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日本史についての雑文その260 赤城山と二荒山
このように、「毛野国」は出雲系氏族を中心とした「毛人(えみし)」の国であり、そしてそこに大和王権勢力が進出してきたということが上野国一宮である貫前神社やその元宮である咲前神社を見ると推測されてきます。そして同様のことは上野国の北部山岳地帯への玄関口である赤城山に関する祭祀からも見てとれます。
赤城山は上野国の中央部に位置するカルデラを持った複式火山で、ただし有史以来噴火の記録はありません。堆積物を調査したところ、どうやらここ2万年ほどは噴火していないようです。赤城山の最高峰は1828m.の黒檜山で、他に駒ケ岳、地蔵岳、長七郎山、鍋割山などの外輪部の山頂に囲まれて中心部にカルデラが広がり、カルデラ内には火山湖の大沼や覚満淵、小沼などがあります。大沼からは沼尾川が流れ出して渋川の北で利根川に注ぎ、小沼からは粕川が流れ出して伊勢崎で利根川に注いでいます。
赤城山と、他に榛名山や妙義山の上野国中部の3つの山は上州三山といってそれぞれ山岳信仰の対象となりましたが、その中でも特に赤城山の赤城神社は有名で、上野国の二宮に数えられています。山頂のカルデラ内に山宮があり、前橋市の二ノ宮町に里宮があったようです。

赤城山が有史以来噴火していないため、その山岳信仰は富士山のような火山神信仰ではなく、普通の山岳信仰となり、水田稲作が行われるようになると次第に水の恵みが重視されるようになり、信仰の対象が山そのものから山頂のカルデラ内の湖である大沼に変わっていきました。本来の祭神は山宮で縄文時代から信仰されていた赤城山の山岳神である赤城大明神でしたが、赤城山の南にある利根川水系の中心地であった前橋あたりで出雲系氏族による水田稲作共同体の開拓が進むようになると、前橋にあった里宮のほうでは赤城大明神に加えて出雲系の開拓神や穀物神が祭祀されるようになっていき、それがまた山宮のほうにも反映されて、赤城神社においては山岳信仰だけでなく出雲神信仰も行われるようになったのです。
赤城神社の里宮は後に神仏習合や修験道の発達によって山宮が重視されるようになるにつれて廃れていくようになり、戦国時代には里宮は北条氏によって滅ぼされ、江戸時代に再建されますが更に廃れていきました。ちなみに現在、前橋市の三夜沢にある赤城神社はもともと三夜沢村明神という神を祀る別の神社に江戸時代になってからトヨキイリヒコを合祀して赤城神社と名づけたという全く別系統の神社です。
本来の赤城神社の伝統を受け継いでいるのは現在、赤城山の山頂カルデラ内の大沼の湖畔にある山宮であり、そこの祭神を見ると、赤城大明神とオオアナムチ、経津主神、トヨキイリヒコ、そして出雲系の食物神であるウケモチやオオゲツヒメ、トヨウケオオカミ、ウカノミタマなどが祀られています。
これらのうち、経津主神とトヨキイリヒコはおそらく7世紀以降に大和王権の持ち込んだ神で、トヨキイリヒコは3世紀前半のミマキイリヒコ大王の第一王子で、トヨキイリヒコがこの地へやって来た際にオオアナムチを祀ったのだと伝えられています。そういう縁があって後にトヨキイリヒコも祀られるようになったのでしょう。実際はオオアナムチ祭祀はトヨキイリヒコがやって来た3世紀よりもずっと前から、紀元前250年以降に出雲系氏族が前橋の開拓を始めた頃から行われていたのであり、3世紀にこの地へやって来たトヨキイリヒコもそのオオアナムチ祭祀に参加したということなのでしょう。

赤城山の一帯は落葉広葉樹の森で、そこには縄文の狩猟採集民が多く住んでいたので、赤城山一帯には山の神に自然の恵みを感謝する山岳信仰が生じました。それは科の国における諏訪大社の祭祀の原型となった八ヶ岳信仰と同じようなものであったでしょう。そういう縄文の山の民の暮らす地に紀元前250年以降に出雲系の開拓民がやって来て、その山岳信仰を取り入れつつ、その山から流れる河川の川下にある里で農村共同体を作って、そこに山岳信仰を里で行うための里宮を作ったのです。赤城山の場合、その里にあたる代表的な川下の地というのが前橋であったのであり、前橋において出雲系開拓民によって里宮が作られて赤城大明神が祀られたのです。そしていつしか、その里宮では出雲系の開拓の守護神であるオオアナムチや農耕神や穀物神であるウケモチなども合祀されるようになったのです。これが赤城神社の祭祀の起こりでしょう。
そして、大和王権の事実上の創始者である3世紀前半のミマキイリヒコ大王が各地に四道将軍を派遣した際に、特に蝦夷(出雲系氏族+縄文土着人)の勢力が強かった関東には別途に第一王子であるトヨキイリヒコを派遣したといわれており、そのトヨキイリヒコに代表される大和王権勢力、すなわち毛野氏が何世紀にもわたって次第に毛野国に浸透していくにつれて、従来の山岳神と出雲神を祭祀するようになって現地と祭祀を一体化していき、最終的には彼ら毛野氏の祖神であるトヨキイリヒコも赤城神社に合祀されたわけですが、この赤城山や前橋のような山宮と川下の里宮の関係、山岳神と開拓神の関係、そして加えて大和王権側の開拓神であるトヨキイリヒコも祀るというパターンと同じパターンのものに下野国の一宮を称する二荒山神社があります。

下野国において一宮を称する二荒山神社には「宇都宮二荒山神社」と「日光二荒山神社」の2つの神社があり、一般にこの2つの神社は全く別の祭祀を行う神社であるとされています。
宇都宮二荒山神社は宇都宮市の中心部で毛野川の支流の田川の流路近くにあり、トヨキイリヒコを主祭神としております。宇都宮という町はこの宇都宮二荒山神社の門前町として形成された町であり、「宇都宮」という名も「一宮」の転訛であるといわれています。ただ「二荒山」という山は宇都宮には無く、この名の由来は日光市にある日光二荒山神社のほうにあります。
その日光二荒山神社は日光市内にある3つの神社があり、日光連山の1つである男体山の山頂にある奥宮、中禅寺湖畔にある中宮祠、日光市街地にある御本社があります。奥宮が男体山にあることからも「二荒山」とは男体山の別名であり、日光二荒山神社は男体山の神「二荒山大神」に対する山岳信仰の神社であるといえます。
現在は日光二荒山神社は日光連山の男体山(標高2486m.)、女峯山(標高2464m.)、太郎山(標高2368m.)の三山を神体山としていますが、元来は男体山の山岳信仰がその起源であったのでしょう。日光連山の最高峰は白根山(標高2578m.)ですが、この白根山や男体山に代表される日光連山の一帯は落葉広葉樹林帯の山林地帯で、縄文時代から狩猟採集民が多く住んでいたと思われ、太郎山の山麓では縄文時代の祭祀遺跡も発見されており、この一帯では縄文時代から山岳神への祭祀が行われていたようです。
その祭祀対象の山の名の由来ですが、「二荒山」と書いて「ふたらやま」と読み、アイヌ語で熊笹を「ふとら」というので、糸静線以北の北関東の原住民である蝦夷もアイヌと起源を同じくする民族ですから熊笹のことを「ふとら」や「ふたら」と言っていた可能性はあり、「熊笹の多く生える山」という意味で「ふらたやま」と名づけていたのかもしれません。それに「二荒山」という漢字をあてるようになり、これが後に「にこうさん」と音読みされて、「日光山」の語源になったといわれています。

こうした男体山への山岳信仰から、その山麓にある中禅寺湖への祭祀が生じるようになったのは、赤城山の山への信仰からカルデラ湖の大沼への信仰が派生したのと同じ現象で、出雲系開拓民がもたらした水田稲作の里における普及によって、河川の水源への信仰が生じたからです。
その中禅寺湖を水源とする河川が大谷川であり、またその大谷川が注ぐ河川が毛野川(鬼怒川)でありました。そして、大谷川の流れる地にある農村共同体、すなわち「里」にあたったのが現在の日光市街地のあたりであり、ここに出雲系開拓民が男体山(二荒山)の神を祀る「里宮」としての日光二荒山神社の御本社が作られるようになったのです。また、中禅寺湖から大谷川を経て毛野川の流域にある「里」が現在の宇都宮市街地のあたりであったのであり、ここにも同様に「里宮」が作られ、それが宇都宮二荒山神社の起源となったのです。
そうして里宮で男体山の神である「二荒山大神」への祭祀が行われているうちに、農村共同体の開拓の守護神としての出雲系の神への信仰も生じて、里宮で出雲系の神も合祀されるようになってきました。日光二荒山神社のほうでは「二荒山大神」の正体としてオオアナムチがあてられ、後にオオアナムチと田心姫命(宗像三女神の1人)、アジスキタカヒコネの三神がそれぞれ男体山、女峯山、太郎山の神とされて、それらを総称して「二荒山大神」とされるようになりました。ただこのような三神が三山に対応するような形式は12世紀以降の考え方であり、元来は単に「二荒山大神=オオアナムチ」という構図であったようです。
もちろん、これも本当に「二荒山大神」がオオアナムチであったというわけではなく、もともと男体山の山岳神である「二荒山大神」への祭祀が行われていた日光市の里宮で開拓神オオアナムチも合祀されるようになり、そうしているうちにこの両神が同一視されるようになったということです。だから元来は別の神なのです。

日光二荒山神社の社伝では、神社の起源としては8世紀半ばに勝道という高僧がまず里宮を開き、次いで奥宮を開いたとされていますが、これはあくまで修験道の霊場としての二荒山の開山伝承であり、それ以前から二荒山の祭祀は行われており、それは縄文にまで遡るもので、奥宮から始まり里宮へ波及していったというのが実際のところでしょう。
むしろ、この社伝で出てくる勝道が下毛野氏の氏寺の修行僧であったことから、この神社の祭祀には8世紀以前から既に下毛野氏が関与していたと推測され、それは5世紀前半の毛野氏の上下両氏の分裂以前は、毛野氏によって日光の地の「二荒山大神」への祭祀が行われていたということになります。
一方、宇都宮二荒山神社のほうの祭祀を担ってきたのは宇都宮氏ですが、宇都宮氏は平安時代後期の前九年の役での功によってこの宇都宮の地を支配するようになってのであり、それ以前は下毛野氏ないいしはその姻戚者であったとされており、また宇都宮氏自体に下毛野氏の末裔説もあり、とにかく本来は下毛野氏が祭祀を担ってきた神社であるようです。

実際、社伝によれば、5世紀前半のオオサザキ大王の時代に毛野国が上毛野国と下毛野国に分割され、毛野国に勢力を有していた毛野氏も上毛野氏と下毛野氏に分かれたのですが、その際に下毛野氏の開祖となった奈良別王が曽祖父であり毛野氏の祖であったトヨキイリヒコを祀ったのが宇都宮二荒山神社の起源であるとされており、それゆえ主祭神もトヨキイリヒコとされているのです。
しかし同時に社伝では、その5世紀前半の時点で既にオオモノヌシが祀られていたとされ、オオモノヌシを祀ったのはトヨキイリヒコであるとされていますから、それは3世紀前半のことになります。ただ、トヨキイリヒコが出雲系の神であるオオモノヌシの祭祀をわざわざ持ち込む必然性は無いので、おそらくはトヨキイリヒコがやって来る以前からこの宇都宮の地では出雲神への祭祀があり、トヨキイリヒコはその祭祀に参加しただけであったということなのでしょう。
ただ、オオモノヌシは大和の三輪山の神で、出雲系の神ではありますが、大和地方で信仰されていた神ではあります。そもそもオオモノヌシを三輪山で祀るように形を整えたのはトヨキイリヒコを関東に派遣した父のミマキイリヒコ大王なのですから、その子であるトヨキイリヒコが大和から関東にオオモノヌシ祭祀を持ち込むということは有り得ることだともいえます。
また、オオモノヌシは現在は宇都宮二荒山神社の相殿に祀られていますが、同じく相殿にはコトシロヌシも祀られており、これも元来は出雲神ですが、賀茂氏など大和地方に居住していた出雲系氏族によっても祭祀されていた神であり、これもまたオオモノヌシ同様に大和の人々にとっても馴染みのある神ではありました。だから、このコトシロヌシもトヨキイリヒコが大和から持ち込んだ可能性はあります。
ただ、宇都宮二荒山神社の祭神については、他にもオオアナムチやアジスキタカヒコネ、ヌナカワヒメ、タケミナカタとする説もあり、オオモノヌシもオオアナムチの和魂であり、コトシロヌシやアジスキタカヒコネやタケミナカタもオオアナムチの子であり、ヌナカワヒメはオオアナムチの妻であり、タケミナカタやヌナカワヒメとなると上越や信濃の土着神であり大和とは無関係の出雲神ですから、やはり宇都宮の地にはもともとオオアナムチに関する祭祀が行われていて、むしろトヨキイリヒコがそうした状況に対応して、現地の出雲系の蝦夷も新来の大和人も両方が抵抗なく祭祀できる神として、出雲系の大和神であるオオモノヌシやコトシロヌシを持ち込んだのかもしれません。

ともかく、おそらくは紀元前250年以降に西の信州方面や北の中越方面から出雲系氏族が北関東に進出して開拓を始めた頃から、この宇都宮の地にはオオアナムチをはじめとした出雲神への祭祀が行われていたのであり、それが「二荒山神社」の祭祀として伝わっている以上、宇都宮にあった二荒山神社の里宮で出雲神への祭祀も行われていたと思われます。
宇都宮には二荒山という山が存在しないにもかかわらず「二荒山神社」という名の神社が存在する以上、それは日光連山の二荒山(男体山)の神である「二荒山大神」を祀るための里宮であったはずなのです。実際、宇都宮は二荒山の山麓の中禅寺湖から流れ出る川の川下に開拓された農村共同体が原型となった町なのです。
つまり、宇都宮二荒山神社の祭神であったオオアナムチも実は後に合祀されたものであり、宇都宮二荒山神社の弥生時代に遡る原初の祭神はやはり男体山の神である「二荒山大神」であり、日光二荒山神社と同じ祭祀であったのであろうと思われるのです。ただ、その上にやがてオオアナムチ、オオモノヌシなどの祭祀が重なり、更に5世紀以降は新たな主祭神として毛野氏の祖神のトヨキイリヒコ祭祀まで加わり、日光連山から遠いということもあり、次第にこの宇都宮の地では山岳信仰は廃れるようになって、現在のようなトヨキイリヒコを主祭神として相殿にオオモノヌシやコトシロヌシを祀る形態となったのでしょう。

ここで注目すべきは、上野国の赤城神社などでは7世紀半ば以降に祭祀されるようになったトヨキイリヒコのような大和王権ゆかりの神が、この下野国の宇都宮では5世紀前半に祭祀が行われ始めていることです。つまり毛野国の東部のほうが西部よりも大和王権勢力の浸透が早かったということであり、トヨキイリヒコを祖とする毛野氏をはじめとした大和王権勢力は東の下総や常陸方面から進出してきて、まずは日光連山の東の関東平野北端部の宇都宮や小山などの毛野川流域地方から居住していったのだろうと思われます。
いや、毛野氏が「毛の国(毛人国)」で最初に進出していった河川であるから「毛野川」と名づけられたのであり、その「毛野氏」自体が「毛の国」に最初に進出した氏族であるから、あるいは「毛野川」の流域に住み着いた氏族であるからという理由で「毛野氏」と呼ばれるようになったのでしょう。
その「毛の国」「毛人国」の名の由来は、「毛人(蝦夷)の住む国」であり、この毛野川の中流域、そして更に西の利根川や太日川の中流域の地域には出雲系氏族と縄文系土着人の混血である糸静線以東の東北日本の住民である毛人(蝦夷)が紀元前250年以降は農村共同体を形成して多く住んでいたということになります。
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