流となって上野国の南部の中央、関東平野の北西端部を前橋、伊勢崎と南へ流れ下っていくことになるのです。

この利根川の本流に上野国の中央部の南端、伊勢崎市の南端の武蔵国との国境で合流する河川が烏川と神流川です。烏川は上野国の西端から発して上野国西部の山岳地帯や丘陵地を流れる河川ですが、軽井沢の碓氷峠で千曲川の支流の湯川から乗り換えた碓氷川が高崎で合流して、ここから烏川は関東平野の北西端部を西へ流れ、伊勢崎市の南端で利根川に合流するのです。
また、神流川は上野国の南西端部、武蔵国との境界部の山岳地帯を流れる河川ですが、その最上流部は十石峠で東信地方の佐久盆地南部の佐久穂で千曲川に注ぐ抜井川と連絡しています。そうして十石峠から流れ下ってきた神流川は藤岡で関東平野の北西端部に出て、高崎市東部で烏川に合流して、その後、烏川はすぐに利根川に合流するのです。
このように、上野国の西部の山岳地帯を流れる烏川や碓氷川、神流川にも東信地方から出雲系氏族が進出してきて、山岳地帯の落葉広葉樹林帯に住む縄文人たちと接触しながら関東平野の北西端部へ進出してきたのでした。

上野国の北部と西部の山岳地帯からの支流が順次合流してまとめられていく利根川水系は、関東平野の北西端部である上野国南部、すなわち前橋、高崎、安中、富岡、藤岡、伊勢崎、太田の辺り一帯に出雲系氏族の開拓した広大な水田稲作地帯を形成するようになったのだと思われます。
そうして一本化された利根川の本流は上野国と武蔵国の境界を東へ流れ、現在の利根川の流路はその後も東南へ流れて茨城県と千葉県の境界線を形成して銚子の犬吠埼で太平洋に注ぐのですが、この現在の利根川の流路は江戸時代の治水工事によって付け替えられたもので、本来の利根川の流路ではありません。古代においては利根川は館林の南の川俣で流路を南へ向け、おおむね現在の葛西用水路や大落古利根川の流路を通って鷺宮や久喜、春日部などの低湿地帯を流れて吉川あたりで南関東海峡に注いでいたのです。この古代における利根川の下流の流路が武蔵国と下総国の境界線を形成していたのです。
この利根川の本来の江戸湾に注ぐ流路を塞いで、その上で東へ向かう流路を新たに開削して利根川の流水を犬吠埼から太平洋に逃がして洪水を防ぎ低湿地帯の干拓を進めて農地を増やすというのが江戸時代の治水工事の大きな目的でした。その上で適度な農業用水や水運用の水路を確保するために元の利根川の流路を再利用したり、同時に次に述べる太日川の下流を江戸川として再利用したり、荒川の流路を変更したりしたのです。

この利根川の古代における河口部の吉川のすぐ東で南関東海峡に注いでいたのが太日川です。この太日川の下流部分というのは現在の江戸川の流路で、現在はこの流路が埼玉県と千葉県の境界となっています。現在の江戸川は古河市の山王で利根川から分流する河川ですが、古代においては利根川はこの地点よりも東で南へ折れて南関東海峡へ向かっていましたから、太日川を山王から更に遡る流れは現在の利根川の流路と重なってはいますが、利根川とは別の独立した河川でした。
現在の利根川を古河市の山王から東へ遡ると古河市の中田で渡良瀬川が北西から合流してきますが、この渡良瀬川から中田・山王間の利根川、そして江戸川を繋げた流路こそが古代における太日川の流路なのです。古代における利根川は川俣で南へ向かっていましたから、川俣と中田の間の流路は江戸時代の治水工事で開削して利根川と太日川を繋げたものであって、古代においては存在しておらず、また当然ながら山王より東の利根川の流路も更に太日川と鬼怒川を繋げて利根川や太日川の流水を鬼怒川を介して犬吠埼から太平洋に逃がそうという目的のために江戸時代に人工的に作られたものですから、古代においては存在しませんでした。
つまり、上野国と下野国の境にある皇海山を水源として足尾山地の北を流れた後、上野国と下野国の境界部である両毛地方、すなわち桐生、足利、佐野、館林を流れ、渡良瀬遊水地を経て南下して下総国の低湿地帯に入り、古河を経て更に南下して野田の辺りで南関東海峡に注いでいたのが太日川であったのです。
この太日川は両毛地方においては南東部の関東平野北西端部に広がる利根川水系の多くの支流と隣接する形で流れていましたので、これらと密接に連絡しており、弥生時代においても関東平野の北西端部の利根川水系に広がっていた出雲系氏族の農村共同体はこの両毛地方にも波及し、一体となって地域共同体を形成していました。

また古代においては古河市の山王付近で田心川という川が北から太日川に合流していました。この田心川を北へ遡っていくと下野国南部の小山に至り、更に北西に遡り都賀や鹿沼を経て上野国との境界部の足尾山地の水源まで遡ることが出来ます。この流れは現在は思川といって、小山からは南西に流れて渡良瀬遊水地で渡良瀬川に注いでいますが、この部分は江戸時代の治水工事で作られたもので、古代においては小山からは下総の古河方面へ南下して太日川に注いでいたのでした。
この田心川に小山の北で注いでいた姿川は下野国中央の宇都宮市の北西部の水源から南下してくる河川ですが、この姿川は東を流れる鬼怒川の支流で下野国北西部の日光を水源として宇都宮の中心部を流れる田川とずっと並行して流れており、田川を介して宇都宮付近で鬼怒川水系と連絡が十分に可能となっています。
日光から宇都宮を通って流れてきた田川は更に真っ直ぐ南下して下野国の南端部で東を並行して流れてきた鬼怒川と合流しますが、鬼怒川は江戸時代以降の名称で、古代においてはこの川は毛野川といいまして、だいたい下総国と常陸国の境界部の低湿地帯を流れて守谷あたりで南関東海峡に注いでいました。
この毛野川を田川との合流点から更に上流へ遡っていくと、宇都宮の西を北上してから西へ行き、日光の東で大谷川の合流を受けます。大谷川を遡ると日光を経て下野国の北西部の日光連山地域に入っていき中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝に至ります。ここから尾根伝いに渡良瀬川の最上流部と連絡することが出来ます。
大谷川の合流点から更に毛野川を北へ遡っていくと、鬼怒川温泉を通って下野国の北端部にまで至り、ここで山王峠を歩いて越えれば陸奥国の南端部に入り、阿賀川の最上流部に乗り換えることが出来、これを下っていくと会津若松を経て越後国へ入り、阿賀野川となって新潟湾に注ぐのです。

このように、下総国において南関東海峡に河口を隣接して注ぐ利根川、太日川、毛野川はそれぞれ内陸の平野部や山岳部でも密接に連絡し合い、また利根川も毛野川も最上流部では新潟湾からの信濃川や阿賀野川の内陸河川ルートと連絡しているという点で共通しており、それぞれ上野国や下野国の北部の山岳地帯の落葉広葉樹林帯の狩猟民の人口資源を背景にして、関東平野の北端部である上野国や下野国の南部の前橋、高崎、安中、富岡、藤岡、伊勢崎、太田、桐生、足利、佐野、館林、小山、宇都宮のあたりには紀元前250年以降の弥生時代には出雲系氏族の開拓した水田稲作を基盤とした農村共同体が生まれ、それが統合されていったと思われます。
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