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日本史についての雑文その259 毛野国
この利根川、太日川、毛野川の流域一帯は一体となった文化圏を形成しており、これを毛野国といいました。毛野川は毛野国を流れるから毛野川というのです。「毛野国」は「毛の国」であり、もともとは「毛人国」で、この名を名づけたのは3世紀に進出してきた大和王権で、その名の由来は「毛人の住む国」です。
糸静線より東の東北日本の住民のことを大和王権の人間は「蝦夷(えみし)」と呼んだわけですが、「えみし」を「蝦夷」という漢字で表記するようになったのは7世紀以降のことであり、それ以前は「毛人」と書いて「えみし」と読んでいました。

北九州で本格的に漢字が使用されるようになったのはおそらく紀元前100年以降のことで、大和王権が畿内で成立した3世紀には王権の中枢部や交易商人たちの間では漢字は使用されていたでしょう。紙を使用しての公文書などを作成するようになるのはおそらく4世紀初頭ぐらいからであろうと思われますが、商取引や外交交渉の場でのコミュニケーション手段の一つとしての漢字使用はもっと早くから行われていたと思います。
ですから、「毛人」と書いて「えみし」と読むという習慣は既に3世紀には確立していたと思われます。いや、そもそも大和王権の人間が最初に東北日本の住民と接触したのがおそらく3世紀のことであったので、この時に彼らを「えみし」と呼び、それに「毛人」という漢字をあてるようになったのでしょう。

カナ文字が発明されるのは平安時代ですから、それ以前の時代は和語の単語を表記する場合は何らかの漢字をあてなければいけませんでした。ただ普通は和語の音と同じ音で発音する漢字をあてることが多く、例えば「あ」は「阿」という漢字をあてるというような感じです。
しかし「毛人」にしても「蝦夷」にしても、その漢字そのものには「えみし」という発音に繋がる読み方は見受けられません。完全に「当て字」というやつです。これはどうしてなのかというと、おそらく「えみし」が和語ではないからなのでしょう。つまり西南日本の倭国の言葉ではなく、東北日本の土着民自身の言葉であったのでしょう。アイヌ人はこの東北日本の土着民と同系統の民族に起源を持つ民族ですが、そのアイヌ人の一派である樺太アイヌ人の言葉で「人」を意味する言葉は「encu」であり「えみし」に音が似ていますので、おそらく「えみし」とは東北日本の土着語で彼ら自身の自称であり「人間」という意味の言葉だったのでしょう。
このように、この「えみし」という言葉は大和王権の人間にとっては外来語であったので、おそらく大和王権の人々はそれに律儀に正確な漢字の同じ音をあてていく必要を感じなかったのではないかと思います。つまり、和語であればシナ人や朝鮮人にも元来の発音を維持したまま発音させることが重要であり、そうしなければ和語のオリジナルの発音はシナ語の発音に置き換えられて廃れていってしまうのです。だから漢字で表記する際に音が変わらないように気を遣ったのです。しかし和語でないのならばそんな気遣いをする必要などありません。それよりも意味が通じたほうがいいわけです。
和語ならばその音自体に倭人にとっては重要な意味、すなわち言霊が込められているわけで、その音を変えられるわけにはいかなかったのですが、和語でない「えみし」の音そのものは倭人にとっては何の意味も無いものであるし、そもそも意味自体が理解できないものです。ならばいっそ東北日本の土着民そのものの特徴を表現する漢字の文字をあててしまったほうがよほど意味が通じやすくなります。そういうわけで「毛人」や「蝦夷」という文字があてられたのでしょう。
「毛人」というのは単純に「毛の多い人」という意味でしょう。これが「体毛が濃い人」という意味なのか「髪の毛が長い人」という意味なのかよく分かりません。確かにアイヌ人は体毛が濃いので、古代における純粋の蝦夷も体毛が濃かったのかもしれません。あるいは髪の毛を伸ばして結ばない風習であったのかもしれません。
あるいは「毛人=毛の多い人」が「髭が長い人」という意味であったとするならば、「蝦夷」の「蝦」は「えび(海老)」のことで、海老は髭が長く伸びており、「夷」が野蛮人という意味であるので「蝦夷」は「海老のように髭が長い野蛮人」という意味となり、「毛人」と「蝦夷」の意味が合致します。

とにかく、このように「毛人」とは大和王権から見て糸静線より東の東北日本に住む蝦夷のことであり、「毛人国」とは「蝦夷の住む国」であり、それが「毛の国」となり「毛野国」となったのです。つまり、利根川、太日川、毛野川の中流域の関東平野の北端部の地域共同体には蝦夷が多く住んでいるというふうに3世紀の大和王権は認識していたということになります。
蝦夷とは東北日本の土着の縄文人に出雲系氏族が混血したものであったわけですから、この関東平野の北端部の利根川、太日川、毛野川の中流域は関東地方で最も早く、かつ継続的に出雲系氏族による開拓が行われた地であり、ここにはまさしく蝦夷が非常に数多く居住していたことになり、まさに「蝦夷の住む国」=「毛野国」と呼ぶのに相応しい地ということになります。

3世紀の大和王権は関東地方への進出は太平洋岸の海路で行っていったので、房総島から北上していくルートをとり、この頃は既に南関東海峡は古鬼怒湾と江戸湾に分断されており、房総島は島ではなく低湿地帯で本州と繋がった半島となっていたのですが、その北岸の大部分は古鬼怒湾に面しており、大和王権の毛野国への進出はまずは古鬼怒湾を北上しての進出となりました。
そうなると古鬼怒湾に注ぐ河川で毛野国へ遡る河川は毛野川ということになります。いや、古鬼怒湾から毛野国へ遡る、大和王権にとって毛野国への入り口にあたる河川であるからこそ、この河川を「毛野川」と呼ぶようになったのでしょう。この「毛野川」が後に江戸時代になって「鬼怒川」と呼ばれるようになり、江戸時代の当初は鬼怒川が現在の利根川の下流の流路を流れて犬吠埼で太平洋に注いでいたのですが、河川付け替え工事などで利根川が犬吠埼まで流れるようになり、鬼怒川はその新利根川に注ぐ支流になるのです。

この毛野国は大雑把に分けると、白根山、錫ヶ岳、皇海山、足尾山地などの南北に連なる山々の西の利根川水系のエリアと、東の毛野川水系のエリアに分かれることになり、これらを合わせた毛野国の全般には大和王権の勢力の進出は3世紀から7世紀前半まで徐々に進められていきました。これが非常にゆっくりであったのは、大和王権がまだ関東への進出にはあまり熱心ではなかったということと、毛野国では土着の出雲系氏族の勢力が強く、協調的にゆっくりとした進出とならざるを得なかったのであり、またそうしたゆっくりとした進出で大和王権として全く困ることも無かったからです。
こうした緩やかな進出を行っていった大和王権系の氏族がミマキイリヒコ大王の長男であったトヨキイリヒコを始祖とする毛野氏だといわれています。毛野氏は吉備氏や筑紫氏と並んで古代の大豪族であったとされていますが、これらは大和王権内の半独立国のような大地方勢力を束ねる氏族ばかりであり、毛野氏もそういう姿が実態であり、毛野氏を代表として推戴する毛野国は大和王権に対してかなり独立性が高い地方勢力であったと思われます。
毛野氏は皇族系の氏族ということになっていますが、元来はそうであったのかもしれませんが、毛野国の土着の出雲系氏族の連合の上に乗るような形が実態であり、かなり現地勢力と協調的かつ妥協的で、現地氏族と密接に一体化した存在であったと思われます。
5世紀前半のオオサザキ大王の時代には大和王権は毛野国を白根山、錫ヶ岳、皇海山、足尾山地などのラインで東西に分割し、西側の利根川水系エリアを「上毛野国(かみつけのくに)」、東側の毛野川水系エリアを「下毛野国(しもつけのくに)」と呼ぶようになりました。同時に毛野氏も上毛野国に居住する「上毛野氏」と、下毛野国に居住する「下毛野氏」に分かれるようになりましたが、緩やかな進出という基本的構図は変わりませんでした。
しかし7世紀後半になって東アジアの国際情勢の変化を受けて大和王権が朝鮮半島重視政策を改めて東向き政策に転じ、従来、大和王権(倭国)によって「ひのもと(日本)」と呼ばれてきた蝦夷居住エリアである関東や東北への本格的な進出を志向するようになり、国号も「日本(ひのもと)」と改めました。
それに伴って関東地方についても毛野氏を通じた間接的な統治のやり方をやめて中央集権制による直接統治を志向するようになると大和王権、いや新生「日本」による関東進出は本格化するようになり、毛野国にもきめ細かな進出や開発を行っていくようになったのです。

ちなみに古代の令制国の名で「上」とか「下」とか、「前」とか「中」とか「後」という文字が入っている場合は、これは畿内から見て近いほうが「上」や「前」、遠いほうが「下」や「後」ということになります。ただし、この近いとか遠いとかいうのは距離的なものではなく、畿内からの陸路や海路などの経路において先に通る地が「上」「前」で、後で通る地が「下」「後」ということになります。
5世紀の段階では畿内から毛野国へ行くには信濃から碓氷峠を越えて行くというのが一般的経路でしたから、先に毛野国の西半分の利根川水系エリアを通ることになりますから、そちらのほうを「上毛野国」と呼ぶようになり、そしてその東にある毛野川水系エリアを「下毛野国」と呼ぶようになったのです。
そして、713年に出された布告で、令制国の名を漢字二文字に統一するようになり、最初は「上毛野国」は「上毛国(かみつけのくに)」となり、「下毛野国」は「下毛国(しもつけのくに)」となる予定でした。読みに沿った漢字二文字にするのなら、このように「野」を省くのが最も適切だったからです。
しかし、「下毛国」というのは「下毛の国」、つまり「陰毛の国」という意味になり、あまりに印象が悪いため、「野」ではなく「毛」のほうを省いて「下野国」と書いて「しもつけのくに」と読むようにしたのです。そして「上毛野国」のほうもそれに倣って「上野国」と書いて「かみつけのくに」と読むようにし、それが後に転訛して「こうずけのくに」と読まれるようになったのです。

上野国の一宮は富岡市の一ノ宮町にある貫前神社(ぬきさきじんじゃ)です。貫前神社は碓氷峠の南にある荒船山から流れて高崎で烏川に合流する鏑川の上流沿いにある神社で、祭神は経津主命です。経津主命は石上神宮で物部氏によって祀られていた布都御魂と同じ神であり、その神格は刀剣の神で、もともとは物部氏の祭神であったと思われます。
しかし関東地方においてはこの神は下総国一宮の香取神宮の祭神としての意味合いのほうが強く、ここの祭祀を担当していたのが中臣氏で、この香取神宮やそのすぐ北東にあった鹿島神宮は大和王権の関東進出の拠点で、この地においては香取神宮の経津主命も、鹿島神宮の祭神のタケミカヅチも同一神のように扱われ、共に中臣氏によって祀られました。本来は物部氏の祭神であった経津主命も、この関東の地では中臣氏が大和王権の祭祀を担当したので中臣氏の祭神であったタケミカヅチにその神格を奪われたような形になり、経津主命そのものも中臣氏の祭神のように扱われたのでしょう。
とにかく経津主命は大和王権にとっては関東進出の守護神の役割であったので、その経津主命を祀る神社が一宮として上野国の富岡に建てられたということは、大和王権の勢力が上野国にまで及んだということであり、この富岡の一ノ宮町において経津主命の祭祀が始まったのが650年であるとされていることから、大和王権の勢力が本格的にこの地に進出を開始したのが7世紀半ばのことであったと思われます。

ただ、古書によると、どうやらこの地には「貫前神社」と「抜鉾神社(ぬきほこじんじゃ)」という2つの神社があり、それぞれ別々の祭祀が行われていたのですが、それが後世になって一体化して「貫前神社」となったようなのです。そして経津主命は別名で「抜鉾大神」とされていることからも、もともとは「抜鉾神社」のほうの祭神であったのであり、この地にあった「貫前神社」の祭祀はまた別のものであったということになります。
この一ノ宮町の貫前神社の元宮といわれるのが、碓氷峠から高崎へ流れて烏川に合流する碓氷川の流域の安中市の鷺宮にある咲前神社(さきさきじんじゃ)です。位置的には貫前神社のやや北にあるのですが、社伝によれば、ここでもともとは経津主命の祭祀を行っていたのですが、650年に神託に従って富岡市の一ノ宮町のほうに遷座させ、その後で改めてこの鷺宮の地に香取神宮から経津主命を勧請し、更にオオアナムチとウケモチを祀ったといいます。
つまり、この咲前神社の祭神は経津主命とオオアナムチとウケモチなのです。オオアナムチとウケモチは共に出雲系の神で、大和王権が経津主命と共にわざわざこれらの神を勧請するというのは不自然であり、おそらくはもともとこの鷺宮の地では出雲系氏族によってオオアナムチとウケモチへの祭祀が行われていたのであり、650年の時点でそこに新たに大和王権勢力が経津主命を香取神宮から勧請したというのが真相でしょう。
そして鷺宮の地から出雲系氏族によって一ノ宮町に遷座されたのは経津主命ではなくオオアナムチとウケモチであったのであり、それが「貫前神社」の祭神であったのです。いや、おそらく鷺宮からの遷座という意味で「貫鷺神社」というのが本来の名前であったのでしょう。そして、もともとの鷺宮の神社のほうは「前の鷺宮」という意味で「鷺前神社」あるいは「前鷺神社」という名となり、それが「咲前神社」という名になったのでしょう。この鷺宮から一ノ宮町への「貫鷺神社」の遷座あるいは分社は、おそらく650年より前に出雲系氏族によってなされていたと思われます。

そのようにオオアナムチやウケモチを祀る「貫鷺神社」が存在した富岡市の一ノ宮町の地に650年になって香取神宮から経津主命を勧請して「抜鉾神社」が建てられたのです。おそらく同時期に鷺宮の地にも経津主命の祭祀が勧請されたと思われます。これはつまり、7世紀半ばに大和王権の勢力が上野国の烏川水系の流域に及んできたということなのでしょう。
そうして7世紀半ば以降、一ノ宮町では出雲系の神を祀る「貫鷺神社(貫前神社)」と経津主命を祀る「抜鉾神社」が並立するようになり、鷺宮の地でも「鷺前神社(咲前神社)」における出雲神への祭祀と経津主命への祭祀とが並存するようにありました。
それがいつしか、一ノ宮町のほうでは2つの神社が1つの「貫前神社」に統合されるようになり、祭神も当初は経津主命と出雲神とを両方祀っていたのであろうと思われますが、いつしか出雲神への祭祀が廃れて経津主命への祭祀だけが残ったのでしょう。また、鷺宮においては「咲前神社」において経津主命と出雲神への祭祀をまとめて行うようになったのでしょう。
このように、上野国では古くから出雲系の神への祭祀が行われており、7世紀半ば以降に大和王権の神が祭祀されるようになったのであろうと推測されるのです。それが意味するものは、まず、もともとこの上野国を含む「毛野国」は出雲系氏族を中心とした「毛人(えみし)」の国であるということであり、そして上野国の西部方面に大和王権勢力が本格的に進出してきたのが7世紀半ばのことだということです。
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