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日本史についての雑文その261 武蔵国
このように、紀元前250年以降に西から内陸路(後の東山道)でやって来て定住していた出雲系の毛人の住む北関東の領域に、3世紀以降、海路(後の東海道)で南関東へやって来て鹿島灘まで達して、そこから転じて東から北関東へアプローチしてきた大和王権勢力という構図は、毛野国の南側、毛野川や利根川などが南関東海峡に注ぐ下流域の低湿地帯の東側の地域でも同様でした。
この大和王権勢力側から見た利根川下流域より東に広がる土地、そして伊勢崎や館林などの毛野国南部の南を東行する利根川中流域よりも南の土地は、後に「武蔵国」と呼ばれるようになるのですが、もともとは「无耶志国」や「无射志国」と表記し、この文字そのものには特に意味は無く単なる当て字であり、「むさし国」という音に意味があります。「むさし国」とは「むさしい国」「むさ苦しい国」という意味で、乱雑な感じの土地で、沼沢地や湿地が多いゴチャゴチャした土地を表します。
武蔵国の全体を見ると、西部には山岳地帯があり、中部には武蔵野台地があり、決して沼沢地や湿地ばかりというわけではないのですが、この「むさし」という地名は大和王権によって名づけられたものですからここでは大和王権側の視点が重要なわけで、大和王権はこの地に対しては東からアプローチするわけですから、武蔵国の場合は東部の印象がそのまま全体的な印象となり、それが国名になってしまったのです。実際、武蔵国の東部は古代においては利根川や荒川、入間川の下流が流れ、沼沢地や湿地がありながらその間に大宮台地や武蔵野台地東端の舌状地形が入り組み、まさにゴチャゴチャとして乱雑な、むさ苦しい土地でした。

東からやって来た大和王権の人々はいきなりこのような乱雑な土地が現れたものですからガッカリして「むさし国」と名づけて開発は遠慮するようになり、それよりもその北部にある「毛野国」のほうが毛人も多く住んでおり魅力的な土地でしたので、まずは「毛野国」への進出を優先したのでした。
ただ、その乱雑な土地の西側、武蔵国の中部や西部の山岳地や台地には、ちゃんと出雲系の毛人たちは住んでいたのですが、そこに至るにはその東の沼沢地や湿地を開拓しなければいけないわけで、それは大和王権勢力が関東へ進出し始めた3世紀ぐらいの技術力では大変に困難を伴うことであったので、敬遠されたのです。
そういった技術的問題に加えて、4世紀半ばから大和王権が朝鮮半島進出など西向きのベクトルを強めるようになったので、武蔵国への進出は進みませんでした。大和王権が武蔵国へ本格的に進出するようになるのは7世紀後半になってからのことです。
それ以前の武蔵国には既に古くから、毛野国がそうであったのと同様に、紀元前250年以降に信濃方面、そしてまた甲斐方面から出雲系氏族が進出してきていました。また、それ以前から西部の山岳地帯の落葉広葉樹林帯には縄文の狩猟採集民たちが多く暮らしていたと思われます。まずは、そうした縄文人集落に西からアプローチしてきた出雲系氏族たちが辿ってきたであろう内陸河川ルートを見ていきたいと思います。

武蔵国はほぼ現在の埼玉県と東京都の全域と、神奈川県の川崎市全域と横浜市のほぼ全域に相当する広大な領域でした。
まず武蔵国の北端の、上野国との境界部を流れるのは神流川で、これが利根川に合流して東へ流れます。この神流川と利根川が武蔵国の北辺の国境線を形成します。そして武蔵国の西辺は神流川の上流部の南から始まるくねくねと曲がりくねった関東山地南部の秩父山地の山稜線を南へと辿っていき、南端は高尾山まで至るその延長線によって信濃や甲斐、相模との国境線を形成し、その高尾山から東南へ流れる境川が武蔵国の南辺の国境線を形成し、その南辺の国境線は最後は境川から離れて三浦半島の北の江戸湾に抜けます。
三浦半島の北から現在よりはかなり内陸に複雑に入り組んだ江戸湾西岸の海岸線が武蔵国の東辺の国境線となり、吉川あたりで江戸湾に注ぐ古利根川の下流部が武蔵国の東辺の国境線の北半を形成し、遡って川俣にまで至り、北辺の国境線に繋がります。
このような国境線に囲まれた武蔵国の西部は落葉広葉樹林帯の山岳地帯で、中部は武蔵野台地が広がり、東部は武蔵野台地や大宮台地の東辺が舌状台地となって細かく伸びて、その間に江戸湾が入り込んだり低湿地帯が形成されたりする複雑な地形を形成していました。

現在の東京23区や埼玉県南西部はこの武蔵国東部に相当しますが、こういう起伏の激しい地形であったので「谷」や「坂」というものがとても多く、渋谷、赤坂、四谷、鶯谷、幡ヶ谷、宮益坂、道玄坂、神楽坂、市ヶ谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、荻窪、溜池、日比谷、乃木坂、富ヶ谷、世田谷、中野坂、成子坂、団子坂、雑司ヶ谷、阿佐ヶ谷のような23区内の地名や、熊谷や鳩ヶ谷や越谷、川越市の古谷、富士見市の貝塚、所沢市の坂之下や亀ケ谷や牛沼、さいたま市の見沼や蓮沼や大谷や染谷や不動谷や太田窪や大門坂などのような地名は、起伏に富んでおり場所によっては湿地帯や海が入り込んでいたような地形の名残を留めるものとなっています。
武蔵野台地は武蔵国中部、すなわち関東平野西部のうち、北に荒川、南に多摩川に挟まれた地域に広がる台地で、多摩川の分流が形成した扇状地の上に富士山由来の火山灰土である関東ローム層が乗っかったもので、北端は川越市で、所沢や狭山、立川、府中、調布、国立、昭島、青梅、武蔵村山、小金井、武蔵野あたりが中心ですが、更に東に細い舌状台地を伸ばしており、田園調布や目黒、渋谷、本郷、豊島、成増などはこうした舌状台地によって形成された土地であり、それらの周囲には谷地や低湿地、海などが複雑に入り組んでいました。現在の皇居(江戸城)や上野公園の存在する地はそうした舌状台地の東端の尖端部に位置していたのです。
よって、現在の皇居や上野公園よりも東の地は古代においては江戸湾が入り込んできていたのであり、その江戸湾は、川口を南端として浦和、大宮、上尾などを含む大宮台地の西は所沢の武蔵野台地の東側にまで入り込んでいたのであり、また大宮台地の東へは最北は大宮市街地の東にまで入り込んで、そのまま江戸湾の海岸線は越谷や吉川へ向かい、太古においてはそのまま下総国の野田や守谷を通って常陸国の筑波や水戸方面へ伸びて太平洋に達して南関東海峡の北岸の海岸線となっていましたが、弥生時代においてはおそらく吉川の利根川や野田の太日川の河口部あたりの土砂の堆積で野田と流山の間の海峡が埋め立てられ江戸湾が形成されていたので、江戸湾の海岸線は南へ転じて流山や松戸の西を通って船橋の西にてほぼ現在の東京湾の海岸線に戻るようになっていたと思われます。
現在の皇居の地は古代においては武蔵野台地から伸びた細長い舌状台地の先端であり、戦国時代に扇谷上杉家の家老であった太田道灌が築いた江戸城というのは江戸湾に突き出た岬の上にあったわけです。そこに移封してきて本拠地を構えたのが徳川家康であり、家康はこの江戸城を中心として関東平野の大改造に乗り出すことになるのですが、つまりはそれ以前は現在の東京の中心部というのは、極めて居住性の低い不便な土地であったのです。

さて、このように武蔵野台地よりも東にある江戸湾北部には主要な河川だけでも利根川、太日川、荒川、入間川などが集中して流れ注ぎ、江戸湾は浦賀水道という狭い開口部で相模灘と繋がる極めて閉鎖的な海域であるために、江戸湾は干潟や潟湖となりやすく、これらの河川の下流部は水はけの悪い低湿地帯が広がっていました。そこに上流部で大雨が降るとすぐにこの下流域は河川が氾濫して川の水が溢れ出して洪水となり、洪水が引くとこれらの河川の流路は変更していることがしばしばでした。
ですから、ここで述べている利根川、太日川、荒川、入間川、またそれに加えて毛野川などの下流部の流路というのは一応のものであり、実際は長い年月の間に何度も流路を変えており、時にはこれらの河川同士で流路を共有していたりもしていたのです。
このように、洪水の被害が定期的に発生したうえに地形や水利がしょっちゅう変わるわけですから、農業を行うには困難が伴うわけで、これら河川の下流域である武蔵国東部や下総国北部は、そうした技術的問題が解決しないことには開発は容易ではなく、それゆえ大和王権としては洪水被害も比較的少なく河川流路も安定している北方の毛野国への進出のほうをまずは優先することになったのです。
一方、これらの武蔵国の河川の上流域のほうもまた毛野国と同様、安定した地域でしたので、紀元前250年以降の弥生時代において西から、つまり川上方面から進出してきた出雲系氏族にとっては障害というものは無く住みよい土地であったので農村共同体を築いていったようです。
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